M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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沈むヴェネチア

2016-07-31 | 2016 イタリア



 ミラノで3泊して時差ボケを解消(?)し、4度目のヴェネチアを訪れた。特にヴェネチアに想いがあるとはいえないが、ミラノの時間だけではもったいないと小旅をしたわけだ。



 <ヴェネチア 玄関>
 
 ヴェネチアはミラノから300㎞。車で3時間。過去はすべて車だったけれど、今回は安全第一と特急列車、フレッチアロッサ(赤い矢)を利用しての気楽な旅にした。車だとあまり周りを見ていられなくて、日本が高速道路建設の参考にしたアウトストラーダを黙々と走るだけだが、今回は列車の窓から周りの風景を見ながら、ウエルカムドリンクのシャンパンを飲みながらの気楽な旅になった。



 <Freccia Rossa>

 6月末に5泊したのだが、最初の日は恒例のスーパー探し、つまり夜の食事の準備。定番の生ハム、チーズ、パン、草、そしてワインの仕入れで半日が終わった。

 翌日、サンタルチア駅まで一駅、電車に乗って、ヴァポレット(乗り合い水上バス)の7日間パスを手に入れた。おなじみの大運河を各停でつなぐ1号線に乗船したが、あまりの人の多さに圧倒された。30℃を超す暑さの中で、船の係員は、風の通らないキャビンへと乗客を押し込めようとする。それに逆らって、中ほどの風の通るデッキで頑張る。それにしても、とんでもない人の多さだ。圧倒された。お客が多く、乗り降りに時間がかかって、ヴァポレットは4kmを1時間以上かけて、やっとサンマルコ広場に付いた。

 サンマルコ広場には、長い、長い行列ができていた。みんな、サンマルコ寺院に入るために、30分以上、炎天下で待っているのだ。心臓君の問題もあるので、僕は敬遠。デゥカーレ宮の入り口には、比較的短い列が見えた。

 僕のサンマルコの目的は、高い鐘楼のてっぺんからヴェネチアを見ることだったから、心配しながら鐘楼のエレベーター乗り場に行くと、ガラガラ。トリップアドバイザーには、鐘楼に上るには30分以上も待つとあったので心配していたが、待つことはなかった。幸い、2台目のエレベーターに乗れた。ここからの眺めは、格別。ヴェネチアを360度、見渡せる塔の上は風もあり。快適だ。見下ろすと、サンマルコ寺院への人の列が異常に見える。



 <鐘楼からの眺め>

鐘楼を一巡りして、ふっと上を見上げたら、今も現役の鐘がすぐ頭の上にぶら下がっていた。



 <鐘楼の鐘>

 鐘楼を降りてみると、さっきと違って、鐘楼のエレベーターにも長い列ができていた。ラッキーとしか言いようがないタイミングだったのだ。足は、サンマルコ広場へ向かう。ここで、一休みだ。



 <フローリアン>

 午前中は陽が当たるクアドリを避けて、日陰のフローリアンに入る。ピアノやヴァイオリンの音がしたから、高いテーブルチャージを取られるなと覚悟してテーブルに着いた。白ワインを注文して、おつまみをつまみながら対面のクワドリを見ると、朝の日がガンガンに照っていた。もちろん人は誰もいなかった。こうやって、この二つの有名な店は、午前と午後で昼間の営業を分け、夜は競い合って客を呼ぶのだと納得した。やはりカバーチャージとして、10ユーロも取られた。

 そこからが難業だった。

 お決まりのサンマルコ広場からリアルト橋までの狭い通路を、人が流れている。団体さんのようで、割り込む隙間もないように、人が一方通行で流れている。こんなのは異常だと思いながら流れに流されていたが、一本細い路地に入ったら、涼しく、喧騒から逃れられた。これが本当のヴェネチアだ。

 暑さと、人いきれにバテテいた僕は、リアルト橋を登って降りての往復をしたら、息が切れた。発作でも起こしたら大変だと、エアコンのきいた店を探してリアルト橋の近くのリストランテに座り、やっとの思いで昼飯を食った。それにしても、すごい人の流れだとびっくりした。



 <リアルト橋>


 帰りのヴぁポレットも混んでいたが、幸い、船首のデッキの椅子に座れて、サンタルチア駅まで帰ってきた。運河の水は、昔のまま汚い色で、匂いも立ち上っていたようだ。やはり100%人工の町、ヴェネチアは開放的とは言えない。



 <クルーズ船 7隻>

 帰りに、メストレへの電車から、大きなクルーズ船がヴェネチア港に入港しているのが見えた。数えてみると、7隻。一隻のクルーズ船の客を2000人とすると、1万4千人もの人が、一度に、ヴェネチア本島に降りたことになる。本島の人口は5万6千人とあるから、突然、25%もの人口が増えたわけだ。あのキチガイじみた混雑が納得できた。



 <巨大な船の一隻>

 水の中に、松の木を打ち込んで浮島を固定しているヴェネチアにとっては、とても大きな負担だろうと思う。そのうち、ヴェネチア本島が、観光客の重みと地響きで沈み始めてもおかしくない人の流れだった。ヴェネチア港にクルーズ船を入れまいと、メストレ港に桟橋を建設中だとか。


 翌日、アカデミアからジュデッカ運河に面した、ザッテレの河岸を歩いていたら、海の香りがした。大運河とは違って、そこは海だった。気持ちが広がった。昔、読んだ、須賀敦子さんのザッテレの描写を思い出した。気持ちが晴れてきた。




最後のミラノ里帰り・フラッシュ

2016-07-17 | 2016 イタリア

 4年ぶりのミラノ里帰り、3週間のフラッシュ(断片)を書いてみようと思います。今回の旅からの各種テーマに基づいたエッセイは、僕の中でそれなりの整理がついたものから、お届けしたいと思います。



 <ボーディングパス半券>

 この旅は、心臓病のリスクを冒しながら、大きく二つの目的で、やっておきたいと思ったわけです。
 
 一つ目は、カスケットリスト(棺桶リスト:くたばるまでにやっておきたい項目リスト)の未達成のうち、一番、心の引っかかっていた項目の達成でした。それは、44年前からのイタリア人の友人ご夫妻との、14年ぶりの再会でした。僕がイタリアに駐在した1969年来の友達です。今年、彼は85歳。お互いに先が短くなったので、会って旧交を確かめて、今生の別れを告げて、感謝しておきたかったわけです。

 二つ目は、僕の心の中で第二の故郷になった街、ミラノに短時間でも滞在して、時を過ごしてみたかったのです。少年の頃からの夢、外国に住んでみたいという僕の夢の実現の舞台となった、1969~70年に住んだ街、ミラノに最後の里帰りをして、街を感じてみたかったのです。

 僕とミラノのかかわりを振り返って整理すると、こんなことになります。

 1969年~1970年、IBMの新規プロジェクトの駐在員として、2年弱を過ごしました。その後、パリやロンドン、ブラッセルなどで行われた会議や、マネジメント教育の出張の折に、なにかの理由をつけて、ミラノに顔を出すことを実現しました。これが、4~5回だったと思います。

 1996年にIBMから自由の身になって、自分で計画し、ミラノ行きを実現しました。1996年の秋、3週間。2002年の初夏、3週間。2012年の初夏、3週間。そして、今度の2016年の初夏、3週間です。最初の単行本、「父さんは、足の短いミラネーゼ」で書いたとおり、強烈な印象と影響を僕に与えたミラノに、最後の里帰りをしたかったのです。

 本当は、2014年に行くことを計画したのですが、アリタリアのチョンボでロシヤ上空を飛べず、普通は成田~ミラノ・マルペンサ間、9780㎞を12時間で飛ぶところを、15時間の世界最長ともいえるルートの直行便となってしまいました。さすがに、心臓君の問題で、この旅は中止しなくてはならなくなり、悔しい思いをしました。

 気持ちとしては、昨年(2015年)に行きたかったのですが、EXPO2015で、ミラノは人で満杯となり、異常なミラノは敬遠することにし、今年にずれ込んだわけです。僕自身の残りの時間、神様しか知らない人生の時間も、当然迫ってきているのは当たり前ですし、友人のその時間も短くなってきていることは否めないので、今回ドクターの意見を押し返し、実行してきたものです。イタリアの人口は約7000万人ですが、6か月のEXPOに、同じく2100万人がミラノを訪れた結果になったとのことで、すさまじさが分ると思います。

 今回のミラノでは、新しいミラノと、懐かしいミラノの両方の姿を体験できました。

 EXPOを契機に、ミラノには新しい風景が広がりました。街の北部に、超高層ビル群が現れました。特に、ポルタ・ヌオバあたりには、集中して新しいビルがデザインを競っています。その中でも、昨年の最優秀デザインに選ばれた、「縦の森」の二棟は、行ってみましたが、素晴らしいデザインで、超高層ビルと緑の森との融和が実現されていました。



 <縦の森ビル>

 ミラノのシンボル、ドゥオモ広場は、以前は乾燥した硬い石畳でしたが、広場の一画に森が作られ、優しい感じになりました。


 
 <ドゥオモの林>

 ドブ臭かったナヴィリオ運河とミラノの港と呼ばれるダルセナは、ポー川からの水の引き込みと、浚渫で美しくなりました。

 もちろん、逆の現象も起きていました。

 懐かしいミラノが、壊れかけている街も歩いてみました。僕が、昔住んでいたマンションに近いコルソ・ブエノス・アイレス通りは、もうせんは、ミラノの人たちの生活臭あふれる、活気のある個人商店の街並みでしたが、そこに世界的なブランドの店たちが、個人商店を飲み込んで、存在感を増していました。つまり、東京の銀座がそうであるように、ブランドの店に街の個性が飲み込まれそうになっているのです。味もそっけもない、どこにでもある街に変容し始めていました。

 しかし、約1.5㎞のコルソ・ブエノス・アイレスのうち、ミラノの中心から遠い方の、リマ、ロレートのあたりには、懐かしいミラネーゼの日常的な買い物の個人商店や、モールが残っていて、にぎわっていました。ここには、ミラノに住む地元の人の通りがありました。ホッとできる街並みでした。



 <コルソのウインドウ : シャボン屋さんの手作りのシャボン>

 偶然、サッカー大好きのイタリア人にとって、大切なユーロカップの試合が見られました。このヨーロッパの国別対抗戦は、4年ごとに行われていますが、前回の2012年にも、国を挙げての大狂乱が見られましたが、その姿は変わっていませんでした。試合も、これも偶然ですが、準準決勝で、イタリアは前回とおなじくドイツと対戦し、同じく1点差で敗れ、翌日しょげていました。

 ノーリードで歩く、しつけのできたワンたちにもたくさん出会いました。メトロの車両のドアのところに、二匹のフレンチブルが、暑さ対策でお腹を床にべったりつけて、寝そべっていました。乗客は、それをまたいで乗り降りしていました。ほほえましいスナップショットでした。

 連日、30℃越えのイタリアでしたが、心臓君も何とか頑張って、行けてよかった旅でした。もう二度とは行けないだろうなと思いながら、この文章を書いています。

ゆたかな夢

2016-07-03 | エッセイ


 ゆたかに感じる、しかも、ゆたかに心に残る夢を見た。

[夢]

 僕は薄暗いロビーにいた。ホテルのロビーだろう。セミナーか何かで、訪れたようだ。人のざわめきが、かすかに感じられる。



 <Insurrection>

 ふと気が付くと、僕のすぐそばに感じのいい女性が立っている。ヴェールに包まれたように、顔は見えない。かすかな透明な香りがある。

 突然、耳元に小声で、話しかけられた。「今夜、ご一緒しません…」と囁かれた。
顔は、全く見えない。ドキッと心臓が震えた。

 その夜、僕はそこに泊まる予定だったのだろう、僕の部屋は取ってあった。てっきり、僕の部屋で…と言われたと思った。

 しかし、彼女はフロントに行き、「別の部屋を隣に…」と頼んでいる。なんだか、ちょっとはぐらかされた感じだ。隣同士に部屋が取れた。

 その夜、二人はワインを飲んで、食事をして、話して、隣同士の部屋で、何事もなく、豊かな思いで、僕たちは別々に眠った。

 翌朝、カフェテリアで、僕の方から近づいて声を掛けた。一緒に食事して、コーヒーを飲んで、ではまたと、彼女は去って行った。残ったのは、透明な香りだけ。

 [夢の終わり]

 夢から覚めて、僕は思った。この透明なにおいには記憶があるな…と。

 そうだ、大岡山に住んでいた、スイスの会社に勤めていたOさんだとなぜか思った。

 確か、上野の文化会館のクラシックのコンサートで初めて顔を合わせた。ロビーと思えたのは、もしかしたら、文化会館のロビーだったのかもしれない。しかし、Oさんの背丈は175センチの僕よりかなり低く、僕の耳元でささやくことはできなおはずだ。よほど高いヒールをはいていたのだろうか…。
 
 大雪の夜、大岡山から自由が丘に歩いて帰ってきて、そこでアパートの鍵を無くしているのに気がついた。仕方なく、大岡山まで雪の道を歩いて戻った。

 その夜、Oさんの部屋で眠った記憶がよみがえる。確かに、透明な香りがあった。同じ部屋で、Oさんはベッド、僕は絨毯の上に寝ていた。並んで眠るもどかしさが二人にはあった。彼女は僕よりも、ちょっと年上だった。



 <雪階段>

 あの雪の日以降、何度か大岡山で一、緒に朝を迎えた記憶がある。あれは、たしかにゆたかな時間だった。そして、もどかしい時間でもあった。

 ある日、突然、来週パリに引っ越すとOさんに聞かされた。そこで、二人の世界は、消えていった。

 どこかで、夢と、確かな記憶とが入り混じっていた。

 そして、ゆたかな夢と、もどかしい感情。それが僕に残った。



 クレジット情報
 お借りした二枚の写真は、ライセンス:Creative Commons. 2.0
  “Insurrection”by Jeronlmo Sanz
  “雪階段”by Dan Zen