偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏703川代・浅間山(千葉)栄行真山

2016年12月30日 | 登山

川代・浅間山(あさまやま) 栄行真山(えいぎょうしんざん)


【データ】 川代・浅間山 279メートル(国土地理地図に山名無し。川代集落の南の279標高点)▼最寄駅 JR外房、内房線・安房鴨川駅▼登山口 千葉県鴨川市川代の熊野神社先の籠堂▼石仏 浅間山山頂、地図の赤丸印。青丸は籠堂、緑丸は勝福寺▼地図は国土地理ホームページより

【案内】 栄行真山は、明治8年に108度目の富士登山を達成した鴨川市磯村の富士行者。『富士をめざした安房の人たち』(注)によると、「安房のなかにある浅間宮に観音札所のような番号をつけて、広く知らしめよ」という浅間様のお告げをうけ、108度登山を機に鴨川市磯の浅間宮を1番として改めまつるべく、鴨川、南房総市、館山などの安房地方で実施したという。また「各地の浅間宮には、お伝えの中の拝みうたがあてられ、場所によっては、番号とうたが記された石碑や木札が残されている」という。そのなかの鴨川富士に残された76番と93番の拝みうたはこのブログの鴨川富士で案内した。〝お伝え〟は浅間様への拝み方を記した富士講の経典。


 房総の最高峰・愛宕山から東に連なる丘陵には、国土地理院に地図に記載された嶺岡浅間が知られている。ここからさらに東にあるのが川代・浅間山。登山口は川代の集落から丘陵に通じる林道の途中の籠堂。しばらく登ったところにある石祠が石尊権現で、脇に「小御嶽石尊大権現 大天狗 小天狗」銘の石塔が立つ。




 急な坂道をジグザグに登ると「冨士山三十三度 大先達慶行弘山碑」「冨士山六十六度 大先達仙行貴山碑」の石碑があり、石段を登って浅間宮の境内となる。ここに立つ石造物には、すべて穐行日穂が講祖の山水講の講印「水」が入る。境内正面の浅間石祠の脇に立つのが栄行真山の石碑で、「第二番 見るに阿かぬ雪 うち加くる 冨士能山 多々白妙尓 心婦加くも 行年七十九歳榮行真山(花押)」のお伝えが刻まれている。栄山真山は明治15年、85歳で亡くなる。
(注)舘山市立博物館『富士をめざした安房に人たち』平成7年
(参照)偏平足ブログ「山の石造物・富士信仰」


【独り言】 12月の25日の昼近く、川代集落の奥に鎮座する熊野神社と隣接する勝福寺では、集落の人たちが出て掃除中でした。年末恒例の顔をだすのが決まりの作業らしいのですが、こんなとき何もしないでタバコをふかしている年寄が必ずいるもので、そんな人に浅間山の様子を聞きました。話によると、この日の早朝には浅間山の参道の掃除をしてきたとか。その登山口には籠堂があって、いまでも8月の1日に祭礼があるそうです。掃除が終わった毘沙門堂に登ってみると、朝から燃やしていたのでしょうか、ホダ木はほとんど灰になり、名残の煙がお堂にただよっていました。石段の先の親柱には石仏が浮き彫りされ、いい風景だなと見とれてしまいました。時代を超越したこの国の風景がここにありました。歳のせいか、ちかごろこういう風景を見ると心が和みます。

 籠堂から浅間山の参道の雑草は刈られ、祀り場には注連縄が張られ、石祠には注連飾りが付いて、あとは正月を迎えるだけという風景を見るのも心が引き締まります。

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石仏702請雨山(千葉)大日如来、馬頭観音

2016年12月26日 | 登山

請雨山(しょうさん) 大日如来(だいにちにょらい)、馬頭観音(ばとうかんのん)


【データ】請雨山 322メートル(国土地理地図に山名無し。安房と上総の国境尾根上322標高点)▼最寄駅 JR外房、内房線・安房鴨川駅▼登山口 千葉県鴨川市大川面の林道・高山線▼石仏 請雨山南の小ピーク、地図の赤丸印。青丸は愛宕山▼地図は国土地理ホームページより


【案内】 請雨山は名前のとおりかつて雨乞祈願をした山で、内田栄一氏の『房総山岳志』(注)には、「雨乞いに際しては鐘や太鼓を鳴らして水神に刺激を与えるため、普利雨祭りが奉納される」とあります。そのかつて南麓の集落からの参道だった尾根道の途中の小ピークに立つのが、大日如来と馬頭観音の文字塔。高さ90センチの同じような自然石に「種字アーンク(胎蔵界大日)大日如来」「種字サ(聖観音)馬頭観世音菩薩」銘がある。馬頭に「文化三丙寅歳(1806)」、大日に「村中」とそれぞれ背面に彫られている。
 房総の里山に大日と馬頭石造物が並ぶ山が多いことはこのブログでたびたび案内したが、この請雨山で5座目。造立の目的は、馬頭はこの地方が江戸時代に幕府直轄の牧であったこと、大日はこの地方に多い出羽三山信仰の関係する造立かと推測してきた。大日は富士信仰にも関係あるのではとのご指摘もあったが、これらについてはまだ答えを出でないでいる。
 平成23年度に鴨川市で出した冊子「嶺岡牧散歩2」の馬頭観音所在地地図には、110地点の178体の馬頭が拾いだされている。その地図に請雨山あたりは除外されているため、市でこの馬頭を把握しているかは不明。それに請雨山一帯は牧からだいぶ離れている。それに房総で馬頭と大日を同時に祀るのは、山に限られていて牧とは関係ない印象である。
(注)内田栄一著『房総山岳志』崙書房出版、2005年

【独り言】 請雨山の下には国道の君鴨トンネルが通じ、鴨川側からの途中に山に向かって林道がのびています。その林道には進入禁止のバリケードがあって車両は入れません。仕方なく登りだし、近道しようと林道途中にあった山道に入って出会ったのが大日・馬頭。犬も歩けば棒に当たるのような出会いでした。


 ここから山頂へは一端林道に出て、さらに急な斜面を登ります。その山頂には同じ大きさの愛宕社の石祠が二つ並んでいました。台座も入れると180センチにもなる大きさです。どうして二つなのかはわかりません。違うのは屋根の破風の模様だけでした。愛宕社の奥にさらに大小二つの石祠が祀られています。こちらが請雨祈願の神を祀る石祠なのでしょうか。小さい方が天明二年(1782)。大きい方が寛政三年(1791)造立で、大川面・横尾・寺門・古風原など、南山麓の村銘も入っていました。どうして2年の間に二つも立てたのかはわかりません。石祠は祭神銘でも入っていないと何の神を祀っているのかわからないことが多いのですが、。房総の山にはそのような石祠がたくさん祀られています。

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石仏番外 黒羽・愛宕山(栃木)石段

2016年12月23日 | 登山

黒羽・愛宕山(あたごやま) 石段(いしだん)


【データ】 黒羽・愛宕山 250メートル▼最寄駅 JR東北新幹線・那須塩原駅▼登山口 栃木県太田市黒羽町の大雄寺▼石仏 愛宕山への石段、地図の赤丸印。青丸は愛宕山、緑丸は飯縄山▼地図は国土地理ホームページより

【独り言】 世界の石段や日本一の石段に比べればかわいいものですが、この国の山中にある寺社に石段はつきものです。しかしこれまで見てきた範囲では、愛宕山の石段は一直線にことにこだわっているという気がするのですが、いかがでしょうか。愛宕山の石段がどうしてこういう造りをするのかはわかりません。本山の京都愛宕山は階段が多い山ですが真っ直ぐではありません。愛宕山を勧請した関東の山には、他にも甲冑姿で馬にまたがる勝軍地蔵や、愛宕の使いである猪など珍しい石像に出会うことがあります。そんな愛宕山が黒羽にもありました。



 松葉川の近くの高台にある大雄寺で石造仁王を見たあと、対岸にそびえる愛宕山に向いました。御亭山登山口の案内があるところが入り口です。「愛宕山」銘のある石橋を渡るとすぐ鳥居で、柱に「愛宕大権現」と「飯縄大権現」銘があります。一直線の石段はここから始まります。地元の大谷石を使い、傾斜もゆるく、巾もあり踊り場もある登りやすい石段が続きます。いつものように石段を数えながら登りました。その数374段は、途中でわからなくなった挙句の大よその数です。これまで見てきた愛宕の石段で一番のお薦めは、福島県天栄村の愛宕山。狭くて急な300段が天まで続くような感じで迫力がありました。石段はこのブログの栃木県日光市の赤薙山でも案内しました。

 階段を登った先に建つのが愛宕神社。残念ながらここに案内するほどの石造物はありませんでした。

 飯縄大権現は御亭山方面にしばらく登った小ピークで、こちらにも石を並べただけの狭い石段がありました。こちらは石造物どころか社殿らしき建物も見当たりませんでした。
(参照)勝軍地蔵は新潟の妙高山で、猪は栃木の瀬尾・愛宕山で案内しました。

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石仏701女体山(栃木)仁王

2016年12月19日 | 登山

女体山(にょたいさん) 仁王(におう)



【データ】 女体山 409メートル▼最寄駅 JR烏山線・烏山駅▼登山口 栃木県那珂川町脇郷と荒沢の間にある東堂山▼石仏 東堂山山頂北の神社、地図の赤丸印。青丸は登山口、緑丸は呑龍山▼地図は国土地理ホームページより


【案内】 女体山は小さな里山。登山口は地図では南麓の脇郷集落からだが道がわからず、登山口表示がある南西の東堂山神社から登った。神社から山頂まで踏み跡が続く。ここに案内する仁王は、山頂の北にある神社の参道に立つ。この神社の名称については確認ができなかったが、建物内部に社殿があるので神社であることは確かだ。神社から脇郷集落の方へ参道が下っていて、すぐ下の三門に仁王が立つ。三門としたが本来は仁王門であり、神社としたが古くは寺院たったのだろう。
 門は相当くたびれているのに対し、仁王は阿像・吽像とも高さ105センチと小ぶりながら風化もなく秀作である。仁王に造立年銘はないものの、古いものという印象。最近の寺院には中国製の迫力ある石造仁王が立つ傾向にあるが、関東の寺院に古くからある石造仁王は木彫に比べればいたって平凡である。女体山から近い大田原市黒羽田町の大雄寺参道に立つ石造仁王も迫力がない。しかし関東の山で石造の仁王があるところは珍しく、このブログでは埼玉県の観音山で、拙著『里山の石仏巡礼』(山と渓谷社、平成18年)では、千葉県の高宕山、茨城県の竪破山で案内した。


【独り言】 東堂山、呑龍山 仁王を覆うくたびれた三門には、昭和34年に寄附を元に土台を修理したことを記した木札が打ち付けてありました。門の土台か仁王かはわかりませんが、それ以来手をくわえることはなかったのでしょう。もし、仁王が木彫だったとすると、とうに朽ち果てていたかもしれません。これまで山の中の仁王門の仁王が朽ちていく例をいくつも見ていますから、それを石造にした女体山山麓の人たちは先見の目があったといえます。


 女体山一帯の人々は信仰心も厚かったのでしょう。登山口の「東堂山」=写真上=は、福島県の阿武隈山中の小野町にある馬の守護で知られた東堂山から勧請したお堂です。北山麓の馬坂の山中には「呑龍山」=写真下=が祀られていました。呑龍は群馬県太田市の金山山麓に建つ大光院の僧です。

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石仏700松倉山(栃木)廻国供養塔

2016年12月16日 | 登山

松倉山(まつくらやま) 廻国供養塔(かいこくくようとう)


【データ】 松倉山 345メートル▼最寄駅 JR烏山線・烏山駅▼登山口 那須烏山市大木須▼石仏 松倉山山頂の観音堂境内、地図の赤丸印。青丸は登山口▼地図は国土地理ホームページより


【案内】 那須烏山市大木須と茂木町山内の堺にある松倉山へは大木須から登った。ここからは山頂下まで車道が入り、かつての参道も整備されている。山頂に建つ観音堂には五体の観音(聖観音2、十一面観音2、観自在尊1)が祀られ、大木須・山内の人たちによって1月17日(今は第2日曜日)に行われる祭礼時に拝観できるという。


 その境内に廻国供養塔が中半土に埋もれて倒れていた。掘り出した高さ115センチの供養塔には溢れんばかりの文字が。まず中央上部に釈迦如来の種字バク、中央に「奉納大乗妙典六十六部回国父母佛果為菩提」これを挟んで右に「天下大平国主安全 四国西国秩父坂東」、左に「国主武運長久諸旦那息延命攸」とあり、廻国供養塔ではあるがさまざまな祈願が盛り込まれている銘もある。さらに「野州那須郡烏山領松倉山 願主来覚院」「茂木 導師成国寺」、施主は長山賀右衛門以下多数の名が連なり、いくつかの村名も確認でき、大きな組織を背景とした造立であることがわかる。願主・施主・導師の役割は、願主来覚院は廻国した者の寺、施主は支援をした人たち、導師は立てるにあたって魂を入れた僧であろう。建てられたのは「宝永三丙戌歳(1706)三月吉祥日」。
 廻国供養塔の造立目的については、この供養塔のデータベース化に取り組んでいる小嶋博巳氏の「廻国供養塔から六十六部を考える」(注)によると、①廻国成就②廻国途中の中成就③死没廻国者の供養④廻国者への作善⑤廻国者自身の作善、などが挙げられている。また、造立にあたっては資金集めの勧進の必要があり、これを支援する助力者(脇願主・世話人)があったことを指摘している。
(注)小嶋博巳著「廻国供養塔から六十六部を考える」日本石仏協会『日本の石仏』№157、2016年


【独り言】 松倉山の観音堂は茂木町の山内の方を向いて建っていて、そちらにも広い道が下っています。その途中にあったのが観音堂を管理した別当寺跡で、藪のなかにも廻国塔や墓碑など4基の石塔が立っていました。麓の山内の人の話では、この別当は戦後まであって、祭礼には御札などを出していたそうです。その山内の登山口の茂木町の案内には、祭りの「当日は赤く着飾った馬が那須、芳賀、更に茨城からも集まり、山内からの参道約二キロメートルを賑わしく登った」とありました。いま観音堂を管理しているのは那須烏山市大木須の長久寺。寺で作った冊子によると、聖観音の一体は応永2年(1395)、観自在尊と十一面の一体は嘉吉3年(1443)、残る二体は江戸時代のもの、とありました。創建は大同2年(809)正月17日(かつての祭礼日)で、このあたりで雪が積もることはほとんどないので1月の祭でも山へ登れると、これも山内の人の話でした。古い観音を奉るこの山には、馬の守護と六十六部廻国者を支援する人たちがいたようです。



 松倉山の山頂は、別当跡の先の切通しの石仏(青面金剛?)が立っているところです。

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八千代新川千本桜16-12

2016年12月14日 | 


 12月は千本桜の剪定をしています。剪定といっても木が大きくなったので、手の届く範囲の小枝を切るだけです。以前は脚立を持ち込み、鋸で枝を整えたこともあったのですが、いまは一人ですることが多いし、木が育って無理になってきました。木の根元に出る孼(ひこばえ)は弱っている木ほど旺盛です。木が弱るから孼がでるのか、孼が出て養分を採られるから木が弱るのかわかりませんが、とにかく孼が多い千本桜です。

 それから、千本桜が始まるところの総合グランドにトイレができました。これで作業中に立ちションしなくてすみます。

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屋上菜園・仕事納め

2016年12月13日 | 屋上菜園



 今年も福島の義姉から茎立ち菜の苗をいただいてきました。大きく育った、苗というよりこのまま食べてもよさそうな茎立菜です。早速昨日植えました。苗の数が多かったのですが、全部植えたためプランターにギュウギュウ詰め状態です。沢山植えても少なく植えても、一つのプランターから採れる量は同じという鉄則を無視してしまいました。これで今年の作業は終わりです。玉ネギもキヌサヤも順調に育って、あとは春を待つだけです。

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山小屋日記32

2016年12月12日 | 山小屋


【自然の真っただ中】山小屋の掃除は、今年の春行ったものの鍵を忘れて入ることができませんでしたから、一年ぶりです。いつものように掃除をして、囲炉裏に火をたいて、煙にいぶされて、お茶を飲んで、昔の山の道具や古いスキー板を眺めて……。ただそれだけです。軒下には今年もスズメ蜂が巣を造りました。蜂にとってこの場所はお気に入りのようで数年前にも作っていました。


 それから山小屋への道は轍の跡も消えるぐらい藪におおわれてきました。雑木林も荒れ放題といった感じです。しかし山小屋なんて、人が住みやすくすればするほど自然から遠ざかり、自然に呑み込まれてしまいそうなこういう状況が本当の自然なのでしょう。昔、沢の途中にツェルトを張り、焚火をしながら星空を眺めたことが何度もあり、自然といものを感じました。そんな昔を、山小屋の壁に吊るしてある草鞋を見て思い出しました。

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石仏699権現岳(山梨)不動明王

2016年12月09日 | 登山

権現岳(ごんげんだけ) 不動明王(ふどうみょうおう)



【データ】 権現岳 2715メートル▼最寄駅 JR中央本線・小淵沢駅▼登山口 山梨県北杜市小淵沢町の観音平▼石仏 権現岳南西のギボシ岳斜面、地図の赤丸印▼地図は国土地理ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山と渓谷社)から転載したものです

【里山石仏巡礼20】 権現岳に登るたびに感じることだが、権現岳の山頂からは編笠山よりのギボシ岳の方が高く見えた。ここに不動三尊の石仏が三体もあることから、これを奉納した山麓の乙事(富士見町)の人たちも、ギボシを山頂としていたに違いない。
 不動明王は行者が山岳修行で感得しようとした仏で、行場となった滝に祀られていることが多く、信仰があった山でこの石仏に出会うことがある。その姿は単独が普通だが、権現岳の三体はいずれも矜羯羅・制吒迦の二童子をしたがえている。そのなかの一つには「成田山」の文字が刻まれていた。成田山は千葉県成田市の新勝寺を指す。
 下総の寒村成田村の不動明王が江戸に知られるようになったのは、元禄十六年(1703)深川の永代寺で行われた出開帳にあった。本尊を遠方の街に運んで拝観させる出開帳は資金調達に好都合で、江戸時代に盛んに行われた。特に成田不動は江戸庶民の間で評判となり、回を重ねるごとに信仰が広まった。また大名が地元に勧請したこともあって江戸末期には各地に成田不動が建立された。
 不動明王の眷属に三十六童子がある。不動明王の手足となって働く童子たちである。不動の三尊形式ではこのなかの矜羯羅と制吒迦の両童子が脇侍となる。矜羯羅はおどおどした表情に、制吒迦はひょうきんな姿に造られる。三十六童子も成田不動とともに広まった形跡がある。これを木曽御嶽の一ノ池に勧請したのは尾張の行者・儀覚(ぎかく)とされている。ここにはいまでも池を一周するように童子の文字塔が立つ。尾張徳川家は成田不動信仰に熱心な藩であった。江戸末期の御嶽信仰にかかわった行者は各地に御嶽の不動三十六童子を勧請した。甲斐駒ケ岳黒戸尾根の五合目には童子の文字塔があり、秩父・両神山の日向大谷からの道には道標がわりに立っている。

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石仏698阿弥陀岳(長野)

2016年12月05日 | 登山

阿弥陀岳(あみだだけ) 阿弥陀如来(あみだにょらい)



【データ】阿弥陀岳 28058メートル▼最寄駅 JR中央本線・茅野駅▼登山口 長野県茅野市美農戸口▼石仏 阿弥陀岳山頂、地図の赤丸印▼地図は国土地理ホームページより▼この案内は拙著『里山の石仏巡礼』(平成18年、山と渓谷社)から転載したものです

【里山石仏巡礼19】 何度登っても天気に恵まれない八ヶ岳の阿弥陀岳で、一度だけ晴れた日があった。昭和4年10月8日、この夜の阿弥陀岳山頂は快晴だった。夜半に北北西の空に出現する天体ショー・ジャコビニ流星雨を見るため、夜道を登り、三脚にカメラを据え付け、ツエルトから首を出し、空を見上げて幕開けを待った。にわか天体マニアではあったが、赤岳や権現岳や蓼科の山頂にもヘッドライトの灯が動いているのが見えて、流星雨を待っている人が他にもたくさんいるに違いないと、期待は高まった。
 阿弥陀岳は冬山で初めて登った山。雪をかき分けて中岳のコルから登ったのを初めとして、北稜とか南稜などの冬山入門コースからも登っていて、なんとなく安心感のある山だった。特に山頂にある阿弥陀如来を見るにつけ、石仏と山名がこれほど一致する山は他に無い、と感じ入っていた。
 阿弥陀如来は仏教の西方にある極楽浄土に住む仏で、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えることにより、人々はこの極楽へ往生できると信じた。浄土宗・浄土真宗・時宗などの本尊として多くの阿弥陀如来が造立され、布教の過程で「南無阿弥陀仏」と刻んだ名号塔が各地に立てられた。しかし大日如来や不動明王が山岳修行をする行者に信仰されたのに対し、阿弥陀如来は一般に布教されたため、山岳にこの仏や名号塔を見ることは少ない。ただ極楽浄土を山に探して聖地とした名残が、弥陀ヶ原や弥陀ヶ池の名で残っている所もある。阿弥陀如来は両手を重ね左右の人指し指を丸めて親指に合わせ阿弥陀定印を結ぶ。阿弥陀岳には他にも金毘羅・武尊山・羽黒山なども神が鎮座する一角があり、そのなかにもう一つ、頭部がなく二つに割れた阿弥陀如来があった。
 さて、ジャコビニ流星だが、流星雨は深夜になってもさっぱり流れなかった。午前二時過ぎには赤岳や権現岳に動いていた灯も消えてしまい、天体ショーは幕が開かないまま終わってしまった。

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石仏697朝房山(茨城)

2016年12月02日 | 登山

朝房山(あさぼうやま) 晡時臥山の神(くれふしやまのかみ)


【データ】 朝房山 201メートル▼最寄駅 JR水戸線・笠間駅▼登山口 茨城県笠間市池野辺▼石仏 朝房山の山頂、地図の赤丸印▼地図は国土地理ホームページより



【案内】 笠間市と城里町を結ぶ街道から朝房山への車道は、池野辺の集落を通り山頂下の鳥居まで続いている。鳥居の手前には山頂まで続くこれも車でも入れそうな道まである。その山頂は、中央にいくつかの樹木を残して草原の広場になっている。中央樹木の中には石祠と大きな石碑。石祠は「昭和三十七年」の造立で祭神は不明。脇に立つ「常陸名山浅房山」銘の石碑は少し古く「紀元二千六百一年(昭和16年)」の造立である。その碑文に石祠の祭神に関わる記述がある。


 「浅房山又は朝房山に作る 常陸古風土記に茨城の里此より北に高丘あり 晡時臥山と名くとある即ち是なり 祠は国造本紀に茨城國造筑波刀禰の後 額田部連の子努賀直之の祖也」とあり、古くは山頂の祠は努賀氏の先祖を祀ったものだったことがわかる。その先祖は【独り言】で紹介するが、蛇である。碑文はさらに「康平五年三月初酉の日 八万太郎義家亦東征の途次大橋八幡祠に詣で(略)これ毎年三月初酉に日に里人の登山する由来なりとす」と続いて終わる。大橋八幡祠は笠間・城里を結ぶ街道から朝房山への道に入ってすぐ左手にある神社。山頂までの道は3月祭礼の日に、里人のだれもが登れるようにと造られたのであろう。朝房・浅房・晡時臥の名がある小さな里山には大きな言い伝えがあったこの地方の名山であった。

【独り言】蛇神 奈良時代の和同六年(713)、朝廷から各国ごとに風土記撰進の詔が出ました。国内の地名・土地の様子・産物・伝承などを報告させるものでした。各国から報告が上がったはずです。しかし今日まで残ったのは、出雲・豊後・播磨・肥前とここに案内する『常陸国風土記』だけでした。さらに『常陸国風土記』の存在が知られたのは江戸時代、遠く離れた加賀藩に伝わっていたものだったそうです。その「那珂郡」のところに晡時臥山に祀られた神が取り上げられているので、秋本吉徳著『常陸国風土記』(注)から要約します。
 晡時臥山のふもとに努賀毗古(ぬかひこ)と努賀毗咩(ぬかびめ)の兄妹がいました。その妹に求婚するため、名もわからない男が毎晩訪れ、やがて結婚します。ところが夫婦になると一夜にして身ごもり、やがて小さな蛇を生んだそうです。しかしその子は、日のあるうちは口をきかず、夜になると母と話をするという不思議な様子をみて、神の子であろうと思ったそうです。そこで器(杯)に入れ、祭壇を設けて安置したところ一晩で大きくなり、大きな器(瓮)にいれてもすぐいっぱいに成長するのを見て子供に、お前は神の子であるのでこれ以上我々の手で育てることはできないから、父のものへ行きなさいといいました。すると子供は泣き悲しみましたが、帰りますから一人の童を従者として添えてほしいとたのみました。しかしここにいるのは努賀の母と伯父の二人だけですからできませんと答えると、神の子は怒りだして伯父を震殺(落雷で殺す)して天に昇ろうとしました。これに驚いた母が瓮をとって投げると神の子に当たって、昇天できなくなってしまったそうです。そこで神の子は晡時臥の峰にとどまり、努賀の子孫たちは社を建てて神の子の祀り、代々祭りを絶やさず続けている-と。
(注)秋本吉徳著『常陸国風土記』講談社学術文庫、2001年

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