赤いフルーツトマト

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無題

2015-11-20 16:11:57 | 日記
自分のダメな部分とかつまらない日常をなるべくおもしろく解釈したい。

それはダメな人間であることを「肯定している」ように感じるかもしれないけど、自分で「このままでいいや」と思っている訳ではなく、こんな自分を変えたいからだ。

ダメなものはやっぱりダメなんです。


「なにげない日常」の中には「なにげない日常」しかない。

素晴らしいものなんてない。

実際なにも特別なことは起こらないし、なにも変わらない。

わかりやすいほど嫌なことなんてそうそうないし、現実というのは微妙に息苦しくて、怒る気にもなれない生暖かいものだ。


そう、ここが地獄だ。

甘美な誘惑、綺麗ごと、そういったものにカモフラージュされていて気付かないが、ここが、この世が既に地獄なのだ。

私たちは既に地獄をガシガシ踏みしめながら、毎日を生きている。

その中から素晴らしさ、おもしろさを見いだすには、努力と根性がいる。

黙ってても日常はおもしろくなってはくれない。

見つめ直し、向き合って、物事を拡大し新しい解釈を加えて日常を改めて構築していかなきゃならない。

毎日をおもしろくするのは自分自身だし、それをやるには必死にならなきゃ何の意味もない。


日々というのは、ほんのちょっとずつ前に進む。

今日いいことがあった、と思いきや、翌日はとんでもない苦しみがやってくる。

好きなアニメの再放送が始まったので観ていたら、途中から予告なしでいきなりその作品の続編新作アニメに切り替わったみたいな歓びから、前作の10年後みたいなふざけた時代設定に変わっていた。

そんな予想外なものを見せられるフレッシュでパワーのある辛さだ。


そんなことを繰り返し、少し見えた希望が瞬く間に消えていく絶望を何度も味わうのだ。

「三歩進んで二歩下がる」とはまさにこのことだろう。

チータ、いいこと言うぜ。


死ぬことよりも、生きようとすることの方が圧倒的に苦しいし、生きるということ自体が、苦痛と苦悩にまみれたけもの道を、強制的に歩く行為なのだ。

だから諦めや終わりを選ぶということは、一生懸命に日々を生きている人に与えられるご褒美なんじゃないか。

そのタイミングは他人に決められるべきではない。

自分で決めるべきだ。

夢中で観ている映画のラストを、物語の途中でバラされるようなものだ。

そんなことする奴はサイテーだ。

最後の最後まであがいてあがききって、最高の気分でエンドロールは観るべきだ。


まだ終われない。

今までもつらい気持ちの中で、でも負けないぞという気持ちの中でやってきた。

「この苦しみはいつか終わる」と思って、で、「やっぱり終わった!」という状況の中で、自分が思っていたことは間違ってなかったと思えた。

だからこの苦しみはたぶん終わります、たぶん!

夢を外へ連れ出せる、妄想をこの手創れる。

そんな日々が来ることを、俺は知っているのだ。
威哥王
巨人倍増