水にただよう浮草日記

自称文人、でもあっちへこっちへ行方定まらない。そんな浮草が芝居、映画、文学、美術、旅に関してのコメントを書き連ねます。

青年座 山猫からの手紙

2015-06-22 15:02:56 | 日記・エッセイ・コラム

別役実脚本、伊藤大演出

青年座「山猫からの手紙」

何週間も経つのですが、ずっと考えていて、いまだに感想が書けない芝居

たぶん、この文章は意余って言葉足らずであると思います。

それでも、とても不思議な世界を体験したので、語ります。

小さい劇場で、緊張した2時間を100人くらいの人と共有し、後でじっくり考える、それが青年座

別役実の世界はその状況に加え、織りなす言葉のあやというか、屁理屈とうか、あまのじゃくぶりに惑わされてしまうのです。

言葉が発せられ、別の男が繰り返し、本人が言い換えると反対の言葉になっているので、「あれ?」ってなり、息を殺して耳をそばだて、舞台を見つめ続ける。

客席の照明が消えると、舞台には電信柱、マネキンを抱えた男登場、くたびれた万国旗

そして椅子やテーブル鍋釜など、所帯道具一切合財を山のように積んだリヤカー(我々ってのは、こんな多くのものをかかえて生きてるんですね)を引くもう一人の男が登場、妖しい世界に容赦なく引きずり込まれていくのです。

登場人物はみな宮沢賢治のような黒っぽい外套に丸いつばの帽子の出で立ち

イーハートーボなんぞ知らないといいつつ、気が付くとそこへ向かっている、

山猫なんぞに招かれていないといいつつ、山猫に招かれていることに気が付く

こうであることは、こうでない、こうでないことは、こうであるという屁理屈の世界(これが不条理?)

「山猫の言いなりになってやるのさ、これまで言いなりになるまいとして、言いなりになっていたからね」

気が付くとここは北の果て、イーハートーボだ、

スピーカーから山猫の声が聞こえる 「ようこそ」

花火が打ち上げられ、歓迎式典が始まる

レストランでは楽しそうにお茶とビスケットが振る舞われる                               

しかし楽しそうだった人々は抱えていた自分の罪を告白し、裁きを待つ

世の矛盾と不条理を、イーハートーボ、山猫、電信柱、料理店、星空、キキン、雪、種もみ、ネリとブドリ、兄と妹などのキーワードを繰り返し、宮沢賢治の世界を展開させる。

不条理と原罪という大命題。難しすぎる、されど、さすが青年座、地に足がしっかりとついた俳優たちの演技力が、自然体で、ユーモアと笑いを醸しだし、「おもしろうでやがて悲しい」不思議な童話の世界のなかから、とてつもない哲学を導きだしているような気になり、私はおおいに悩み惑う。

言葉の迷宮、迷路の世界で行きつ戻りつ、問い続けるのだ

自分の存在と原罪、宮沢賢治の世界について。

しかし、なんだか分からないけれど、なんだか分からなくていいのですよ、分からない宮沢賢治の世界観を一緒にこの空間と時間の中で共有しようではありませんか、と言っているようでもあり。

登場する男性は皆、宮沢賢治の分身であるかのように、罪を背負い、その身を差出し、「悲しいことがうれしいんです」という。

最後に残った男が霧のなかに消えていく、行き着く先は果たしてこのわれわれの現実世界なのだろうか。いや、もともとそこが現実社会で、これから黄泉の世界へ行くのか?

一人残った男

「こんな風に、歩いているぞ、歩いているって考えながら、そして、そのうち私にもわかってきたんだ、イーハートーボというのは、それがそうである、どめどもない方向だということがね、いや、こっちじゃない、立ち止まって北へだ、このことさえ知っていれば、私は歩き続けられる」

賢治の詩が流れる。

 (春と修羅)

わたくしという現象は

仮定された有機交流電灯の

ひとつの青い照明です

風景やみんなといっしょに

せわしくせわしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電灯の

ひとつの青い照明です


梅シロップ

2015-06-14 19:22:41 | 日記・エッセイ・コラム

梅シロップ

工程は少ないのです。

梅を洗う、乾かす

ヘタを取る

瓶を熱湯で消毒、乾かす

梅を入れ、三温糖をほぼ同量いれ密封

10日くらいでこうなった。

あと10日くらいしたら、梅の実は役目を終えるので捨て、シロップだけ取り出すのです

梅ジュースより、梅シロップと呼んだほうが絶対美味しそうですよね。

ジュースはそのまま飲むもので、シロップは薄めるもの?

これに炭酸など入れたらさぞや美味しいでしょうね!


映画 セッション

2015-06-10 17:37:23 | 日記・エッセイ・コラム

また今日も映画の感想です。

映画 セッション

すごい、ぶっとんだ、見に行ってよかった。新しくできた新宿トーホーシネマで見ました。

「キャラバン」って曲、昭和のジャズでダサいと思っていたら、ラスト、キレギレになってすごいセッションになり、魂のドラムの独演会がいつまでも続く、終わっても席立てずにいましたね。圧倒されて。

ジャズのドラムという楽器が武器のようになって、あるいはその男の肉体と魂の化身のようになって、男と男が勝負する。

昨今の心が折れやすい若者に一撃を与えたはず。

石原裕次郎の「おいらはドラマー」ってあったけれど、「この野郎、かかって来い!最初はジャブだ、左アッパーだ、右フックだちきしょうやりやがったな」っていうやつを万倍強烈にしたような。

ドラムの一打一打が言葉になって胸に迫ってくる。

頑張らなくいいよという時代、ほめて伸ばそうという環境、(そうしないと折れてしまうので)

パラハラ、モラハラ、セクハラは裁判で即敗訴になるというアメリカ。

そこに現れた、深く刻まれたしわ、鋭い眼光の音楽院の教官(スパイダーマンに出ていた編集長、ものすごい早口に喋りまくっていた人)

一生懸命演奏している生徒にパラハラ、人種差別用語のオンパレード、一番人をダメにする言葉はグッドジョブ(いいぞ)だぞと。

この太ったブタ野郎、出てけ!

お前の親父は落ちこぼれのユダヤ人だ

この赤毛のアイリッシュ

アングロサクソンゲイ野郎

こいつを痛めつけ、なにくそと奮起させるためならどんな言葉でも発してやるぞという教官、それもこれも才能を引き出すだめと信じているのか、単なる陰湿ないじめなのか、すれすれの緊張状態が続く。帝国陸軍のいじめもかくのごとくであったか?

負けるもんか、蹴落として、這い上がってやるぞと歯を食いしばる若者、俺は歴史に残るドラマーになるんだ、友も恋人も失い、ひたすらドラムを叩き続け、手は血にまみれ戦ったけれど。

エスカレートする無理難題に刀折れ弓尽きた。

ドラムを捨て平穏な日々が始まったかのように見えたが、先生との再会で、若者の魂が燃え上って激しいラストのドラム セッションの大団円となる。

原題はそのまんまwhiplash(むち打ち)


映画「エリジウム」の監督による映画「チャッピー」

2015-06-01 21:09:34 | 日記・エッセイ・コラム

「エリジウム」は圧巻だったなあ、格差社会の行きつく先。地球は砂漠化し、貧しい人々がロボットにこき使われ、命を削る労働に明け暮れている。一握りの裕福層は人工惑星で再生医療による不老の肉体を手に入れ、ストレスなしで生活する。ありそうで、そらおそろしいというか、すでになっている? 

「チャッピー」もありえそうな、実現の足音が聞こえているような、ロボットの話だ。ロボットが警察官になって治安維持を行い悪い人間をやっつける、そしてそのロボットに人間の知能をもたせたらどうなるか。

現実、中東などの戦争では無人飛行機やロボット兵器を遠隔で操作する代理戦争を行っているという。

日本ではソフトバンクのぺッパーなんぞが現れているし。介護用ロボットももう時間の問題だ。この監督はSFを現実に近づけることがうまい。 

しかし、ロボットの進化というと、なんと言っても「ターミネーター」IからIIIでさんざんおそろしい目にあっている自分。メインフレームが誤作動を起こし核戦争を引き起こし、挙句の果てにロボットが生き残った人間を一斉攻撃する。そして更に進化したロボットが、反撃するリーダーの子供の時代まで遡って根を絶とうとするなどという、あまりにも奇想天外、がしかし、ロボット開発が行き着く果てはこうなのかもと思ってしまっている自分には、チャッピーは名前の通りなんていうこともない。

シガニ-ウィーバーがロボット会社の社長。「エイリアン」で最強の女リプリ―だったけれど。あの時代ウーマンリブなどがあり、男よりエイリアンより強い女、かっこよかった。年を重ねるとレプリーも現場から離れ、こういうポストに就き、守りの姿勢になるものかなあ。

気の毒なのは、ヒュージャックマン。せこいエンジニア役。 レミゼラブルで、「ヒュージャックマンのジャンバルジャンがいなければこの映画はなかった」と言わしめた大俳優なのに。こんな役をやってほしくないなあ。

「若い監督が社会問題に切り込んで、なおエンターテイメント性の高い作品に仕立てたいと挑戦するのであれば協力したい」という男気なのだろうかなあ。

この映画で、奇妙なギャングのカップルが出てくる、南アのラッパーでダイアントワードっていう二人だそうで、ニンジャという人とヨーランディという女の人。その髪型や美意識が私にはまったく理解できず、これこそが未来的退廃的でこわい。なんなんだ、あの二人は、とチャッピーよりも気になってしまうのだけれど、自分を犠牲にして他者を助けたりするところは浪花節的だったなあ。