お江戸をブラモリタ♪

東京の奥に隠れた「お江戸」を探しに、街を歩きます。
目標はひと月2ブラ。

小石川 その2

2016-10-31 00:01:50 | 歴史散歩

15日に続く10月29日(土)、曇り。

前回は、今の千川通りがかつての千川(小石川)という川だった、という発見をし、その跡をたどりました。

ところが、その川の「最後」がどうなっていたか、前回の古地図では、右に直角に曲がってそこで切れています。

この終わり方をどうしても知りたくて、再び小石川に来ました。

ただ流れから見て、現在の神田川に流れていただろうことは容易に想像つきます。

問題は、神田川にどのように合流していたか? 今回はそれがテーマです。

 

ネットで調べるうちに、ゴール(神田川の合流地点)がわかりました。

それはこちら。

JR水道橋の前にある神田川の一部分にある船着き場が、かつての小石川の合流地点だったそうです。

残念ながら、川が流れてきた跡は現在完全に塞がれています。ここに川の河口があったなど、誰も気づかないでしょう。

その場所は地図上ではこちらです。(赤丸部分)

 

ということは、地図上で青色にたどっているあたりが、川だったのだろうと想像つきます。

 

かつてここは後楽園球場。この青色ラインは、まさしく後楽園球場の中を突っ切っていたようです。

(写真右側が後楽園球場、左側は後楽園競輪場)

 (国土地理院の1980年上空地図)

 

ところが、現在の東京ドームシティをみると、

なんと、まさにこの部分は水路になっているではありませんか。

(上の現在地図で青色ペンの下に、水路が見えると思います)

 

実際をみると、このような階段状の水路になっています。

 

かつて小石川が流れていたことを設計者は意識したのか? それとも偶然なのか?

設計者に聞いてみないとわかりませんが、結果としてかつての小石川として川が流れていたルートに、

今、形を変えて再び水路が現れたと言えます。

さきほどの「河口」からドーム側を振り返り、ここに川が流れていたことを想像したり。

 

(終わりに) 

かつて河川だったところが今は道路になっていたりするのを暗渠(あんきょ)といい、

(本家本元の)ブラタモリでは暗渠がよく紹介されています。

世の中には「暗渠マニア」という趣味の人もたくさんいるようです。

私の当面のテーマは「江戸の原型を知ること」なのですが、

そのためには、今はない川の跡をたどることが大きなヒントになることがわかりました。


小石川 その1

2016-10-18 00:04:21 | 歴史散歩

2016年10月15日(土)  

今回は文京区の小石川近辺を散策しました。

まずは、こちらの古地図を見てください。(人文社「東都小石川絵図」)

右下の「水戸殿」は水戸徳川家の上屋敷で、現在の小石川後楽園、東京ドーム、中央大学(後楽園キャンパス)あたりです。

そして地図の上の方に青い川が流れ、地図右上から下に沿って「水戸殿」の近くまで続いているのがわかります。

これこそが、かつての「小石川」という川で、またの名を千川とも言ったそうです。

なぜ小石川というのかは諸説ありますが、昔の文書の記述に「小石の多い川」と書かれていたそうで、

同じ意味で礫川(れきせん)という地名も現在利用されています。(礫川小学校など)

現在の文京区小石川という地名はここからきているのは間違いありません。

 

さてこのかつての「小石川」、今は川が埋められて「千川通り」になっています。

今回は千川通りを歩き、かつての小石川のルートを確かめてみました。

青色が今回たどった道、文京シビックホールを起点に途中で伝通院に立ち寄り、

「小石川5丁目交差点」から播磨坂を下り、「植物園前」まで来ます。

そこから(赤線)が千川通り、かつての小石川の跡です。

 

 

まずは播磨坂を下りたところから。古地図をみると「松平播磨守」という大きなお屋敷が、このあたりにありました。

現在の播磨坂はかつてのお屋敷を縦断して作られた坂で、春は桜の名所になっています。

 

 

さていよいよ千川通り。ここにかつて川が流れていたとは今は想像もつきません。 

 

近くには小石川植物園があり、

ずっと歩くと、南に曲がり、

途中に「こんにゃくえんま」と呼ばれる源覚寺があり、

出発点の文京シビックホールが見えてきました。 

これで、小石川地区を一周したことになります。

 

さて、この今はなき幻の「小石川」。最後はどこに流れていたのか??

それは次回に続きます。


八丁堀

2016-10-01 16:29:00 | 歴史散歩

2016年10月1日 曇り時々霧雨 前からやりたかった「ブラモリタ」を始めることにしました。

今日は第1回目、東京中央区 八丁堀のぶらぶら記。

東京に住んでる方はご存知と思いますが、八丁堀は日比谷線で銀座からふた駅、東京駅からも歩いて15分くらいのところにあります。

まずは八丁堀についての基礎知識。中央区のホームページによれば、

町名は、堀割の名称に由来します。八丁堀は寛永年間(1624〜1643年)に造られた堀で、長さが八町(約872m)であることからその名がつきました。

とあります。その他にも歴史愛好団体などによるホームページも多数あり、事前に参考にさせていただきました。

 

本日の私の目標は「江戸時代の八丁堀の痕跡を探す」こと。

八丁堀の現在の地図はこちらです。

 

地図をよくみると京橋ジャンクションあたりから地図右側の川に帯のようになっているゾーンがありますが、

どうもこれが元の「八丁堀」だったようです。そして明治になって八丁堀は「桜川」と名前を変えました。

このあたりを歩くと、「桜川公園」をはじめ、かつての川の名称がいくつも残っています。

 

ここに桜川の河口があった。

 

ということで、今は公園や建物のなっているところに、かつて八丁堀(桜川)があったことを発見した散歩でした。