ひまわり先生のちいさな玉手箱

著書「ひまわり先生の幸せの貯金箱〜子どもたち生まれてきてくれてありがとう」

ジョーズ先生からメール

2012年07月31日 | メッセージ
高校時代の恩師、ジョーズ先生こと松尾司先生が、亡くなられました。

72歳、15年半に及ぶ闘病でした。

今年三月、私の父が他界して、数日後でした。

もうすぐ初盆です。

生前、ジョーズ先生を見舞った折に

ALSの怖さ、病名を知ってもらうだけでもありがたいと

おっしゃっておられました。

口にくわえたパイプを何度も吹いて、

一文字ずつ書いてくださったメールをいただきました。

そのまま載せさせていただきます。

2011年2月のメールより

「ALS筋萎縮性側索硬化症患者の記録


僕は平成7年10月(56歳9ヶ月)に発病した。
初期症状は、左手が宙に浮かない事だった。
自動車の運転席から助手席側にあるダッシュボードに
手を伸ばせなくなって気が付いた。
左手は上に挙げることは出来なかった。
左肩関節に痛みは全く無かった。
病院では「アイロン体操」をして、肩関節を使いなさいと言う指示だった。
真面目に1ヶ月取り組んだが効果は無く、
その旨を先生に告げたら、整形外科を紹介されました。
そこでは首のレントゲン写真を撮り、
首の骨(頸椎)が圧迫されているので、
牽引をしましょうと言われました。
首をバンドで固定し、そこから紐を出し天井の滑車を通して、
もう一方の紐に砂袋をぶら下げ頸椎を伸ばす。
砂袋の重さは、初めは1.5kgから始め、
しばらく続けて頸椎が慣れてきたら3kgに増やした。
2ヶ月近く真面目に通うも効果なく、
仕事も忙しくなって来たので通院をやめました。
大学入試のセンター試験が近づき、
文系クラスには地学、理系クラスには化学を教えていたので、
結構忙しく、センター試験が終わったら、
最後の追い込みで二次試験に備え更に忙しくなった。
やっと解放されたのは、生徒が二次試験に行ってからでした。

三軒目に訪ねた整形外科の先生は簡単な問診の後で、
立たせて手足の動きを見て、
神経内科の先生宛ての紹介状を書いてくれました。
そこは個人開業の病院でした。
すぐ,筋肉の信号伝達速度を計測し、
筋電図を採りました。
伝達速度に問題は無く、
筋電図に針状の波形が表れました。
これがALS筋萎縮性側索硬化症の特徴ある波形との説明がありました。
前の病院で頸椎が圧迫されていると診断されたと申し上げたら、
念のため、MRI画像を撮って
結果は異常無しでした。

諫早総合病院の先生から、家族と一緒に来て下さいと
日時を指定されました。
妻と伺うと、医学書のコピーが準備され、
筋萎縮性側索硬化症と書かれていました。
コピーを読む形で説明が進み、
赤鉛筆で「余命5年」の所にアンダーラインを引かれても
ピンとは来なかった。

もし、「人工呼吸器」を着けなかったり「胃ろう」を作らなかったら、
まさしく「余命は4年9ヶ月」だった。
翌日、校長に病名と今後の病状の推移を報告しました。
校長はすぐ僕の自宅のある諫早市周辺で
転勤可能な学校を探してくれましたが、ダメでした。

それは結果的に見てよかった。
まさか、初めての学校で、僕病気ですとも言えないです。

病気をおして仕事平成8年度が始まった。
校長も替わったが、前任の校長が転勤の話をした人事の担当だった方で、
事情は分かつておられるので良かった。
授業は平年の半分の9時間で1年の化学3クラスでした。
生徒には病気のことは何も話さず、普通に授業を始めました。
病気は確実に進行し、6月には右腕も上がらなくなり,
肘を曲げ肩の高さで黒板に字を書くと、
黒板の下半分しか使えないので、
一行でも多く書くため右肩を上げて書いていました。
二学期に教科書の問題を生徒数人に当て、
黒板に書かせたところ”ひょうきんな生徒”が僕の板書スタイルを真似て書き始めたので、
他の生徒はクスクス笑い出した。
僕は気付かないフリをして解答の説明をし、
生徒が写し終わるのを待って
ノート・教科書を閉じさせ、
黒板に下手な字で
筋萎縮性側索硬化症と書き、
今僕はこの病気に罹っていることを告白し、
この病気で近い将来寝たきりになり、
自分では呼吸できなくなり、
食べ物も飲み込めなくなる事を説明しました。

女子生徒は全員、男子生徒は2/3が涙を出しながら聞いてくれました。
先程の、”ひょうきんな生徒”は委員長に連れられて謝りにきました。
が僕が言ってなかったのが悪かったと、
握手をして別れました。

11月にはチョークを持つ指に力が入らなくなり
字が書けなくなりました。
それからの授業は口頭で説明し、
まとめのプリントを渡してノートさせました。
そのプリントは、ワープロで作りますが
キーポードの上に手が浮かないので手を三角巾で吊り、
身体を前後左右に動かして文字を出していた。
答案の採点も同じ方法でしてました。

こうして平成8年度は終わりました。

平成9年度が始まりました。
今年は初めに病気のことを話しました。
筋萎縮性側索硬化症という文字をワープロで打ち出し印刷し、
オーバー・ヘッド・プロジェクターOHP用の透明シートに焼付け、
スクリーンに投影して病気の説明をしました。
授業は、相変わらず口頭で説明し,
まとめのプリントを渡してノートさせ,
それに加えて小テストを実施し、
成績のよくない生徒は放課後、口頭試問を課した。
これが生徒一人一人を理解するのに大いに役に立ちました。

一方、手足の衰えは確実に進行してます。
4月20日には腕がハンドルに上がらなくなり
、自動車の運転をやめました。
それまでは、マイカーで自宅のある諫早市から
職場の長崎北陽台高校のある長与町まで
片道30kmを運転してました。
電車通勤に替えたので、
自宅から諫早駅、
長与駅から長崎北陽台高校までは
タクシーを利用していました。

1ヶ月経った頃,まず隣家の人が気付き
駅まで送ってもらう事になった。
帰りもどうぞといわれたが時間が不規則なので
それは辞退しました。
職場の同僚も気付き、朝は駅で待っててくれ

放課後は駅まで送ってくれました。

忘れもしない、10月20日帰りの電車のシートから立ち上がれなくなり、
隣の人の助けで立ち上がり、
やっとの思いで電車を降りました。
翌日はタクシーで長崎北陽台高校に行き、
校長に昨日の事情を話し、休職を申し出ました。
校長はこの事態を予想して、
次の解決策を考えてくれていました。
朝、僕を自宅まで迎えに行き学校まで送り届ける係り。
放課後、僕を自宅まで送り届ける係りを決め、
既に本人の了解も取ってあることでした。
感謝あるのみです。

これで3月まで通勤の心配が無くなりました。
足の衰えは更に進み、
高さわずか15cmの教壇が上がれず、
高さ7.5cmの箱を作ってもらいやっと教壇に上がれました。
多くの人に支えられて3月を迎え、
58歳で退職しましたが、悔いはありませんでした。

平成10年4月、自宅療養が始まった。
この日のために1500万円を掛け病室を増築しました。
20畳の病室に隣接して洗面所・トイレ、更に隣接して
浴室を直線状に配置し、
天井にレールを埋め込み,
天井走行リフトを設置し、寝たきりになっても
ベッドから浴室・トイレ・洗面所に移動出来るように準備しました。
自宅療養の生活パターンは9時にヘルパーさんが来て、
髭を剃り、電動車椅子に乗せてもらい一日の生活が始まります。
本を読んだり、パソコンを触ったりして過ごしますが、
困ったのはお尻の痛さ。
解決したのはエヤーマットの座布団でした。
風呂はベッドの上で下着を脱ぎ、
リフトで移動しそのまま浴槽に入り、リフトを上げ椅子に座り洗い、
身体を拭き吊り具を替えベッドに移動し更衣する。
トイレは便器の上に移動して済ませる。
下着の上げ下ろしは出来ないので、ズボンの真ん中の縫い目は外しておいた。
温水が出てお尻を洗い、温風でお尻を乾かす。
こうして平成10年は終わりました。

平成11年1月、誤嚥性肺炎を起こし、23日に国立川棚病院に入院し
すぐ「胃ろう」を作りました。
気管切開をして人工呼吸器を着けることを勧められましたが、
自発呼吸は普通だし声を失うのが怖くて断りました。
3月末には退院しました。
自宅療養に戻り、病院ではなんとも無かったのに、
経管栄養を入れると脈拍が120を越え、
それに応じた自発呼吸が出来ず
苦しい思いを,毎食後1~1.5時間していました。
ついに耐え切れず、4月下旬に西諫早病院に入院しました。
2ヵ月後の6月下旬に気管切開をし、
人工呼吸器を着けました。
息苦しさは消え、今までの苦しさは自分の決断力の無さに起因します。
痰の吸引も人工呼吸器を外したら気管に
直接吸引チュウブが入るので、
今までの鼻から吸引チュウブを入れるのに比べると
負担が減りました。
人工呼吸器を着け半月もすると、
かすかな声が出るようになり助かりました。
まだ胸の呼吸筋に力があり、
自分の意志で空気を押し出せた結果、
声が出たのです。
自宅療養に戻りました。
妻の負担は相変わらずで、
痰の吸引・身体の体位交換があります。

ヘルパーさんは朝9時・正午・午後3時・午後6時・夜9時に来てくれますが、
ヘルパーさんは体位交換だけで、
そのとき人工呼吸器を外すのは必ず家族がしなければなりませ
ん。

ヘルパーさんが吸引は勿論、人工呼吸器に触るだけで
医療行為をしたと見なされ、下
手すると首を切られ(解雇)ます。

(今は、ALS患者で在宅患者に限り、
ヘルパーの痰の吸引が認められ、
家族の負担が軽減されたと聞いています。)

風呂は、人工呼吸器を着けたのでヘルパーさんでは対応できず、
専門業者に依頼しました。
看護師1人・ヘルパー2人の3人体制で、
看護師はアンビューで呼吸を確保し、ヘルパー2人が身体を洗う。
浴槽・お湯持参で12500円、
月に4回入ると5万円,
個人の負担は1割の5千円でした。
肺炎が治り退院したときには完全に寝たきりになり、
排便にはゴム便器を使いますが,
妻一人では身体を抱えながらゴム便器を当てることは出来ません。
そこで天井走行リフトに大きな輪を取り付けて、
足をいれ膝の位置でリフトを上げるとお尻が上がり、
楽に便器を当てることが出来、
排便の後始末も楽に済ませることが出来ました。
こうして平成11年も終わりました。

平成12・13年は、
平成11年と変化無く、インペストのため一ヶ月間
12年には西諫早病院に、
13年には長崎医療センターに入院し、
妻の介護つかれの回復を願いましたが、
妻自身が糖尿病と闘いながらの介護だから、
ついに疲れ果ててしまい介護できなくなりましたので、
僕は国立川棚病院に入院しました。

*インペスト:介護者の精神的・肉体的な疲労を回復させるため、
一時的に介護から解放するための入院。

平成14年1月23日に入院しました。
声は15年までは出ましたが、
それ以降は五十音図で意志伝達を行ないました。
すなわち、あ行~わ行に1~10を付け、
あ~おに1~5を付け、
瞬きの回数で行を決め、
次の瞬きの回数で文字を決める。
看護師と家族にはわかるが
、お見舞いの人には判らずに困りました。
その後の妻の回復は思わしくなく、
糖尿病も悪化し、平成17年10月下旬、妻は他界しました。

平成18年1月、1病棟から8病棟に移りました。
ここではインターネットが使え、個人のテレビが持ち込めるので、
パソコン画面を写せるテレビを購入し、
テレビ・パソコン・レッツチャット・プリンターを見やすいように配置し、
9月15日にはインターネットが繋がり、
メールや検索が出来るようになり精神的に充実した生活をしています。」

約14年前、退職されて療養中にご自宅に伺った時は、

自宅で奥様が介護し易いようにと改装された家の中を

車椅子だったジョーズ先生は、案内してくれました。

5年前.看病疲れで、奥様に先立たれたと辛そうにされていた病院では、

先生の腕を摩りながら、一緒に泣きました。

一年前は、目が悪くなられていました。

「近くで顔みせて」の言葉に応えて、近づくと

画面に「ひまわり先生」と、書いてもらい、覚えていてもらいました。

視力が落ちたことで、生き甲斐だったインターネット、メールの楽しみを

奪われてしまって、気落ちされたのだと思います。

ジョーズ先生は、原爆に遭い命の尊さを生徒に伝えたかったし、

校則違反している生徒を本気で追いかけて、

「ジョーズ先生」呼ばわりされたのは、愛情だったと、

親になった今、ようやく分かりました。

寝たきりになっても、希望を持ち続け

ずっと私たち教え子に勇気を与えてくれた

ジョーズ先生、ありがとうございました!

もう、ゆっくり休まれてください。


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2 コメント

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何という偶然!すごい確率! (もりもりマーチ)
2011-02-07 12:31:33
  先日は、お疲れ様でした。
とても、心温まる講演ありがとうございました。本当に、心がぽかぽか、ふんわり何とも言えない心地よい気分の2日間でした。

 今日の、ブログを見てびっくりしました。
私は、仕事で、あるALSの患者さまのご自宅に、訪問リハビリをさせていただいています。

 ジョーズ先生と、同じく人工呼吸器を装着し、パソコンでいろいろな方との交流をされています。
 訪問に行き始めた頃、部屋に飾ってある大きなモノクロの写真(雄大にそして、何とも言えない漲るような自然の息吹が感じる連邦)に心が引き付けられた私は、この写真どうされたんですか?と質問しました。

 すると、同じASLの患者さんが、お元気なころに登山をされている方で、その時にとられた写真を送ってくださった。とのこと。
それから、その写真を通して少しずつ会話をしていき、写真の送り主である方に、魅力を感じ、お会いしてみたいとも思いました。

その願いが、今朝叶いました・・・。
そう、このひまわり先生のブログで・・・。
ブログを見た瞬間、直感で間違いないと感じた私は、思わず受話器を持ち、Uさん宅に電話をしました。
間違いありませんでした。
何という、偶然?!奇跡?!ここで繋がった。
廻るめぐって、人って繋がっているんだ。
私の、幸せの貯金箱がまた一つ、重たくなりました・・・。
ありがとうございます。

 Uさんは、ALSという病気と、共に生きていらっしゃいます。
 音楽をこよなく愛し、あきまどホタルや白嶽(対馬の山)に魅了され、毎日を前向きに、ポジティブにいきていらっしゃいます。
とても、素敵な方で、素敵なご夫婦です。
「二度とない人生だから・・・」を座右の銘に、日常の一見あたりまえのような、小さなことにも幸せを感じられる心を持っていらっしゃいます。
きっと、今頃、ひまわり先生のブログを見られていることと思います。
(了解を得て、書き込みしました)

先生、また幸せをありがとうございます。
もりもりマーチさん (ひまわり先生)
2011-02-07 21:47:50
なんという偶然でしょう!
私は、山岳部時代にジョーズ先生は
若々しく屈強なイメージで
お見舞いのお礼に北アルプスの写真を頂戴しました。
絞りを工夫して撮影されて迫力ある山々で感じ入りました。
また、ALS進行時の教鞭を取られた時の先生の努力を知り、
本当に尊敬するばかりです。
Uさんは、ALS患者の会のカレンダーで拝見した気がします。
もりもりマーチさんのように
周囲の方の理解と支援が深まることを願います。

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