CELLOLOGUE

思い出のリッチレイ・カメラ


 
はじめに

この記事は、2005年3月に書いた、私が子供時代に使ったカメラの記事(「思い出のカメラ」及び「思い出のカメラ,その2」)を、新たにまとめ直したものです。記事を書いた当時は情報がほとんどなく名前すら分からない謎のカメラでした。
今回、インターネットで調べた結果、幸い、いくつかのブログに関連記事を見つけることができました。記事のお陰で、おぼろげながらカメラのことが分かってきました。そこで、ふたつの記事を、内容はそのままに、修正と加筆を行いました。小さく少なかった写真も撮り直しました。
私自身、思い出せないことが多くなっている現在、貴重な記録を残していただいたサイトやブログの作者諸氏にお礼申し上げるしだいです。

なお、COVID-19(新型コロナウィルス)の感染拡大に伴う措置の影響により文献の調査は今後に委ねるほかはありませんでした。このため、不明な点については、推定や判断保留のまま記述していることを予めお断りいたします。感染の終息後に再度見直しを行う予定ですので、どうかご了解をお願い申し上げます。(2020/4/30、緊急事態宣言延長が首相により表明された日に記す。)
 
 
 思い出のカメラ

私のカメラ歴は小さな、オモチャのようなカメラで始まりました。いつ頃、どのようにして手にしたのかは今となっては記憶が定かではありませんが、小学校に上がる前後には撮影をしていたと思います。おそらく、父親が使っていたものか親戚筋からのお下がりだったのでしょう。昭和30年代後半のことだったと思います。

田舎の子供にとってそれは生まれて初めて手にした精密機械でした。当時は黒光りするボディに魅了され、精妙なシャッター音や指先の感触に心ときめいたものです。カメラマンになったつもりでたくさんの写真を撮り、失敗を重ねながら少しづつ覚えていったように思います。
やがて、成長とともに新しいカメラに乗り換えていき、この小さなカメラのことは忘れました。

その後、だいぶ経ってから、家の片隅で眠っていたカメラを見ていた時、底面の文字に気が付いて興味を持ちました。しかし、当時は調べる術もなく、またしまい込んでしまいました。
今回のインターネット検索では、リッチレイ・カメラという名前、終戦直後に工夫して作られた子供向けカメラであることなどがようやく分かりました。


 
 
 リッチレイ・カメラとは

リッチレイ・カメラは、1948年に野村光学研究所から発売されたスタート35(Start35)というモデルが原型のようです。1950年には Start35 model II へと発展していきました。途中からリッチレイ商会も販売を行ったようですが、両者の関係や事情は分かりません。この種のカメラで他に販売をしていた会社には、一光社、豊栄産業、三栄光機があるようです。
私が確認した範囲では、以下のような多くのモデルがありました。(配列は、アルファベット順。大文字・小文字使用は筆者によります。機種ごとの同定は行っていません。)

Ebony 35 / Ebony 35 de Luxe / Ebony 35 De Luxe IIs / Rich-Ray 35 / Rich-Ray 35 Super Start / Start Junior / Start 35 / Start 35 II / Start 35 K / Start 35 K II / Start R / Start Single Shot など

後述のように、このカメラはレンズが1枚だけの単玉、ピント合わせ不要の固定焦点、シャッターは2速だけという極めてシンプルな機構です。ターゲットを小学生にした入門用、趣味用のカメラそのものです。'Start'という名称に相応しいカメラだったのです。簡素ながらもよく考えられていて、よく写るという実用性も備わっていたから人気があり売れたのでしょう。多くの種類が生まれたことも理解できます。
使用フィルムはボルタ(Bolta)判と呼ばれ、画面サイズは正方形(約24mmx24mm)でした。(作例参照)
 
 
 MADE IN OCCUPIED JAPAN

このカメラが作られた頃の日本はまさに戦後の復興期にあたり、カメラに限らず生産、輸出が増えていました。まだ、占領軍(GHQ)が日本を統治していた時代です。そんな中、1947年2月にGHQから発令された指示(SCAPIN 1535)により、輸出する個々の製品には'Made in Occupied Japan'(占領下日本製の意。’MIOJ’や’OJ’と略し、オキュパイドモデルとも呼ばれるようです。)の表示が義務付けられました。トイカメラはもちろん、一般のカメラや玩具に至るまで輸出品にはこの表示が強制されました。これは1952年にサンフランシスコ講和条約が発効するまで続きました。
日本の戦後復興に大きく貢献した輸出製品でしたが、MIOJの文字は日本占領という歴史的事実の刻印であるとともに、復興のたくましさを示すものとも言えるでしょう。

私がこのカメラの底の文字に気付いたのはかなり遅くて、多分、中学か高校生の時でした。辞書をひいて日本占領時代のものらしいということが分かって驚きました。歴史の重みを身近に感じた経験でした。(写真5、8参照)
 
 
 私のリッチレイ・カメラはどのタイプなのか

カメラの名前と背景はだいたい分かりましたが、カメラのモデル名までは分かりませんでした。取扱説明書などは残っていません。おそらく、私のカメラも1950年代はじめに作られたモデルと思われますが、モデル名の表示がありません。インターネットを探しても自分のカメラにぴったり一致する画像はありませんでした。どれも形状やパーツが異なるのです。

例えば、このカメラの上蓋右側にRICH-RAYという刻印とYを図案化したようなリッチレイ商会の商標があります(写真3、7、11参照)。しかし、モデル名や型式を示すものは何もありません。形状から'Start35'の流れをくむものと思われますが、決め手はありません。

前述のように、リッチレイ・カメラには多くの種類(タイプ)や変形があります。当時、少年の間でもてはやされていたこと、複数の取扱い会社も存在したことから、手を替え品を替え多くの「亜種」が出回っていたと考えられます。終戦直後のことですから、現在では考えられないような事情もあったかも知れません。いずれにせよ、今のところはリッチレイ・カメラと呼ぶ他はありません。
 
 
 リッチレイ・カメラを使う

簡素な機構で動作するリッチレイ・カメラですが、よく写ったものだと感心します。
使い方をおぼろげな記憶から復元すると以下のようだったと思います。(写真参照)

まず、ボルタ判のフィルム(愛光商会の「ライトパンSS」や、六和の「みのりパンSS」。いずれも現在は販売終了)を装填します。慣れない子供にとっては容易なことではありませんでした。

最初に、ファインダー横の2本の小さな止めネジを緩めて上蓋(上部カバー)を外します。フィルムにパトローネはなく、黒い遮光性裏紙が巻かれ封がされていますので、封を切りフィルム先端をカメラ付属のスプールに巻き付け、カメラのフィルム室に装填します。この際、フィルム圧板でフィルムが押されるように通します。
次に、カメラ上蓋を取付け、巻上げノブを回してフイルムを送ります。裏窓からフィルム裏紙に印字された番号①が見えれば装填完了です。(写真2、4-1参照)

撮影は簡単です。天候(あるいは季節)によって絞り(f5.6かf8)を選択し、素通しのファインダーを覗いて構図を決めたらシャッターを押すだけです。固定焦点なのでピント合わせは不要です。
シャッターを押す時の感触が絶妙でした。シャッター音もメカニカルで子供心にも興奮を覚えたものです。

1コマ撮るごとにノブを回して先ほどの裏窓からフィルムの番号を確認してまた撮影する、という具合でした。単純作業ですが、巻上げを怠ると大事な写真が二重写しになってしまい後で皆から責められました。
大量消費以前の時代でしたから節約して大切に撮ったものです。無駄に撮ると叱られました。1本のフィルムに四季の写真が収まることも珍しくありませんでした。
撮影終了後は、完全に巻きとってから蓋を開けフィルムを取り出して付属の封をして現像に出しました。よく感光しなかったものです。
 
 
 リッチレイ・カメラの思い出

当時の出来事で忘れられないことがあります。
ある時、家族旅行にこのカメラとともに出かけました。帰宅後、私は早く写真が見たい一心ですぐに部屋にこもり、カメラの蓋を開けてフィルムを取り出しました。現像というプロセスを知らなかった私は,撮影と同時にフィルムに写真が写っているものと思っていたのです。
もちろん、フィルムには何も写っていませんでした。私は不思議に思い家族にそのことを報告したのです。その時の家族の顔は今でも忘れません。顔が一瞬で凍りつき、それから失望の表情に変わりました。

今から思えば、私の行為はデジタル時代を予見するアプローチだったのかも知れませんが(笑)、大切な家族旅行の思い出をすべて消してしまいました。私が潜像という言葉と現像の実際を学んだのはずっと後になってからのことでした。
とにかく、この時のことは今でもはっきりと覚えています。
 
 

作例
祖母と私を写した写真。私は何かの木箱を持っています。昭和30(1955)年頃の撮影と思われます。リッチレイ・カメラ使用の確証はありませんが、当時、我が家で他のカメラの存在が考えられないこと、正方形の画面サイズであることから本機で撮影したものと判断しました。
退色と画像サイズを縮小しているため分かりにくいのですが、オリジナル画像は意外に精細です。(ほぼ原寸)

 
 
 その後のカメラのこと

その後の私のカメラ歴は、思い出せる範囲で、フジペット、コニカの小型カメラ(機種忘却)、アサヒ/ペンタックスSP、ME、LX、ヤシカ/コンタックス139Q、アップル/QuickTake 100、キャノンの初期のコンデジ(機種忘却)、オリンパス/E-420、ニコン/クールピクスP330、D90、D7100、D500、リコー/GR、パナソニック/ルミックスLX9などです。これが多いのか少ないのか分かりませんが、その原点がリッチレイ・カメラでした。

捨てきれずに手元に残ったおもちゃのようなカメラが、戦後の日本の復興に関わっていたことが分かりました。このカメラが生産され始めた頃に生まれた私にも深い感慨が湧いてきます。
ここまで書いてきて気が付いたのですが、もしかしたら、父が私の誕生を機にこのカメラを購入したのかも知れません。そして成長後に与えたとも考えられます。寡黙な父でしたし、私も父親似でしたから、このカメラのことが話題に上ることはありませんでした。今は尋ねるわけにもいかずこのカメラの由来は不明なままになるでしょう。
謎は謎として、センチメンタルかも知れませんが、これからもこのカメラを大切に保存していこうと思っています。


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長文をお読みいただきありがとうございました。文中に記したように本機の正体はいまだにはっきりといたしません。このカメラについて、ご存知の方がいらっしゃいましたら是非ご教示をいただけると幸いです。どうぞ、コメント欄でご意見、情報などご遠慮なくお寄せください。
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リッチレイ・カメラの仕様(推定を含みます)

名 称  RICH-RAY(カメラ上蓋の刻印による)
寸 法  80.7x57.7x52.7mm(WxHxD)
質 量  約126.00g(本体、紐のみ)
材 質  ベークライト、金属、ガラス、繊維
レンズ  1群1枚(単玉)、焦点距離40(又は42)mm、f5.6、絞りf5.6・f8(切替式)、固定焦点
ファインダー  素通しファインダー
シャッター   1/30秒及びB(バルブ)
フィルム巻上げ 手動
使用フィルム  ボルタ判 24mmx24mm(12枚撮り)又は24mmx36mm(10枚撮り)


写真(1~11)
 

1 正面 クラシカルな堂々たるファサード。ベークライト製で、今時のデジタル・カメラより重厚な質感と立体感があります。底面とレンズ鏡胴側面を除いて疑似シボ加工が施されています。金属製パーツに錆があるものの動作は良好です。シンプルな機構が幸いしたのでしょう。紐はオリジナルだと思います。レンズキャップが付属していたかどうかは覚えていません。
 

2 背面 背面は極めてシンプルです。上中央の素通しのファインダーから覗いて構図を決めました。フィルム裏紙の番号を読み取る裏窓(丸窓)が印象的です。フィルムは左上の巻取りノブを回して巻上げます。
 

3 上面 右肩にRICH-RAYの文字とY字形と円を組み合わせたようなリッチレイ商会のマーク*、左の巻上げノブにもYを象ったようなデザインがあり、円の中にCとWのような文字が見えます。ファインダーからレンズに向けて引かれる線は5本です。部品については、写真7を参照。
*リッチレイ(rich ray=豊かな光)から、太陽と広がる三本の光線を図案化したようにも思えます。
 

4-1 内部① 上蓋を外したところ。内部はシンプルです。写真の上方にはシャッターと絞り関係の機構が、下方には薄い金属板のフィルム圧板が取り付けられています。右のフィルム室にはLIGHTPAN(愛光商会発売のフィルム名)の芯(スプール)が残っています。
 

4-2 内部②(拡大) レンズ裏側の様子。右端の棒をシャッターが押し下げるとスプリングによって金属板(絞りの役目の穴がある)が回転して光りをフィルムに届ける仕掛けです。今でも作動しますが、その状態で完動なのかどうかは分かりません。
 

4-3 内部③ 上蓋の裏面で、左上からほぼ対角線上に、シャッター(レリーズ)、シャッター速度切替用棒、巻取りノブの軸が並びます。中央付近には意匠等の英文表示があります。(写真9参照)
 

5 底面 フィルム室とレンズ部分の境界付近に小さな文字で、MADE IN OCCUPIED JAPANの刻印が見えます(写真8参照)。中央の穴は三脚(又はフラッシュ)取付け用、その左のネジはフラッシュの接点と思われます。
 

6 左側面 フィルム室側の側面は4面構成になっていて、中央で最大幅になります。レンズ鏡胴にあたる部分の側面には疑似シボがなく平滑になっています。
 

7 上面の配置 ①ファインダー ②上蓋止ネジ ③フィルム巻取ノブ(ハンドル) ④紐 ⑤シャッター速度変更矢印〔I(上側)はインスタント(1/30秒)、B(下側)はバルブを示す。〕 ⑥廻転絞り指示板 ⑦レンズ ⑧シャッター・ボタン ⑨商標 ※呼称は筆者による。
 

8 底面(拡大) 刻印された MADE IN OCCUPIED JAPAN の文字。ボディ底とレンズ部の境界部ぎりぎりに刻印されているのは、極力、見えないように工夫したのでしょうか。意地と言うか。
 

9 上蓋の裏面(拡大) DESIGN REG. NO.94264/UTILITY MODEL/APPLICATION NO.12889/IN JAPAN とあります。「日本国意匠登録第94264号、実用新案出願中第12889号」という意味でしょうか。おや、OCCUPIEDが抜けていますね。敢えて入れなかったのか、1947年以前か、1952年以降の製品なのか。又は、ボディと上蓋が異なる年代のものか。
 

10 Nikon D500との比較 現在のデジタル一眼に比べリッチレイがいかに小さいかが分かります。しかし、デザイン的には似たヴォリューム、雰囲気を感じなくもないのが不思議です。
 

11 背面上方からの写真 全幅は約8cmという小ささです。裏窓は閉じています。

Nikon D500/AF-S DX Micro NIKKOR 40mm f/2.8G, TAMRON SP AF60mm F/2 Di II

コメント一覧

cellisch
ノブ様
貴重なコメントをいただきありがとうございます。
自転車とカメラ。私にとってはまさに「新事実」です。両者は縁がないように思えますが、昔は自転車の景品になったのですね。リッチ-レイカメラがとても安かったのか、余っていたのか、山口自転車が太っ腹だったのか…思わぬところにつながりがあったのですね。
1963年以前頃とのこと、記憶を辿ってみると、私がリッチ-レイをもらったのもその頃ではないかと思います。

山口自転車についても何となく記憶があります(不確かではありますが)。私にはカメラをねだった記憶がなく、カメラ趣味のない家庭であったので、もしかしたらですが、自転車の景品が流れ流れて私の手元に来たのかも知れません。
貴コメントを拝読して、今はそのように想像しています。
貴重な手がかりをいただきありがとうございました。

他にも何か手掛かりになるものがありましたらお知らせいただけると幸いに存じます。どうぞよろしくお願いいたします。
ノブ
私も同じカメラを持っています。上蓋裏側の数字もまったく同じです。
このカメラは、山口自転車の月産2万台突破記念の景品として配られたもののようです。その旨が記され箱も残っています。
私の実家は以前自転車店をやっており、山口自転車を扱っていたことから、箱ごと残っていたようです。なお、山口自転車は、1963年に倒産しているので、配られたのは当然それ以前のことと思われます。
cellisch
ご愛読、そしてコメントありがとうございます。
このテーマはあまり関心がもたれないのかな、と思っていたのでコメントをいただきうれしく思いました。
古い、子供向けのカメラですが、シャッターを押してみるとその頃の風景が浮かぶようです。小さい頃のものは、案外、よく覚えているものです。
写真は、おそらく、私が箱を気に入っていて離さず、祖母は困っていたのだと思います。その後、箱はカメラに化けたわけです(笑)。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
kazuhide suzuki
鮮明な写真に、適格なコメント、ありがとうございます。
1955年ごろ、東京・杉並に住んでいましたが、生活は貧しく
カメラを買って貰えたのは4~5年先のことで、このブログはとてもうらやましくも思えました。
おばあちゃんとのスナップ!感激です。
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