向う岸

そうはいくか。

本 パオロ・マッツァリーノ 『偽善のすすめ: 10代からの倫理学講座』

2014-03-29 23:02:22 | 雑感
偽善のすすめ: 10代からの倫理学講座 (14歳の世渡り術)
パオロ・マッツァリーノ
河出書房新社



・現実の社会やネット上での議論を見ても、相手を論理的に論破して議論に勝ってる
 ケースは少ないような気がします。意固地に自説を押し通し続けて、自分は正しいのだ、と
 叫び続けたあげく、論敵がさじを投げて議論から撤退したところをみはからっって
 勝利宣言をしてるヤツのほうが多いように思えますけどね。

・つまり寄付をして税金を安くする制度を利用できるアメリカ人は三割しかいないのに、
 アメリカ人の六五パーセント以上が寄付をしています。てことは、寄付をするのは
 節税のためという説は成り立ちません。(中略)
 
 どんなに税金をたくさん納めてる大富豪でも、寄付をまったくせずに普通に
 税金を納めたほうが、 手元に残るお金は多くなるという計算結果が出たそうです。
 純粋な損得だけで考えたら、寄付はしないほうがトクなんです。

・一部で不正があるからといって、寄付や募金はすべてインチキだ、偽善だ、と
 決めつけてやめてしまうのはいきすぎだし、バカげてます。(中略)
 そうやって少数の例をおおげさに責める人には、逆にこう詰め寄ればいい。
 「だったらあなたが管理責任者になって、すべての不正を未然に防いでみてください。
  ただし、もし一件でも不祥事が起きたら、責任とってあなたも一生、
  刑務所に入ってもらいますよ。」

・記事の著者は、こんなことをしても世の中の貧富の差はなくならないだとか、
 こんな偽善は世の貧乏人を堕落させるなどと批判しています。
 この論法はいまでも、国や自治体の福祉政策を批判する人が使っているんですよ。
 百年たっても同じことをいっているのだから、人間って進歩しないものなんですね。

 この手の批判の論法は同じです。要するに、チャリティ活動はごく一部の人しか
 救えないことを問題視しているんです。彼らの理屈だと、一部の人だけを救うのは
 偽善で、すべての人を一斉に救うのが本当の善だということになります。

 でもそれは、非現実的な理想論です。全員が救えるようになるまで、なにもしては
 いけないのでしょうか。準備が完璧に整ったところで、いっせいの、せ!で全員を
 救わなければそれは不公平で偽善だとでもいいたいのでしょうか。

 たとえば誰かが、「電車に乗ってるすべての老人に席を譲れないのだから、だれにも譲るな。
 一部の老人だけが席に座れて、座れない老人がいるとしたらそれは不公平だから偽善だ」と
 主張してたらどう思う?
 「ばかばかしい。話にならねえッスよ」
 「自分が席を譲りたくないのを正当化するために、もっともらしい理屈を
  こねてるだけじゃないの」

・中野好夫はこう主張します。悪人や偽善者には、自分が悪いことをしているという自覚があって、
 自分なりのルールに則って行動してる。だからルールを理解して警戒していれば
 悪人とつきあうことができる。

 しかし自分は絶対正しいと信じこんで行動してる善人は、ルールではなく信念や
 信仰みたいな動機で行動してる。彼らは、善意の自分を批判したり敵対してくる者は
 絶対に悪だと決めつけてしまうから、ルールを無視した卑怯な手段で攻撃してくる。

 私は何十年も生きてきたので、まさにこれだな、と思いあたる事例をいくつも知ってます。
 善意の善人と戦うやっかいさは、いまもむかしも変わりません。
 善意の善人にとっては自分の善意だけがすべてです。よのなかには色々な“正しさ”が
 あるということを理解できない人たちなんです。

・中野は、人間は完璧な存在になれないといいます。人間は救いがたいほど醜くて弱くて
 ずるくてスケベである。もちろん自分もそうなのだ。その欠点を完璧に克服することは
 不可能だ。でもだからといって、それをありのままに見せることが誠実だとは思わない。
 欠点を克服したいと願い、克服しているかのように装うのが偽善であり、そうあるべきだと。

・丸山眞男が「偽善のすすめ」で危惧していたのは、まさにこういう態度が世間に蔓延することです。
 偽善とわかっていても、悪いことは悪いと批判しなければ、どんどんよのなかは
 悪くなっちゃうんじゃないの? 偽善を恐れるあまりに悪を気取ったり悪を認めたりしていたら、
 とんでもないことになっちゃうんじゃないの?

・きれいな善、美しい善など存在しません。人間の行う善は、すべて偽善なのだから。

・「しない善よりする偽善、でも、やりすぎるのは独善だ」

・「気が向いたときだけ善行をしよう。偽善者になろう」

・偽善を批判する人たちの最大のあやまちは、動機や気持ちを重視するところです。私は
 その考え方は危険だとすら思っています。なにより大事なのは、動機や気持ちでなく、
 結果なんですから。

 たとえ、心からの純粋な善意にもとづいてやった行為であっても、それが結果的に
 だれかを傷つけたり苦しめたりしてるなら、配慮しなければいけません。場合によっては
 その善行をやめなければいけません。

 善意が人を傷つけることもあります。善意が人を苦しめることもあります。善意なら
 なにをやっても許されるわけではありません。

・愛は地球を救えないかもしれないが、偽善はだれかを救ってます。



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