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知殿寮@Net

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現場【フィールドワーク】に根差した曹洞宗法式参究記

「回向」とりびあ(其の二)

2007-01-17 16:43:06 | (法要全般)法要雑学&とりびあ!?

前回、「回向」とりびあ(其の一)を掲載したところ、當寮への訪問者の方から以下の様な質問が寄せられました。

>私の教区では随喜寺院がある場合の回向は「現前の清衆を集め」の後に「隣峰の諸大徳を拝招し」と付け加えるよう教えられました。他の教区では句の前後が逆だったり、「そんなことしない」というところもあり、人によっては「最近始まったもので宗門の伝統にはない」と言う方もありますが、一般にはどうなのでしょうか。

今回はそのご質問を受けて、改めて「回向」について考えてみたいと思います。

まず、拙ログでも度々触れてはいますが、「回向」に限らず、法要のあらゆる所作進退に関しては、ある程度の地域差があることは否めない事実かと思われます。

私個人も、それは致し方がない事だと思っており、時にその地域差の中に意外な発見をしたりして、個人的に非常に勉強になる時があります。

極端な場合は除き、いくら『清規』に遡源できなかったからと言っても、周りの和を乱さない程度であれば、その地域のやり方に合わせる姿勢も必要でありましょう。

但し、各種『清規』に遡源できる部分に関しては、可能な限り個人の知識として把握しておく必要はあるかと思われます。

というのも、現在では両本山に限らず、様々な僧堂で修行を積んでこられる方が増加しております。

その様な状況下、ちょっとした儀軌の食い違いが、時に「和」を乱す原因となる時があるからです

また、根拠のない思い込みをもとに、その儀軌を権威として振りかざす例も少なからず報告されています

既述もした、「個人の知識として把握しておく必要がある」という意味は、修行した僧堂や地域差に縛られない、開かれた議論を可能にする前提でもあるのです。

以前、拙ログでも記事にしましたが、今の時代の教育を受けてきた若い世代の方々は、正当性のある議論を経ない場合、時に納得をしてくれない傾向が見受けられます。

『清規』に遡源できる部分があるのであれば、それを踏まえた上でお互い建設的な意見交換をし、その議論を現場に還元する理性も必要となってくるでしょう。

また、『清規』に遡源できない儀軌(口伝)であっても、そこに時空を超えた説得力が伴わなければ、今後淘汰の対象になってしまうかもしれません。

それゆえ、いくら口伝であったとしても、周囲を納得させるだけの意味付けが今後必要になってくるものと思われます。『清規』に明記はなくとも、その儀軌本来の成立主旨との摺り合わせ作業が必要なのです。

その「摺り合わせ作業」をする際のツールとして、「知識」は有効的に機能するものと思われます。

前置きが長くなりましたが、話を「回向」に戻しましょう―。

「回向」に関して言えば、それぞれの基本形は『行持軌範』等に明記はありますが、地域によって何らかの「文言」が付記されていても、それはある意味先人たちが残してくれた「歴史の産物」でもあるので、逆に否定すべきものではないと考えます。

因みに、『曹洞宗全書』・「清規」巻を紐解いてみても、そこに所収されているのが「僧堂清規」等に象徴される山内清規ですので、その回向の殆どは「合山清衆」であるものと思われます(その全てを網羅した訳ではないので、後日時間を掛けて確認できればと思います......)。

また、『禅林象器箋』・「第十七類 諷唱門」掲載の「普回向」・「回向」を確認しても、「回向」の概要に関する記述はありますが、具体的な「回向」の文言に関する掲示はありません。

ゆえに、その「自己の行う善根功徳を廻転して菩提に趣向し、または衆生に施与すること」(『禅学大辞典』)という「回向」本来の主旨に反さない限り、様々な想いが「回向」の文言に反映されることは素晴らしい事だと思います。

ただ、その文言が付された「回向」を「万古不易の真理」の様に捉え、それを根拠に権威を振りかざす術として用いていたのでは本末転倒です。

その意味で、陳腐な表現ではありますが 心を伝える回向を心掛ける ことが重要なのだと思います。

その意味でも、実際に唱える「回向」の意味を理解した上で法要に臨むことが必要でしょう。

「回向」の意味の参究であれば、『曹洞宗回向文講義』(桜井秀雄著、曹洞宗宗務庁、1979年)や、『簡訳 曹洞宗読経偈文全書』(中野東禅編著、四季社、1997年)などが分かり易くてお薦めです。

ご参考までに、ご紹介申し上げます

※文中敬称略。曹洞宗法式参究の進捗状況により、上記内容は適宜更新予定です。

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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失礼いたします。 (tenjin95)
2007-01-22 08:58:44
> 管理人様

なんとなくですが、この「諸方の尊宿」への“配慮”については、或る程度「定型文」である回向文よりも、自由さが許されている香語で対応すべきなのかな?という感じもします。

そもそも、維那は「悦衆」でありますが、それとて住持人の指示によってのはずでありますので、住持人が法要を行うに辺り、その経緯を香語で示されたのであれば、回向で二重反復をする必要はないのではないか?なんて思っています。
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助化師さま (知殿@Net)
2007-01-22 13:20:00
早速のコメントありがとうございます。

> なんとなくですが、この「諸方の尊宿」への“配慮”については、或る程度「定型文」である回向文よりも、自由さが許されている香語で対応すべきなのかな?という感じもします。

確かに一理ありますね

そうした方が、軌範の統一も計れるでしょうし、ご指摘の「回向の二重反復」も解消してすっきりした形になるかもしれません。

今回のような「香語」と「回向」間における二重反復とは例を異にしますが、宣疏を行じた後の疏後回向が簡略化されていることに通じる理屈にもなると思います

もしかしたら、「香語」における導師の想いを敢えて「回向」にて再唱(二重反復)するという事は、読経による功徳を改めて廻向ならしめる意味合いがあるのでしょうか

ちょっと話が脱線しますが、法要冒頭に唱えられる香語に、伝供や読経の前であるののに「茶湯浄粥をそなえ…」とか「○○○を諷誦す…」といった文言が入ることに、「これって、フライング」と感じたことがありました。

もしかしたら、これが法要解説の起源になるのでしょうか
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