欲望を亡きものにしようとする計画は、常に失敗に終わる。
第一に欲望とはわれわれの行動の原因であり、よき指針を示しうるものであるからだ。
そういう意味で欲望を是認したとき自由でありうるのだし、それを否定したのではすべてが行き詰まってしまう。 では、なぜ欲望のまま生きてはいけなく、その時理性が必要とされるのだろうか?
理性は欲望を消すのではなく、檻にそれを一旦閉じ込めるだけのものと見てよい。熊など猛獣の調教師のようなものと思っても差し支えない。それは制御するということだろう。
別の言い方をすれば、時間差で欲望の放出されるべきタイミングを計るのが理性なのだ。結局押し込められたままの欲望は必ず噴火させなければ、われわれは生き辛さのなかにもがくことになる。
欲望の正体は宇宙の爆発である。まあ宇宙がいつまでも膨張しないように、僕らの欲望もいずれ萎んでいくだろう。
つまりは欲望との闘いは、死によってしか終結させることはできないのだが、その間、われわれは欲望を理性によって手懐け、うまくコントロールしていかなければならないってわけだ。そんな当然のとは言え僕にとっては血の滲むような努力を断行することに、生きがいを感じた方が良いと思われる。
ここで欲望を水と措こう。そのとき理性は水道の蛇口のようなもので、どれだけそれをひねるかで、水の出る量がその都度調節されることになるわけだ。
何といっても欲望こそわれわれの生きている動機そのものであるし、理性はあくまでそれが上手く満たされるために、頃合いを見計らったり、作戦を立てる参謀のようなものであると言え、生きているということは、欲望に代表されるような自己内爆発と向き合うことだし、それを上手く他人へ開示していけるようにしていく過程でもある。欲望が僕らのアクセルになるとすれば、理性はブレーキと言えよう。巷間でもよく耳目にするこてであるが、それらを踏み間違えないようにしないといけない。アクセルばかりではタイヤの摩耗も早まるし、ブレーキばかりでは一向に前進しない。
最終的に言えるのは、この身体という乗り物を上手く操縦するのが僕の目下の課題というわけだ。
第一に欲望とはわれわれの行動の原因であり、よき指針を示しうるものであるからだ。
そういう意味で欲望を是認したとき自由でありうるのだし、それを否定したのではすべてが行き詰まってしまう。 では、なぜ欲望のまま生きてはいけなく、その時理性が必要とされるのだろうか?
理性は欲望を消すのではなく、檻にそれを一旦閉じ込めるだけのものと見てよい。熊など猛獣の調教師のようなものと思っても差し支えない。それは制御するということだろう。
別の言い方をすれば、時間差で欲望の放出されるべきタイミングを計るのが理性なのだ。結局押し込められたままの欲望は必ず噴火させなければ、われわれは生き辛さのなかにもがくことになる。
欲望の正体は宇宙の爆発である。まあ宇宙がいつまでも膨張しないように、僕らの欲望もいずれ萎んでいくだろう。
つまりは欲望との闘いは、死によってしか終結させることはできないのだが、その間、われわれは欲望を理性によって手懐け、うまくコントロールしていかなければならないってわけだ。そんな当然のとは言え僕にとっては血の滲むような努力を断行することに、生きがいを感じた方が良いと思われる。
ここで欲望を水と措こう。そのとき理性は水道の蛇口のようなもので、どれだけそれをひねるかで、水の出る量がその都度調節されることになるわけだ。
何といっても欲望こそわれわれの生きている動機そのものであるし、理性はあくまでそれが上手く満たされるために、頃合いを見計らったり、作戦を立てる参謀のようなものであると言え、生きているということは、欲望に代表されるような自己内爆発と向き合うことだし、それを上手く他人へ開示していけるようにしていく過程でもある。欲望が僕らのアクセルになるとすれば、理性はブレーキと言えよう。巷間でもよく耳目にするこてであるが、それらを踏み間違えないようにしないといけない。アクセルばかりではタイヤの摩耗も早まるし、ブレーキばかりでは一向に前進しない。
最終的に言えるのは、この身体という乗り物を上手く操縦するのが僕の目下の課題というわけだ。
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