祖母は出雲大社教だったので、葬儀はもちろん神道形式だった。お通夜ではなく、前夜祭。葬儀ではなく葬祭。仏式は7日ずつだが神道は10日ずつ。初七日ではなく、10日祭。49日ではなく50日祭となる。
父がたの祖父母がなくなった時は仏式だった。両方を経験して、名前や形式は違っても、どちらも同じような目的があるのだと感じた。それは儀式化という行動をすることで、遺族の悲嘆を柔らかくすることだ。海外に出るまで葬儀の意味を見出せなかった。形式はばかりで中身がないと感じていた。故人を敬う場というより、家の面目などが重要な要素に思えた。海外に住むようになりホスピスでたくさんの死に出会い、悲嘆について学ぶようになってから考えが変わった。
移民の国北米では古くからの儀式がなくなっている面が多い。お葬式はせず、お墓を作らない人さえもいる。お金もかからず、お墓の世話をする必要がないが、故人の家族や友にとって悲しみを分かち合う場がないのだ。私の旦那は祖父母の墓がどこにあるかも知らない。なので実家に帰る度に墓を訪れる私をみて、この世から去っても子孫に敬ってもらえる、死んでからもその存在の意味があることを素晴らしいことだと言っている。
99歳と言う天寿を全うしたと言っても良いほどなのに多くの参列者がいて驚いた。遠く故郷を離れた私は小さい頃あんなに遊んだ従兄妹達に会うこともなかった。しかし祖母の死を通して再会。お互いに父や母になり随分年をとったものだと笑った。本家の叔母たちからは自分が知らなかった、自分や家族について話してもらえる機会もあり、人と人のつながりを確信し、自分がそのネットワーク(コミュニティー)の一部であり、他に影響を与えていることに気づいた。こういう点からも葬儀の大切さを感じた。
コミュニティーの崩壊なども言われるご時世。良い儀式や習慣がコマーシャル化して、行う意義が薄れないように願っている。
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父がたの祖父母がなくなった時は仏式だった。両方を経験して、名前や形式は違っても、どちらも同じような目的があるのだと感じた。それは儀式化という行動をすることで、遺族の悲嘆を柔らかくすることだ。海外に出るまで葬儀の意味を見出せなかった。形式はばかりで中身がないと感じていた。故人を敬う場というより、家の面目などが重要な要素に思えた。海外に住むようになりホスピスでたくさんの死に出会い、悲嘆について学ぶようになってから考えが変わった。
移民の国北米では古くからの儀式がなくなっている面が多い。お葬式はせず、お墓を作らない人さえもいる。お金もかからず、お墓の世話をする必要がないが、故人の家族や友にとって悲しみを分かち合う場がないのだ。私の旦那は祖父母の墓がどこにあるかも知らない。なので実家に帰る度に墓を訪れる私をみて、この世から去っても子孫に敬ってもらえる、死んでからもその存在の意味があることを素晴らしいことだと言っている。
99歳と言う天寿を全うしたと言っても良いほどなのに多くの参列者がいて驚いた。遠く故郷を離れた私は小さい頃あんなに遊んだ従兄妹達に会うこともなかった。しかし祖母の死を通して再会。お互いに父や母になり随分年をとったものだと笑った。本家の叔母たちからは自分が知らなかった、自分や家族について話してもらえる機会もあり、人と人のつながりを確信し、自分がそのネットワーク(コミュニティー)の一部であり、他に影響を与えていることに気づいた。こういう点からも葬儀の大切さを感じた。
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