【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

王妃メアリーとエリザベス1世 =12=

2016-04-06 20:00:37 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 同時代に、同じ国に、華麗なる二人の女王の闘い/王妃メアリーの挫折と苦悩 ◎○

◇◆ 16世紀後半のイングランド、血まみれのメアリー ◆◇

 16世紀のイングランドは、プロテスタントとカトリックが激しく対立していた時代だった。 ここで、スコットランドの女王メアリーがイングランドに亡命してきたころの、イングランドの時代背景について触れておくことにする。

 ヘンリー8世の離婚問題に端を発したローマ教皇との対立は、イングランドにカトリックとの決別という結果をもたらしていた。以降、イングランドは、国王を首長とするプロテスタント=国教会=の国となったのである。 1547年にヘンリー8世が他界すると、かれの3度目の王妃ジェイン・シーモアとのあいだに生れた一人息子のエドワード9歳が、エドワード6世として即位した。かれはプロテスタントとして育てられていた。また、少年王の側近にはプロテスタントが多く、イングランドは急速にプロテスタントの色を濃くしていった。それと同時に、カトリックは迫害されるようになった。

 しかし、カトリック勢力も根強く残り、いつしか復活するときを待っていた。 病弱だったエドワード6世は、1553年7月6日、15歳で他界してしまった。当然、世継ぎはいなかった。 プロテスタント勢力は、その体制を維持しようとしたが、エドワード6世のあとを継いだのは、ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オヴ・アラゴンとのあいだに生れた、カトリックのメアリーだった。しかも彼女は、スペイン人の母親の影響を強くうけ、狂信的なカトリックに凝り固まっていた。 メアリーが即位するまでのあいだには、「ジェイン・グレイの九日間女王」という事件もあったが、この事件はイングランドの王位を争う陰湿な陰謀の現れであった。



 メアリーは、7月19日にメアリー1世として即位すると、父ヘンリー8世の宗教改革を否定し、ローマ・カトリックを復活させた。 そしてイングランドは、ふたたびカトリックの国となったのである。 さらにメアリー1世は、翌1554年の新年早々に、カトリックの大国であるスペインの皇太子フェリッペと結婚すると言いだした。 彼女は、カトリックの完全な復活と継続をめざしたのである。 メアリーに世継ぎの王子が生まれれば、その子は将来スペインとイングランド両国の国王となる。 ところがそれは、当時の力関係からいえば、イングランドがスペインの属国になることを意味していた。

メアリー1世のスペイン人との結婚発表に、愛国的な国民は、彼女がイングランドをスペインに売ったと反発した。 そして、サー・トマス・ワイアットの反乱を招くことになった。 ワイアットは、1月にケント州で4千の兵をあつめると、女王の結婚発表の撤回をもとめて、ロンドンにむかって進撃した。 しかしこの反乱は、多くの国民の共感をあつめたが、反乱軍に積極的に加わって女王に刃向かおうとする者は、それ以上はふえなかった。 その結果、反乱は2月中旬に鎮圧され、失敗に終わるのだった。 ワイアットら首謀者は全員、逮捕され、4月に首をはねられた。 そしてかれらの首は、さらしものになった。

カトリックに凝り固まっていたメアリー1世は、ワイアットの反乱でより頑なになっていた。 そして7月、彼女は周囲の反対を押し切って、フェリッペとの結婚式を強行したのである。 メアリー1世の即位は、カトリックによるプロテスタントへの弾圧、宗教裁判の再開でもあった。 プロテスタントの時代に肩身の狭い思いをした彼女は、異端処罰法を復活させると、プロテスタントへの復讐を開始した。 そして、プロテスタントの聖職者や彼等に協力した神学者、信者をつぎつぎに捕らえては、宗教裁判にかけて処刑していった。

 1555年4月、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学の神学者が、プロテスタントの宗教改革に手を貸したとして火刑にされた。 同年9月には、プロテスタントの宗教指導者だったカンタベリー大司教トマス・クランマー、ロンドン司教ニコラス・リドリー、ウースター司教ヒュー・ラティマーの3人が拘束され、オックスフォードで裁判にかけられた。 リドリーはプロテスタントのすぐれた神学者でもあり、ラティマーはもっとも高名な説教師だった。 しかし、ふたりとも10月16日に火あぶりの刑に処せられてしまった。 そのときのようすは、次のようなものだった。

“ ふたりは太い柱をはさんで背中あわせに鎖で縛られ、そのまわりに薪が積み上げられた。リドリーの兄弟が特別に許され、ふたりの首のまわりに、火薬の入った布袋を巻きつけた 。苦痛ができるだけ長引かないようにするためだった。 ラティマーは死に直面して、「われわれは今日、神の恩寵によって、イングランドにけっして消えることのないロウソクの火を灯すことになるだろう」という言葉を残した。薪に火がつけられると、ラティマーはすぐに火に包まれ、火薬が爆発して一瞬にして最期をむかえた。 しかし、リドリーの最期は悲惨だった。火のまわりが悪かったために、かれは、火薬が爆発するまでの長いあいだ足を焼かれつづけたのである。”

“ 一方、最高位の聖職者だったトマス・クランマーは、ふたりの処刑に立ち会わされ、改宗をせまられた。 彼がそれを拒否すると、それまでは拘束されているとはいえ友人と会うことも許され、比較的自由な生活だったが、その後は、光もささない地下牢に閉じ込められるようになった。 そして、心身ともに疲れはてて朦朧としたなかで、彼は、一度はカトリックへの改宗の同意書に署名をしてしまったのである。 しかし改宗したとはいえ、かれが処刑を免れるわけではなかった。”

“ クランマーから勝利を勝ちとったカトリックは、1556年3月、処刑の前に公開の場で、彼にもう一度、改宗したことを告白させようとした。 しかしその前日に正気をとり戻したクランマーは、改宗したことを後悔し、それを取り消したのである。そしてかれの真意に反して署名した右手を呪い、火あぶりの刑に処せられたときには、炎のなかに右手をかざし、そのまま最後まで動かさなかったという。 ”

 

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森のなかえ

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