【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールの軛( 追稿 )= 07 =

2015-10-28 17:11:42 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ モンゴルのルーシ侵攻 ◎○

 ★= 「タタールのくびき」からの脱却 ② =★

  アレクサンダー・ネフスィー(前節参照)の死後、その末子ダニエル・アレクサンドロヴィチ=リューリク朝モスクワ大公家の祖。ユーリー3世イヴァン1世の父=は、与えられた分領をモスクワ公国として成立せしめ、14世紀初頭に版図を拡大し、コロナム、ペレヤスラヴリ・ザレスキー、モジャイスクを得て東から北方方面に勢力範囲を広げていた。 ヴォルガ水運の要所にあったこの国・モスクワ公国は経済的に発展し、1318年には、ノヴァゴロドとモンゴルの支持を得て、ダニールの子ユーリー3世が初めてウラジーミル大公位を獲得した。 しかし、急激な勢力拡大に恨みを抱くトヴェリ公ドミトリー・ミハイロヴィチが統治者であるサライのハンに訴えた。 1324年にキプチャク・ハン国に呼び出されたユーリー3世は、ウズペク・ハンの面前でドミトリー・ミハイロヴィチによって殺害され、次の年にドミトリーもまたウズベク・ハンよって処刑された。  その事後処理として、ウズベク・ハンはドミトリーの弟アレクサンドル・ミハイロヴィチにウラジーミル大公位を与えた。

 1327年にウズベク・ハンは半ば廃れていたバスカク制度=ハン国の代官制度、またハン国に入る税の徴収制度=の復興を目指し、トヴェリに息子チョルを派遣した。 チョルが実施する圧政に耐えきれず、生神女就寝祭(8月15日)の日に、トヴェリ公国でタタール(蒙古軍)の圧制に対する民衆の暴動が起き、チョルは民衆によって殺害されてしまう。 このとき、モスクワ公であったイヴァン・カリタ(イヴァン1世)はウズベクの許可を得て5万人のタタール(蒙古軍)とともにトヴェリ公国へ進撃し、トヴェリを破壊する。 トヴェリ大公・アレクサンドルは逃亡した。 その功績をタタールに認められ、イヴァン・カリタは1328年にウズベク・ハンからウラジーミル大公位を与えられた。 その結果、イヴァン・カリタはイヴァン1世としてモスクワ公位とウラジーミル大公位を手中にした。

 イヴァン1世は武力だけに頼らずに政治的にも動き出す。 当時の全ルーシの最高位聖職者でウラジーミルにいたキエフ府主教をモスクワに迎え入れる事を策動する。 ウズベク・ハンに認められた地位を利用して、1328年にはモスクワに「キエフ及び全ルーシの府主教」を遷座させることに成功した。 これによってモスクワは、精神的にもキエフにかわってルーシの中心地となっていった。 ウラジーミル大公位とモスクワ公位を持つイヴァン1世の領地国はモスクワ大公国と呼ばれるようになり、モスクワ大公は、ルーシ諸国を代表してその意思をジョチ・ウルスに伝え、ルーシ諸国に対してはジョチ・ウルスの意向を伝える立場になり、その権力はますます強化された。

 モンゴル=タタールの遊牧民はしばしばルーシの各地方を襲って略奪をはたらいたが、モスクワ大公の支配する土地に対しては一定の敬意を払うようにも成った。 こうして、貴族やその部下たちは比較的平和が保たれたモスクワ大公国に集住するようになり、ルーシ諸国もモスクワの庇護下に入ろうとする傾向が生じ、モスクワ大公国は日増しにその地盤を強固なものにして行く。 他方では、イヴァン1世は経済に力を入れ、諸公国がハーンにおさめる税の納入を引き受けて、勢力を拡大し、「カリター(金袋)」の異名で呼ばれる勢力家に変貌していった。 1337年、逃亡したトヴェリ大公アレクサンドルはリトアニア大公国の支援を受け、息子フョードルとともに、イヴァン1世に対する反撃に出る。 しかし、彼は最終的にはウズベク・ハンのもとに出頭し、一時的には放免されるものの、イヴァン1世の讒言を受けてウズベクはアレクサンドルを再度ハン国に召喚し、そこで1338年に息子フョードルと共に処刑された。

 イヴァン1世は事あるごとにキプチャク・ハン国に忠誠を誓い、キプチャク・ハン国の徴税人となってモスクワを裕福にした。 彼が「カリター」とあだ名されるのはこの事実によるのだが、その財産を使って周辺の諸公国内部に所領を増やし、その結果、それらの公国は実質的にモスクワの支配下に入った。 また、キプチャク・ハンの同意を得て、息子セミョーンに大公位を相続させて以来、モスクワは北東ルーシ地方の諸公国のなかで領袖的地位を得るまでに成長していた。 また、正教会との関係も重要な意味を持った。 キエフと全ルーシの府主教府ピョートルは対トヴェリ闘争においてモスクワを支持し、当時の府主教座がウラジーミルにあったにも拘わらず、継続的にモスクワに滞在した。 次の府主教フェオグノストは1328年に公式に府主教座をウラジーミルからモスクワに移している。 このようにしてモスクワは正教会と協力関係を強めていった。 モスクワにおける府主教座の存在は、ルーシのなかでのモスクワの優位性を宗教的な面からも支持することになった。

 因みに、ジョチ・ウルス内のムスリムの数は少なく、ウズベク・ハンは領内の非ムスリムに武力による改宗と服従を迫った。 1314年にマムルーク朝=エジプトを中心に、シリア、ビジヤーズ(アラビヤ半島の紅海沿岸の地方)までを支配したイスラム王朝。首都はカイロ=のもとに派遣された使節は、ウズベクがイスラームへの改宗のために戦い、反抗するものに弾圧を加えたと述べたている。 しかし、一方ではキリスト教徒に対して寛大な態度を示し、教皇ヨハネス22世から感謝状が贈られているが、彼の治世から王族や諸侯はじめジョチ・ウルス領内全域でも遊牧諸勢力のムスリム化が顕著になる。

 ウズベク以降のジョチ・ウルスの君主は、皆イスラム教を信仰していた。ジョチ・ウルス系の諸勢力は「ウズベキヤーン/ウズベクの者たち」という名で呼ばれている。 これは、14-15世紀にかけてムスリム化が促進したジョチ・ウルス内部の諸勢力が、自らのアイデンティティをジョチ家の系統かつムスリムであることを標榜し、その権威をムスリムであるジョチ・ウルスの宗主ウズベク・ハンに因んで呼んだ、他称ないし自称であろう。 1334年5月の事、大旅行家イブン・バットゥータがウズベク・ハンのオルド(宮廷)を訪れており、彼の宮廷内部やアミールたちの動向について詳細な報告を旅行記に残している。 ジャーニー・ベクの元に滞在したバットゥータは、旅行記の中でウズベクの王子と妃の様子を述べ、翌6月にウズベクの第三妃バヤルンのコンスタンティノーブルへの帰郷に随行している。

(小論、イブン・バットゥータの紀行記録ご参照;  アドレスは下記の【壺公夢想;紀行随筆】より)

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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