夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

身を知る雨

2012-06-20 23:02:36 | その他
長雨の季節に毎年思い出す話がある。『伊勢物語』百七段の「身を知る雨」とか「代作の恋」として知られる話である。

在原業平の家に仕えていた女性は若く、恋の歌の詠みかたも知らないのに、藤原敏行が求愛してきた。そこで業平は、和歌を代作し、二人の恋の橋渡しをしてやる。

敏行が、

  つれづれのながめにまさる涙河袖のみひぢて逢ふよしもなし

と詠んできたときには、

  浅みこそ袖はひづらめ涙河身さへ流ると聞かば頼まむ

という歌を、女の代わりに詠む。

また、二人が結婚したのち、敏行が「今日は雨が降りそうなので、あなたのもとに行こうか行くまいか、空模様を見て迷っています。我が身に幸いがあるなら、この雨は降らないでしょうに」と、女のところに行けない由の手紙を送ってきたときには、

  かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身を知る雨は降りぞまされる

という歌を詠んでやったので、敏行は簑も笠も取りあえず、びっしょりと濡れて女のもとに急いでやって来たそうな。


大学入試問題によく採られる文章であり、授業で取り上げても、生徒からの評判がよい話である。

平安時代の貴族は雨が苦手だった。ちょっと雨が降れば川は増水し、道はぬかるんで徒歩でも牛車でも移動は容易でなく、外出は控えたくなるもの。だから、雨を冒してやって来る男の姿は愛情のバロメーターとして、物語などによく出てくる、ということを話してやると、生徒は興味深そうに聞いていた。特に、女子がこの場面は好きだったなあ。


昔、この場面を思い浮かべながら作った歌がある。

  いかにせむ袖よりあまる涙河身も投げつべきものをこそ思へ

あなたに会うことができないので、嘆きのあまり泣く涙を袖で押しとどめることもできず、あふれる涙は川となって、そこに身を投げてしまいそうです、ってありえないだろオイ、という感じなのだが…。