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知殿寮@Net

― 本家「叢林@Net」より暖簾分け ―
現場【フィールドワーク】に根差した曹洞宗法式参究記

室中と家風

2010-04-07 00:18:20 | (法要全般)法要雑学&とりびあ!?

他寮の記事にお寄せいただいたコメントに対する回答を、想うところあって記事にさせていただきます


>そもそも「行持軌範」があるのに、なぜ皆それに従って行持をしないのでしょうか?

う~ん。。。。 そのご意見が意図するところは私もよく理解できます

私の地域も、必ずしも『行持軌範』通りに法要が勤められる訳ではありません。

その地域に伝わる独特の慣習や、そのお寺の堂頭老師(ご住職)の室中・家風によって儀規にも多少異なりが出てきます。法要随喜する側としては、その室中・家風に適宜対応するという形で落ち着いているのが現状です。

『行持軌範』は見てお分かりのように、儀規の細部にわたってまでは詳述しておりません。というか......できないのです その理由にも、それぞれの室中・家風の問題が深く起因しています。

現在の所属先の関係で、『行持軌範』の刊行・編集・改訂作業の経緯を知る一人としては、その詳述しない理由も十分に理解できます。そうは言っても、やはり喧々諤々の議論があって今の形に落ち着いたと言えるでしょう。


>時にうちの室中家風に従って進退すると規範以外の勝手なことをするなと怒鳴られ、時に軌範に従って進退をすると○寺ではそんなことしないと怒られ、挙句の果てに規範が間違っているともまで言い出す始末です。それって規範がどうこうじゃなくて○寺と○寺の対立じゃないかって思うことが多々ありますよ。それは理不尽に当たらないのでしょうか?

実は、コメントをお寄せいただいた翌日の記事に、とある禅僧の言葉を紹介しております。私としては、ここで言う室中・家風の問題を意識して記事にしたつもりなのですが、そもそも室中・家風とはその法系に伝わるプライバシーに関わる問題だと考えています。

しかしそれが、時に我々の怠惰の温床になり兼ねないリスクを前回の記事では指摘しました。

要は、自らの室中に伝わる法(家風)に対して謙虚になる以前に、時にその室中・家風の名を借りて、都合よく法を選り好みする術として機能してしまう恐れ(弊害)があるからです。

それこそ室中に伝わる法(家風)とは、その法系における先人たちが智の結集として積み重ねてきた行の歴史に他なりません。

ここで言う「弊害」とは、時にその過程(先人たちが積み重ねてきた行の歴史)を蔑ろにして、自らの選り好みで法を選択する術に利用されてしまうことを意味します。

それは先人たちの遺徳を汲む以前の問題で、自分にとって都合のよい我見を押し通す怠惰以外の何物でもないでしょう。

その翌日の記事にも触れた「謙虚」という言葉の意味は、その自らの室中に伝わる法に対して、さらにその法を遵守してきた先人たちの行に対して、そして自らの我見に対して謙虚になるという意味で解釈すべきだと思うのです。

そういう意味で「信仰」そのものは謙虚の象徴であって然りだと思いますが、その「信仰」を盾に我見をゴリ押しする姿勢は傲慢以外の何物でもないと考えます。

その立場に立てば、コメントで触れた事例そのものは「理不尽」に該当する可能性が高いと考えます(詳細分かり兼ねますので、あくまでも推測の域における私見ですが)。


>この本来どうでもいいような事で上下関係を維持する室中家風は、そろそろ見直す時期に来ていると思います。

室中・家風というのは、既述もしたように各室のプライバシーが保たれて然るべきものです。まさにそれは先人たちが積み重ねてきた行の歴史であり、経緯はどうあれ、その積み重ねられてきた歴史そのものには敬意を払うべきでしょう。その意味において、宗門では室中・家風を尊重する伝統があるのだと思います。

しかし、時に実際の現場では各々の室中・家風の違いが原因で摩擦が生じることが少なくありません。健全な論争それ自体は否定しませんが、時にそれが感情的なしこりを残すことも少なくないのです。まさに、寄せていただいたコメントが意味する事例はそれでしょう。

私はそうなってしまうと本末転倒だとも思うのです。誤解がないように付け加えれば、私は「論争」それ自体を本末転倒と言っている訳ではありません。それまで「本末転倒」という縛りで括ってしまうと、宗統復古の議論をも否定し兼ねない悪弊を逆に生み出してしまいます

私はこの種の問題を耳にする度、いつも頭を過る教えがございます。それは、先日も記事としてアップした釈尊の「天上天下唯我独尊」という言葉です。

その記事でも触れているように、自らの室中に伝わる法(家風)を尊重するということは、同時に他の室中に伝わる法をも尊重しなければならないということです。

互いに互いの法(室中・家風)を尊重する姿勢があれば、健全な論争が決して無益な不戯論に陥る可能性は無きに等しくなります。敢えて宗門が「健全な論争」を組織をあげて喚起するのであれば、「おらがムラが一番」といったパイの中での話にするのでなく、せめて両祖に回帰するなり、各種清規に遡源するなりの理性を尊重・重視すべきでありましょう。

以前、宗門の伝法儀規に関する事業に携わった際に、一番神経を注ぎ労力を費やしたのはその点でした。各法系に伝わる伝法儀規はそれこそ多岐にわたり、これが正解という回答は見い出せない現実があります。

しかし、その伝法の前提となる伝戒に関しては、かろうじて道元禅師の『仏祖正伝菩薩戒作法』に遡源することが可能です。

その詳細については、以前他寮において詳述しておりますので参考にしていただきたいのですが、せめて室中・家風に関しても「健全な議論」を喚起するのであれば、既述もした「両祖への回帰」、「清規への遡源」といった姿勢をひとつの基準とすべきだと考えます。

話を室中・家風のプライバシーの問題に戻しますが、自らの室中・家風を尊重するのであれば、必然的に他の室中・家風も尊重するという姿勢は既述もした通りです。まさにそれは、釈尊の「天上天下唯我独尊」の精神に倣うものだと考えます。

室中・家風の各儀規が、両祖や清規に立ち返るまでもなく、それぞれの室中の行の歴史に依る部分が大きいならば尚更のことでしょう。是非を判断する術(基準)が無きに等しいならば、それぞれの室中の法は、釈尊の「天上天下唯我独尊」の精神の如く、各々が尊重されて然るべきです。

その立場に立つならば、それに反する事例は全て「理不尽」と規定されても仕方ないのではないでしょうか......。 ふと、以前の記事に頂いたコメントからそのようなことを考えるに至りました

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