スポイルのベクトル(続)

 
 ある日、保育園から坊を連れて帰ろうとすると、ユースケくんは、自分も一緒に連れて帰って欲しい、と頼んだ。
「それで、お母ちゃんが迎えに来るまで、一緒におうちで待ってるんだ」

 私は、お母さんに了解をもらってごらん、もし、お母さんがいいって言ったら、ユースケくん、今度から私がお迎えするから、うちで待っててもいいよ、と答えた。
 ユースケくんの家は、私の坊と同じ母子家庭だった。私は当時学生だったが、同じシングル・マザーとして、もしかしたら彼のお母さんと境遇を理解し合えるかも知れない、と付け加えた。

 数日後、ユースケくんはいつものように坊と一緒に私のところに駆けてきて、決まり悪そうに言った。
「ダメだって言われた」
「そうか、じゃ、仕方ないね」
「お母ちゃん、大学に行ける人は、頭が良いからキライなんだって。お母ちゃんが今、こんなに苦労してるのは、大学に行かなかったからだって、怒り出すんだモン」

 それでもユースケくんは、自分の母親よりも私を慕っているように見えた。私はできるだけ、いろんなアドバイスをした。
 いつも自分の頭で考えるんだよ。お母さんに怒られたときは、どうして怒られたのかをいちいち自分で思い返すんだよ。自分がされてイヤなことは他人にしてはダメだよ。テレビばっかり見ないで本をいっぱい読むんだよ。……

 数年後、ユースケくんは卒園した。保育園の最後の日、彼は私のところにやって来た。
「お別れだね」
 私は、お別れじゃないよ、また会えるよ、と言った。だが彼は、かたくなに繰り返した。
「ううん、もうお別れなんだ」

 小学校に入って、ユースケくんは急速に変わってしまった。いつも退屈そうに時間を持て余し、何に対しても好奇心を見せなくなった。自分よりも弱い、小さな子供たちをいじめるようになった。注意する大人たちに乱暴な罵声を浴びせるようになった。そして私に会うと、さっと眼をそらし、こそこそと逃げるようになった。
 彼の言ったとおり、あのときが本当に「お別れ」だった。

 画像は、ルドン「子供」。
  オディロン・ルドン(Odilon Redon, 1840-1916, French)

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