M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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僕のシュナウザー物語 Ⅰ

2021-04-18 | エッセイ

 

 僕は、三頭のミニチュア・シュナウザーを飼ったことになる。 合計すると30年以上のシュナウザーとの楽しい生活だった。 個々に色々な思い出があるので順番に話していくしかないと思う。

 

 ABC を考えながら名前をつけていたのか、最初はアンナ(A)、2番目は娘がつけてくれたベーβ(B)、次は チェルト(C)だった。D(ドクター)は カミさんの実家で付けてくれたが、病気して早くに亡くなった。

今は嫁いだ娘の家で、エマ(E)が元気にしている。娘が合計、二頭の名付け親になった。

 

1. アンナの物語

 最初の子は アンナと名付けた。AKCの登録は ジョアンナだけれど、呼びにくいからアンナになった。

 会社の先輩の家で初めて目にした犬種だった。ミニチュア・シュナウザーと言った。アンナの父も母も、アメリカの元チャンピオン犬だった。

<AKCの定義するミニチュア・シュナウザー>

  その頃は、シュナウザーがまだ日本全体で3000頭以下だった。

  彼の家ではよく吠えていたが、とてもユニークな顔立ちなので、僕が欲しくなった。 家では、その年の7月に(2番目の子、長女)が産まれ、大変な時期だった。 一番カミさん大変だったと思う。アンナ(♀)は、大阪から新幹線に乗って相模原の獣医さんへ着き、そこから僕んちに来た。僕は嬉しくてたまらない。初めて自分で飼う犬だったからだ。長男はとても喜んでくれたが、相談もなく飼ったので、カミさんは愚痴っていた。 でも、結果としては、ちゃんと受け入れてもらって、優しく育てられた。

 夫婦喧嘩などをしていると、間に割り込んできて「やめなさいよ」と言っているようだった。 誰か家族の体調が悪いとを感じると、その人にくっついて「大丈夫?」と聞いているような仕草をする子だった。とても頭のいい子だったと思う。

<アンナ>

  僕の旅にも、よく付き合ってくれた。 バリケンが折りたためたので、それを持ってアンナを車に乗せて 三浦の別荘によくいったものだ。海にも一緒に出かけた記憶がある。 三浦半島の 長浜だ。 友達とも仲良くなって、ついてまわっていた。シャワーに行こうとしたら アンナもくっついて女性用のシャワー室に入り込んだ。 キャーという声が聞こえたけれど、僕は中に入ることができない。最終的には、友達がアンナを連れて出てきた。 みんなに優しくされていたよと聞かされた。

  家族でよく行くドイツ料理屋さんでは、必ずアイスバインの骨をドギーバッグにいれてお土産として持って帰ったものだ。 アンナは、時には骨を食べないで庭に穴を掘って埋め込んでいた。後で食べようと考えたようだけれど、忘れてしまって、その後、大雨で何本もの骨が庭から見つかったことが思い出される。

<アイスバイン:真ん中の骨>

  知った人にはとても良いのだが、知らない人には結構吠えて、時には玄関フェンスを無断で開けた行商の人に噛み付いたり、郵便屋さんに吠え掛かかったりすることもあって、近所では吠えイヌとして有名になってしまった。

  このシュナウザーは、病気がほとんどなくて元気だった。 でも2回ほど入院することがあった。2度目の時は、腸捻転で入院して手術ということになった。 こちらからすれば、元気で頑張れよ!というつもりで 見ていたのだが、彼女はどんどん病院の中に入っていって、振り返ることもなかった。

  アンナにはたくさんの、友達ができたけれど、一番仲良くなったのはイングリッシュセッターのXXX(名前を忘れた)ちゃんだった。 アンナはチビだけれども、大きな犬に対しても恐怖心は全くなく、背の高いセッターと負けずに元気で走り回っていた。一番印象的なのは、ゆうに60 センチくらい の草が生えた草原を走り回っていた時のことだ。 アンナの体高は40 Cm はあるかないかの体だったが、ジャンプして空中に浮いて、頭から次の草むらに飛び込んで遊びまわっていた。 この セッターとは本当に仲が良かった。 その子が癌になって、もう明日は駄目だろうという日に、飼い主さんに抱かれて僕んちに挨拶に来てくれた。 アンナはわかっているらしく、別れのキスをしていた。

<アイリッシュ・セッター>

 お年寄りにはよくこの犬は「のらくろ」の犬ですかと尋ねられた。そういえば口の周りのヒゲが特徴のシュナウザーは、戦前の漫画「のらくろ」に似ていると言えば似ていると思う。 とにかく、サイズの大きな犬でもちっちゃな犬でも必ず挨拶しようとするのが常だった。 普通だったらビビりそうに大きな犬でも、平気でアンナは近づいて挨拶をしようとする。向こうの飼い主は心配していたけれど、僕からこの子は大丈夫ですからと言ったことは何度もあった。 人見知りをしないというのが正しいだろう。

 一番、アンナにとって怖かったのは最初の外泊だったと思う。家族みんなで八ケ岳の清里の犬と一緒に泊まれるペンションに2泊した。 アンナは食堂で他の沢山の犬に会うと吠えまくっていた。 ペンションの女主人が大丈夫だよと声をかけて撫でてくれたけれども、彼女の興奮はなかなか治らなかった。 あんなに騒いだアンナは、あの時以外に見たことはない。そういえば清泉寮で初めてウサギを見たね。友達になろうとしたのだが、無視されていた。

<清里 清泉寮  By 663highland Creative Commons 3.0>

  アンナは僕が家に帰ってくると、必ず玄関で座って待っていた。 おそらく僕の車の音を聞きつけて、角を曲がって家の方に近づく時には、もう気がついていたに違いない。 可愛いやつだった。 下のチビと同年齢なので本当に仲良かった。殆んど20年間、一緒に育った。スーパーへ車で一緒に行っても、大人しく車の中で待っていた。うちのキッチンに大きな白菜を置いておいたら、いつのまにか白菜が痩せこけてくるのに気づいた。注意深く見ていると、アンナが時々つまみ食いしていたので、白菜は痩せていったのだった。 今となっては、懐かしい出来事だ。

  アンナは必ずケージで寝るように育てた。 夜中に動き出すということは許されていなかった。 昼間でも気が付いたら、自分でケージで寝ていたりする。バリケンの中が安心だったのだ。アンナは食いしん坊で、 怖いもの知らずでもあった。 おそらく自分を犬だとは思っていないのではないかと思っている。あたいは、他の家族みんなと一緒だもんと思っていたかもしれない。

  アンナは元気で過ごして19歳10ヶ月ほど生きた。 横浜市の20歳の表彰が目の前だった。 最後の頃には認知症が進んでいて、もちろん白内障で目は見えなく、鼻はどうなのかはわからないが家の中は自由に動き回っていた。 お日さまが大好きで、温かいのが好きで、常に日向を求めてうろうろしていた。ある時アンナがいないと騒ぎになって、皆で探してみると、南側のガラス窓とソファの間に落っこって、挟まってじっとしていた。笑って救い出してやった。

<アンナ>

  アンナを亡くしたのは、僕が月曜日に出社する朝、一声ワンと鳴いて息を引き取った。僕はアンナのバリケンのある隣の部屋で寝ていたから、その一声を聞いた覚えがある。 亡くなったと分かった時は、まだ体はあったかかったから、頑張ってさようならを一声言ったのだろうと思う。

  その月曜日、アンナが 亡くなったショックで、僕は会社に行くことができなくて休むことにした。 家のものみんなで泣いていた。とても仕事ができるような感情ではなかった。 会社に電話した。僕の秘書は、休む理由として「家族に不幸があって…」と僕が言ったので 、会社では大騒ぎになったと次の日出社した時に聞かされた。 家族というのは犬だということが分かって、みんな、なあんだという顔になったのを覚えている。

 アンナは近くの斎場の動物専用窯で焼かれた。 隠亡さんがご覧なさいと言って教えてくれたのは、上下とも完全に残った歯だった。真っ白だった。 こんなに残っていたんですよと、隠亡さんが言ったのを忘れない。良い丈夫な歯を持っていたから、長生きできたのだ。

小さな骨壷に入ったアンナは犬の墓があるお寺に預けることにした。 この寺は、東海道新幹線から見えるところにあるので、出張で京都に行く車中から、その寺を見てアンナを思い出している。

  頻繁に、寺から連れ出して家の居間に置くこともあった。 5年後ぐらいに、合葬することに決めて、アンナはこの世から物理的にも消えた。しかし僕の心の中には最初のシュナウザーとして、忘れることのできないアンナである。


親父の随筆「長谷川利行と私」 

2021-04-04 | エッセイ

  今回は僕のエッセイではなく、最近発見した親父の随筆「長谷川利行と私」を紹介しておこう。

 親父と同時代の画家、熊谷登久平の関係者からこの存在を教えてもらった。くたばった親父が、こうしたエッセイを書いていたとは、まったく知らなかった。1976年とあるから、親父が65歳くらいに書いたものだろう。

こうしたエッセイを書いていたとは、まったく知らなかった。1976年とあるから、親父が65歳くらいに書いたものだろう。  

 長谷川利行は、今ではよく知られた画家だから、彼の日常を親しい友人だった親父の目を通して世の中に知ってもらうのもいいかも…と思ったわけだ。喧伝されているような、でたらめな利行ではなかったようである。 

<長谷川利行 by 徳山巍 1929?>

 僕が一番びっくりしたのは、利行が僕の祖母の肖像画を描いていたことだった。戦争で焼けてしまったが、「靉光像」と同じような絵だったとある。残念。

 さて、ここから親父の随筆を続けよう。

 ちょっと長いから(原稿用紙で、8~9枚)、読むかどうかは読者に任せることにしよう。

 

  親父の随筆の始まり 「長谷川利行と私」     徳山巍(たかし) (画家・新構造社展委員) 

 

<浅草 六区 パブリックドメイン> 

 今でも浅草の六区を歩くと、懐しい昔の六区が心に蘇える。今は埋められてしまってどこに何があったか定かには判らなくなったが、いつも思い出されるのは、俗称瓢箪池と呼ばれる池があって石の橋が掛っていた。藤棚もあった。池の向うには大きな欅が二、三本あってその緑を池に落して美しい漣を描いていた。豊かな池泉の趣であった。この石橋のたもとに、「さざえ焼」と称して串焼きの夜店があった。映画がかぶると弁士連中や長谷川等ともよく食べにいった。おいしそうなあの焼ける匂いは今でも鼻に残る。 

 林皐の向うの小高い丘にキャンバスを立ててよく描いた。池の中島に余り大きくはなかったが形のよい松の木が一本あった様に思う。描き疲れると映画館通りにあった「白十字」と云う喫茶店によくコーヒーを飲みに行った。 長谷川ともこの喫茶店にはよく行った。

 長谷川利行とは、熊谷登久平の家で紹介されて知った様に思う。昭和三年(1928)頃のことであった。彼と歩くと必ずと云っていい程、雷門にある「カミヤ」の電気ブランを飲みに連れて行かれた。その頃の彼は、誰かに貰ったと云う黒いソフト帽に、袖口の少々くたびれた黒の洋服を着て、黒いネクタイをキチンとつけていた。胸に余り白くはないが ハンカチを覗かせて黒い八字鬚をよく撫でていた。

 やや真中のあたりが少しクビレた長目のコップで、電気ブランを飲んだ。彼は強いので三杯、私は一杯しか飲めなかった。 

<浅草 木馬館 現在のHPより> 

 酔うと奥山の木馬館の二階にカジノフォーリー (浅草水族館演芸場)にまだ有名にならない「エノケン」がギャグの利いたレビューをドタバタやっていてよく見に行った。踊り子のパンティが、踊っている舞台で破れたとか、落っこちたとかの噂を流して、トタンに大入満員となったのもこの頃である。長谷川はこの「踊子」を何枚か描いているし、「安木節」の女の人も何枚かを描いた。出来上がると新聞紙に包んでよく見せに来た。

 その頃の仲間に、山中美一と言う文士の卵もいた。彼は巧い文を書いた。長身で芥川龍之介やノーベル文学賞になった川端康成などとも交友があって、谷中の川端氏の二階建てのうちにも彼に連れられて訪問したことも思い出す。代筆などもしていた様であった。彼も酒は強く、長谷川と山中と私と三人でよく泡盛を飲みに行った。 長谷川は三杯の泡盛でも、電気ブランでも飲んで酔うと皆と別れて一人街をトボトボと歩くのが好きだった。夜更けの街をいかにも楽しそうに街灯の灯に、長身の影を落してユラユラと歩いて行った。彼の詩はこの様な時に生まれるのだなと思ったものだ。

 映画街の名物男「赤ちゃん」によく映画館を顔で入れて貰って二人で見たのもこの頃だった。 一九三〇年協会展に私が初入選した作品を描いたのもこの六区街だ。今もある日本館を十五号に二枚描いた。その頃私は上根岸に離れを借りて住んでいた。六区は今と違って人で埋まっていたので、朝暗い中に起きて浅草まで歩いて二週間位かよって描いた。 

 おそるおそる美術館の一九三〇年協会展に搬入した。発表の日が待ち遠しかった。発表の日、長谷川も来たので、一緒に発表を見に行った。 

<旧東京都美術館 by 台東区> 

 二人共良い具合に入選していて、長谷川の名の上には賞と書いてあった。

 二人は何を駄弁りながら歩いたか忘れたが、浅草までのして、電気ブランで祝杯を上げたことを忘れない。その時の長谷川の作品は「靉光像」だったか「岸田国士氏像」だったか覚えていない。 

<神谷バー by 黒沢永紀氏> 

 この頃、わたくしは浅草のズベ公や不良の親分だった潮さんや長谷川や山中や今は静岡県の掛川で大きく商事会社をやって社長に納まっている藤沢やNHKの台本をつい先頃まで書いていた木村学司君、矢野文夫等と、「シュールシュール会」と云うのを作っていた。特別な目的があるわけではなく、只寄って駄弁り、飲み楽しむ会だったが、長谷川が大いなる迷文の趣意書を書いて雑誌に発表したりもしたが、いつの間にかこの「超々会(シュールシュール)」も消滅してしまった。 レビューガールの楽屋で、裸の娘さん達のムンムンする体臭にむせかえりながら支那そばを皆で食べた思い出もある。長谷川はこんな時にもよく手あたり次第の紙切れにデッサンをしたものだ。

 車坂で質屋をやっていて、美しい奥様を持っていた小池政治君の家に、「靉光像」の絵を持ち込んで、無理やり二円で質入れして浅草を飲み歩いたことも思い出す。

 あの絵は、長谷川の代表的な傑作の一つであった。今はどこに収まっていることやら。

 三筋町の私の画室には、毎日のように現われた。ご飯時になると、母は長谷川さんも、と言って、よく一緒に食べた。彼はキチンと正座して、黙々と食べた。決して膝を崩したことは無い。

<親父と利行 浅草・三筋町>

 彼は、「良いお母さんです」とよく云った。ある日彼は「お母様の肖像を描かせて欲しい」と云う。そして三日か四日通って「母の肖像」を描いた。サムホールのキャンパスだった。一九三〇年協会展で受賞した「靉光像」と同じような手法で随分念入りに描いた。小品ながら立派な出来栄えだった。

 十日位経って乾いた頃来て、手を入れるから貸してくれと持ち帰った。また、十日位経ったある日、例の黒帽子に黒の洋服でハンカチを胸に現われて、新聞紙に包んだ「母の肖像」を差し出した。開いてみると描きっ放しの時と異なって、グラシもし、拭き、調子も整えて、立派な作品に仕上がっていた。

 一見素人目には蕪雑に見える彼の作品も、写生の時の感動を殺さないで固定し、乾いてから更に画面の調子を整えて、強調するところは強調して仕上げるのが彼の手法であった。三越展での彼の作品群にしても、常にこの反省と仕上げの手法とには手を抜いていない。立派である。「母の肖像」は私の手に納まった。これは僅かだがと云って、金五円を紙に包んで渡すと、何かはにかんだような表情をチラリと見せて取ってくれた。

 この作品は、知り合いの額縁屋に最上級の額を作って貰って、画室に飾っておいたが、戦災でアトリエと共に焼失した。長谷川晩年の傑作の一つであった。矢野文夫君も、この作品はよく知っている作品である。

 彼と知り合って間もなく、長谷川から一冊の歌集を貰った。「木葦集」である。京都にいる頃自費出成したものだと云っていた。

 表紙裏に、「グラン・メートル(偉大なる名人)TOKUYAMA氏へ贈る、長谷川利行」と大きな字で書いてあった。頁を繰ると啄木にもない凄くデリカな詩情の横溢した麗しい歌で埋まっていた。

・河原逢ふ石のみちの花茨こごしく咲けば君を忘れず

・子を抱きものいう我の唇に幼な手をやりむずかりて止まず

・人知れず口も果つべき身一つの今がいとほし涙拭はず

など、実に内容の立派な歌集なので、改めて彼の顔を見なおしたことを覚えている。

 彼のことを殆んどの人たちは、貧困で、家もなく木賃ホテルやドヤ街に住んで不遇のうちに死んで行った、という。

 確かに世間並には貧しく見えたであろう。が、最も張りを持って描いていた時期を共に生きて来た私には、彼は貧困であったなどとは夢にも持ってみたことが無い。

 彼はアトリエを構えて、ふんぞり返ってその囲いの中で生きる奴ではなかった。本当の「放浪詩人」だったと思っている。

<長谷川利行の自画像:パブリックドメイン>  

 薄汚れた洋服であっても、人に貰った帽子であったにせよ、いつも整然と襟を正し、胸ポケットに白いハンカチを入れていた。人と対峙するときは、正座して八字髭を無でながらの古武士然とした貴族のようであった。また、一面、律儀な紳士でもあった。 心が貧しく、人を食いものにするような下賤な心の彼では無かった。

 彼の絵が、今日見ても美しいと思わせられるのは、実にこの心の美しさの表現に他ならない。天衣無縫の詩心の表現に他ならないからである。 死後三十三年目に、彼の遺骨も長谷川家の菩提寺に納まったと、京都近代美術館の小倉忠夫先生から電話をいただいた。天城画廊の主人高崎正夫君の手から戦災にあい、転々として一時は行方不明との噂も聞いた長谷川は、遺骨になってからまで放浪の旅を続けたわけだ。

 放浪の詩人であり画家であった長谷川利行も、漸く納まるところに納まったかと苦笑する近頃の私である。1976年   

    <「長谷川利行 未発表作品集」旺国社 昭和53年発行>  

親父の随筆終わり  

 

 読み直してみると、心が通った、立派な文章だと思う。友情が滲み出ている。

  親父は残念ながら、利行ほど知られる画家ではなかったが、彼自身は彼の信じる日本の油絵を描いたことは事実だと、僕は思っている。

<親父:徳山巍>

<飾り馬 1946 by 徳山巍>  

P.S. 写真は僕が適宜、選んで挿入しました。随筆にはありません。