前記の記事で、いかさまという話を書いたが、いったい、僕はなにを言いたいのかというと。
本人も、よくわかっていないんだ。
ごめん。
ところで、三十を過ぎて、ふきだまりという場所で働くことになった。
そこは、ある会社の流通センターだ。
僕は、そこの、倉庫作業員、兼、配送助手だ。
そこには、零細企業の運送会社が、どういうわけか、いっぱい入っていた。
零細企業で働くトラック運転手というのは、例外はあるが、多くは、どうしようもないのが多かった。
トラック運転手は、柄が悪く、映画のトラック野郎(見てない)みたいなものかと言えば、だいたいそうだと、言っておこう。
ただし、大手の運送会社では、まともな社会人という人が比較的多い。
比較的と言ったのは、例外もいるからだ。
もちろん、零細運送会社でも、まともな社会人という人はいる。
あくまで、傾向だと思ってほしい。
1992年、東京佐川急便事件というのがあった。
この事件について詳しく知りたければ、ネットで検索してほしい。
ようするに、東京佐川の社長が、湯水のごとく、金を政治家や暴力団に流したという話だ。
ところで、この事件の以前、都内でトラックに乗っていると、(僕は助手席)佐川の奴らの横着ぶりは、目に余った。
都内で、車で仕事をしている人たちなら、みんな知っているだろうが、都内の道路事情は、どうしようもない。さすがの石原も、打つ手なしだと思う。
そこで、僕たちトラックで仕事をしている人間は、ここに止められれば、荷物の搬送は簡単なんだけど、ここに止めると、後ろの車が、通れないから、と、いろんな工夫をして、トラックを止めていたんだ。
ところがこの頃の、佐川の野郎たちは、平気で、まわりのことなど関係なく、トラックを止めていた。
ところが、驚いたことに、いつでも、なにかあれは、すぐにパーパーと、クラクションを鳴らす不良運転手が、黙っている。
それでなんだが、いつもは、仕事の時間がいくら遅れても、まったく気にしない僕なんだけど、妙なもので、まわりがいつもと違うと、なんとなく、我慢ができなくなる。
それで、「僕が行ってくる」と言うと、
「やめてください!」
と、運転手が泣きそうな顔をしている。
「うるせえな。あの野郎が、頭にくるんだ。僕がトラック動かしてやる」
ちなみに、僕は、二トントラックを運転できる。
しかし、僕の運転手は、「僕がやってやる」と言えば、言うほど、「やめてください」と、今にも泣きそう。
よく見ると、僕たちの後ろに、一般の乗用車が、列をなしている。
みんな、都内で、車を使って働くサラリーマンだ。
車に乗っての仕事と言っても、トラックとは限らない。
みんな、黙っているんだよなあ。
僕たちが、こういうことをしたら、後ろから、パーパーと鳴らすくせに。
何故だと思う。
佐川と喧嘩したら、あとで、ヤクザがやってくる。
佐川が、駐車違反しても、警察も取り締まらない。
これが、当時の常識だった。
トラック関係でなく、前述したように、乗用車で仕事していた連中も、同じ認識だったと思う。
もっとも、僕は、佐川と喧嘩して、実際にヤクザがやってきたという話を聞いたことはない。
噂だけなんだよ。
少なくとも、僕にとっては、
でも、ツッパリ運転手だろうが、なかには、真面目に仕事をしている運転手で、自分がまっとうにやっているからこそ、
………正義感で、ヤクザが来る。警察もパクらない。と、僕に教えてくれた。
こういう状況が一気に変わったのが、東京佐川急便事件だった。
この事件のあと、佐川の運転手たちは、信じられないほど、まともに仕事をするようになった。
あのひどい車の止め方なんて、一切なくなった。
まあ、稲川会会長の石井は死んじゃっていたし、金丸は、その後、パクられたけど、今じゃ、あの世の人。
それで、僕も、ブログに書けるんだけどね。
ところで、その後の佐川急便、今は、社会にきちんと認められているようだ。
それは、それでいいことだ。
さて、昔の話だが、その時、何故だか僕は、品川方面に配達に行っていた。
ところが、僕は、道がぜんぜんわからなくって、運転手は、新米のツッパリ君。それで、僕………
ということだったんだけど、仕事の終わり頃には、もうとっくに日が暮れていて、その場所は、小さい物置小屋みたいな倉庫で、そこに、隠して置いてある鍵で戸を開けて、荷物を搬入。
まあ、そういうことで、僕たちは、えっちら、えっちら、やっていたんだ。そこへ………
パーパーとクラクション、見ると、佐川急便。
運転手が、「航空便だ。どけ!」
「こっちが先だ!」と僕。「航空便だ。どけ!」と佐川。
何回かのやりとりのあと、僕は、野郎のトラックの前に立ちはだかった。
佐川の野郎は、エンジンをバンバンと吹かして、ジリッ、ジリッと、前に出て来る。
野郎、引けるもんなら轢いてみろ!
今、思い出すと、我ながら、格好が良かった。
そして、だんだんと、我慢勝負が佳境に入ってきて、いよいよ勝負だ。上等じゃねえか。やってやろうじゃねえかというとき、
突然、僕の運転手が、
「動かします。動かします」
と、泣きそうな声で言って、トラックを動かしてしまった。
佐川の野郎は、大きくハンドルを切って、僕を避け、そのまま、行ってしまった。
そのあとトラックの運転席のなかでは、「てめえ、そのグラサンは、かざりか?なんなんだよ。てめえの根性は?なさけねえ。なんで、僕が体張って勝負しているときに、逃げるんだ。てめえは。そのグラサンはなんなんだ」
と、僕がその若い運転手に、どれだけ不満をぶつけたかは、憶えていない。
なにしろ、ファィトしているときに、しかも、ここが勝負だというときに、タオルを入れやがったんだ。
彼は、当時流行りの(もちろん、暴走族が好んでしていた奴)サングラスをしながら、トラックを運転していた。
外から見れば、暴走族がトラックを運転していると思うはずだ。
僕は、「おい、客のところでは、するなよ」とは言った。
奴も、客のところでは、グラサンをはずした。
だけど、トラックを運転するときは、グラサンだった。
それが、佐川には、自分が勝負しているわけでもないのに、逃げやがったんだ。
その後、この若い運転手は、「アニキが怒ってるぞ」という噂を聞いて、いつのまにかふきだまりからいなくなった。
僕は、もちろん、怒ってなんかいなかった。そんなこともあったっけというほどのことだったんだ。
長い話しになって申し訳ない。
亡くなった稲川会の石井会長は、横須賀一家の出身なんだ。
1972年。僕はまだ、十八だった。
横須賀のどぶ板通りの一番奥に、ナイフ屋があって、そこで、僕は、僕の手にあつらえたようなナイフを買った。
そして、横須賀で一番強い奴を狙っていたんだ。
まあ、不思議な縁だと、思っているんだ。
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