お江戸をブラモリタ♪

東京の奥に隠れた「お江戸」を探しに、街を歩きます。
目標はひと月2ブラ。

日比谷門界隈

2018-05-21 06:00:00 | 歴史散歩

 

2018年5月19日(土)くもりのち晴れ

訪問いただき、ありがとうございます。

昨年5月の「道三堀」以来、1年ぶりのブラモリタとなりました。

今回は、職場にも近く、また大好きなミュージカル観劇で足しげく通っている日比谷を

歴史の目で見てみようと散策しました。

日比谷といえば、東京ミッドタウン日比谷が3月にオープンし、

多くの人で賑わっていますね。

 

さて今回歩いたのは、日比谷公園の橋にある「日比谷門」跡を起点に、

帝国ホテル前を過ぎてJRのガード下(山下門)へ、(赤色)

そこから折れて数寄屋橋交差点のルートです。(空色)

また少し戻って、新橋方面にも歩き、「幸門」の跡も確認しました。(緑色)

 

 

江戸時代の古地図「外桜田永田絵図」では、右端隅に2つ⇒をつけていますが、

左が日比谷門、そして右側が山下門を差しており、現代図の赤⇒の起点と終点です。

 

【日比谷門】

スタート地点の日比谷門は、日比谷公園の端っこの交番のあるところ。

日比谷門とは、かつて江戸城三十六見附の一つで、いわば城を守る番所です。

その様子が広重の絵に描かれており、

現在の日比谷通りから(ペニンシュラホテルあたりから)見た角度に思えます。

 

 

現在は「日比谷見附」の表示とともに

 

このような解説と

 

当時の石垣の一部が残されています。

 

ちなみにこの日比谷公園、徳川家康が江戸入りした当時は、日比谷入江といって、

今の大手町から浜松町あたりまで沼地だったのは、江戸の歴史では有名な話です。

その地盤の緩さから、土地の活用方法として日比谷公園というアイデアが出されたそうです。

 

内濠を残して大半を埋め立てて大名屋敷の土地とし、写真に見える「心字池」はその時の名残といえます。

古地図によれば、この辺りは鍋島藩邸、薩摩藩邸など、錚々たる大名屋敷が並んでいました。

 

その目の前に見えるのは、3月にオープンしたばかりの東京ミッドタウン日比谷。

 

このミッドタウンの建物を左手に、日比谷公園を少しだけ南下すると、

日生劇場を角にした交差点があり、今回はそちらを左折します。

いわゆる「みゆき通り」と言われる通りで、右手には帝国ホテル、左手には日生劇場から東京宝塚劇場と続きます。

 

 途中に今回のブラモリタにぴったりのこんな表示が、帝国ホテル前にありました。

帝国ホテルの成り立ちやこのあたりの大名屋敷の詳しい解説があり、とても勉強になります。

 

さて、元の古地図に戻ると(拡大図)、実は今歩いているルートが、かつての濠があったところで、

途中でカクッと折れているのは、地図上は「松平肥前守」すなわち鍋島のお屋敷が出っ張っていたからのように見えます。

 

 

そのまま帝国ホテルの前を進み、東京宝塚劇場前もやり過ごし、JRガード下にたどり着きます。

 

 

【山下門】

ここが、江戸城三十六見附の一つ、かっての山下門と呼ばれる見附があったところです。

なぜ山下門かといえば、この辺りの町名が山下町だったそうですが、

今はそんな町名どこにも残っていませんね。

 

ところが、こんなところにその痕跡が見つかりました。JRのガード下です。

 

内山下町橋とあるので、橋の内側とい意味と取れます。

今はなき山下橋ですが、広重の浮世絵には『山下門』というタイトルのこんな絵があります。

先ほどの「JR高架下」と比べても、まったく想像がつきませんね。

また同じ広重の絵で、『山下町日比谷外さくら田』というこんな作品もあります。

のどかな絵ですね。

どこからどのような方角で描いたか、もう少し専門的に調べないとわかりませんが、

山下門を描いた絵であることは確かです。

 

そしてもう一つ。

山下門には先ほど日比谷門から伸びる水路(濠)をたどってきましたが、

ここで外濠とぶつかり、山下門から左右に濠が伸びていたのですが、

その痕跡らしきものを見つけました。

ここは、今人気スポットになっている銀座コリドー街のちょうど裏手にあたる、

知る人ぞ知る路地です。

この傾斜をよく見てください。

これこそが、低くなったところに濠があった証拠と思うのは私だけでしょうか?

 

【数寄屋橋門】

さて、山下門を後に、次に向かうのは数寄屋橋門です。

冒頭の現代地図では、青色の矢印で描いたコースとなります。

 

泰明小学校(最近、制服のことでちょっと話題になった学校です)の手前を左手に入り、

そのまま道なりに進みます。

このカーブは、なんとも「昔、堀でしたよ~」と言わんばかりの、

くねった暗渠で、実際には写真の右に位置する銀座ファイブとその上の首都高の位置が、

お濠だったと考えられます。

 

裏通りの寂しい道ですが、やがて賑やかな通りに出て、そこに現れるのが数寄屋橋です。

(写真は有楽町駅側に渡ったところから撮影)

 

 

ここにあったのが、本日3回目の江戸城三十六見附、「数寄屋橋御門」です。

どんな姿をしていたのか - 写真の一つ西側(日比谷公園側)の有楽町マリオン前の横断歩道を渡ると、

途中にこのような表示がありました。

左の写真をよ~くみると、

「数寄屋橋と数寄屋橋門/明治元年」と書いてあります。

 

これで3つの門をたどってきました。残るは1つ。

 

【幸橋門】

先ほどの山下門に戻り、冒頭の現代地図の緑のコースを歩きましょう。

帝国ホテルから逆に、新橋の方に向かいます。

途中を見上げると、このようにレンガ造りの高架がずっと残っています。

これもかなりの歴史的建造物だと思います。

さて、新橋に着く少し手前、第一ホテル前あたりにかつてあったのが、

今日4つめの「江戸城三十六見附」、『幸橋門』です。

最初の古地図の右端に「幸橋御門」と書いてあるのがそれです。

この地図の下から右上に流れているのは汐留川(今は埋め立てられている)、

幸橋御門で、外濠となって、先ほどの山下門、数寄屋橋門と通じるルートとなっています。

 

今の幸橋門あたりはこのような風景。

 

そして見つけました。山下門と同じく、ガード下に「幸橋架道橋」と残っているのを。

 

さて幸橋の由来は、このあたりに「幸町」という地名があったそうですが、

今は幸町は消えて幻の地名となっています。

しかし・・・勘のいい方はお気づきかもしれません。

幸橋の内側(お城側)は、「内幸町」と呼ばれ、今も町名として生きています。

 

その解説の表示版がありました。

 

そして筆者が勤務する会社のオフィスは、この内幸町にあるのです。

 

【最後に】

今回は日比谷門を起点に、4つの見附(御門)の跡をたどってきました。

職場近くで、普段何気なくあるいているこの日比谷界隈。

歴史をたどると、いろんなものが見えてきました。

 

江戸時代は大名屋敷の並ぶセレブな町。

明治に入ってからは、帝国ホテル、鹿鳴館など、やはり国を代表する建築物が林立し、

高いステータスを保ってきたエリアであることがわかりました。

 

今、日比谷は「東京ミッドタウン日比谷」がオープンし、

明らかに人の流れが変わってきているのを実感します。

それまでも日生劇場や東京宝塚劇場、シアタークリエなどの劇場が並び、

少し先の帝国劇場も加えて、エンターテインメントの聖地と呼ぶにふさわしいエリアでした。

 

私の好きな日比谷は、これからもワクワクする街であってほしいものです。

そんな中、今回歩いてたどった濠や見附門の痕跡を思い出しながら、

歴史のロマンに浸りたいと思います。

 

 


道三堀

2017-05-28 21:40:48 | 歴史散歩

2017年5月27日。半年ぶりのブラモリタ。

徳川家康の江戸入府で最初に手をつけた「道三堀」(どうさんぼり)。

Wikipediaによると、

道三堀(どうさんぼり)は、天正18年(1590年)に、徳川家康の命により、江戸城へ物資を運ぶ船入り堀として、江戸城の和田倉門橋から平川の河口の呉服橋門まで開削され、江戸湊まで続く運河。平川までは約1km余の長さで、人工の水路として江戸に初めて造られたである。南岸に幕府の侍医曲直瀬道三家の屋敷があったことから、道三堀と呼ばれた。江戸城への輸送路として活用されたが、明治43年(1909年)に埋め立てられた。

と書かれています。つまり、家康が江戸に入府した1590年に江戸づくりの手始めに道三堀を開削したこととなります。

 

そもそも道三堀を作らなければならなかった一番の理由として「日比谷入江」「江戸前島」の話をしなければならないのですが、それは別の機会に譲り、今回は純粋の道三堀の跡をたどってみます。

ただ、道三堀は現在大手町や丸の内のビルの中をぬって流れていたのですが、その痕跡は何も残っておらず、かろうじて最初と最後がわかるのみです。

 

江戸時代の古地図「御曲輪大名小路絵図」は、江戸の後期に作られた絵図ですが、御城から右手(東)に水路が出て、さらに右側の大きな堀(外堀)まで曲線に伸びているのが道三堀です。(下図赤い囲みの部分)

その西の起点は現在のパレスホテルのあたり(和田倉門)から始まります。

皇居を後ろに、内堀通りのパレスホテルの南側に立ち、東京駅方面を見るとこのような堀になっています。

ちょうど上図の☆印から右側を見た現在の風景、これが和田倉堀です。

 

そして写真でちょうど黄色いバスが見えるあたりから、橋を超えて向こう側に水路が続き、それが道三堀のスタート地点でした。

 

その水路は、現在のビルの中を突っ切ることとなります。

 

銀行会館や旧みずほ銀行本店の下に堀があったことを想像して、大手町交差点からさらに東に永代通りを進みます。

 

 

さらに大手町駅前交差点まで進み、左前(東北角)に見える大手町野村ビルの下に堀が流れているイメージを持ちます。

 

大手町野村ビルとその東側にある新大手町ビルヂングの間に、唯一道三堀の名残としての案内板がありました。

ちょうどそのあたりに「道三橋」という南北の橋がかかっていたことが書かれています。

 

そしてそのまま堀のイメージをもってたどると、JRの高架にぶつかります。

おそらくこの辺を流れていただろう、と想像を膨らませます。

 高架を超えるとこんな感じ。(↓)

 

そのあと、パソナ本社ビルあたりもかすめ、呉服橋交差点を左に曲がったところにある一石橋までたどりつきました。

これは橋の上から西を眺めた写真ですが、このコンクリートでふさがれたあたりに、道三堀の終点があったと思われます。

 

というわけで、道三堀の跡をたどる旅は終わりです。

現在の地図にあてはめると、青いラインが道三堀として開削され、水が流れ船の往来があったと思われるコースです。

 

徳川家康の江戸づくりの手始めとして作られた道三堀。これによって江戸の城や街に物資が運び込まれるルートが確保でき、江戸の発展に大きく貢献しました。しかし明治43年(1909年)に埋められ塞がれてしまい、今は想像することしかできません。

その上には日本を代表する金融機関のビルが立ち並び、多くの人が働いていますが、16世紀の終わりにここに堀が作られ、明治まで道三堀として存在していた歴史のロマンに思いをはせてみてはいかがでしょうか?

 


《京都番外編》本能寺跡

2016-12-31 18:11:38 | 歴史散歩
先週末から自宅のある京都に帰ってます。(川崎には単身赴任なのです)

せっかく京都に帰ってるので普段行かないところに行ってみようと、昨今歴史の謎解きとして話題になっている本能寺(正確には本能寺跡&現在の本能寺)を訪れました。

2年前まで20年も京都に住んでいたにもかかわらず、恥ずかしながら本能寺には一度も足を踏み入れたことがなく、毎日通勤で通り過ぎるだけの存在でした。信長時代の本能寺がどこにあるかも今日まで知らなかったのです。

というわけで、まずは「本能寺の変」の起きた本能寺跡へ。

場所は堀川四条近く、小川通蛸薬師にあります。



その地は今は大きな老人介護施設の建物があり、ここが信長終焉の地とは想像つきません。



説明書きによると「能」という字は『ひ(火)』が重なってるのであえて字を変えてるそうで、確かに能の字は違ってました。

また敷地の一角は消防分団の建物になっていて、本能寺の変の火災との連想を掻き立てられ、ちょっとアイロニーじみてます。


そこから歩いて約30分。今度は現在の本能寺へ。
ここには信長、同じく本能寺の変で命を落とした人達の墓があり、大晦日の夕方でも見学に来る人は絶えませんでした。







10月に始めたこのブログ、2016年の締めくくりは京都の信長ゆかりの地となりました。
来年もぼちぼちブラモリタしたいと思います。


小石川 その2

2016-10-31 00:01:50 | 歴史散歩

15日に続く10月29日(土)、曇り。

前回は、今の千川通りがかつての千川(小石川)という川だった、という発見をし、その跡をたどりました。

ところが、その川の「最後」がどうなっていたか、前回の古地図では、右に直角に曲がってそこで切れています。

この終わり方をどうしても知りたくて、再び小石川に来ました。

ただ流れから見て、現在の神田川に流れていただろうことは容易に想像つきます。

問題は、神田川にどのように合流していたか? 今回はそれがテーマです。

 

ネットで調べるうちに、ゴール(神田川の合流地点)がわかりました。

それはこちら。

JR水道橋の前にある神田川の一部分にある船着き場が、かつての小石川の合流地点だったそうです。

残念ながら、川が流れてきた跡は現在完全に塞がれています。ここに川の河口があったなど、誰も気づかないでしょう。

その場所は地図上ではこちらです。(赤丸部分)

 

ということは、地図上で青色にたどっているあたりが、川だったのだろうと想像つきます。

 

かつてここは後楽園球場。この青色ラインは、まさしく後楽園球場の中を突っ切っていたようです。

(写真右側が後楽園球場、左側は後楽園競輪場)

 (国土地理院の1980年上空地図)

 

ところが、現在の東京ドームシティをみると、

なんと、まさにこの部分は水路になっているではありませんか。

(上の現在地図で青色ペンの下に、水路が見えると思います)

 

実際をみると、このような階段状の水路になっています。

 

かつて小石川が流れていたことを設計者は意識したのか? それとも偶然なのか?

設計者に聞いてみないとわかりませんが、結果としてかつての小石川として川が流れていたルートに、

今、形を変えて再び水路が現れたと言えます。

さきほどの「河口」からドーム側を振り返り、ここに川が流れていたことを想像したり。

 

(終わりに) 

かつて河川だったところが今は道路になっていたりするのを暗渠(あんきょ)といい、

(本家本元の)ブラタモリでは暗渠がよく紹介されています。

世の中には「暗渠マニア」という趣味の人もたくさんいるようです。

私の当面のテーマは「江戸の原型を知ること」なのですが、

そのためには、今はない川の跡をたどることが大きなヒントになることがわかりました。