Alphanumeric

ブログタイトルを変更しましたが特に意味はありません。

欄干景(56)吾妻橋(浅草・隅田川)

2011年08月28日 22時18分58秒 | 橋梁・河川・港湾






隅田川に架かる橋の中で、個人的利用頻度の高いのは永代橋と厩橋。東京駅や御徒町あたりから帰宅する際に利用する路線バスで、週に2度はこの2つの歴史ある鋼アーチ橋を渡っている。
一方、徒歩で渡る橋では、少し前まで住んでいた両国と東日本橋に架かる両国橋の利用頻度がもっとも高い、というか高かった。浅草橋や馬喰横山、新日本橋あたりから、運動がてらこの橋を渡って帰ってくることを密かな愉しみとしていたのと、柳橋近辺に淡く残る色街の情趣を味わうべく、この橋で“川向こう”へ渡るために利用していたのだ。ほぼ毎日の利用であった。



そんな両国橋に代わって、現在、最も徒歩による渡河の頻度が高いのがこの吾妻橋である。
家から一番近い隅田川橋梁となったことと、この橋の袂にある墨田区役所にヤボ用で赴く機会が一時期多かったこと、近所であるがゆえに浅草を訪れる頻度が以前にも増して多くなったことで、今や、自分にとって最も馴染み深い隅田川橋梁となった。浅草とスカイツリー擁する押上地区を結ぶ橋であるだけに観光客の往来も多く、浅草側から対岸を臨めば電子銃のようなスカイツリーと金色の雲固とビールジョッキを模したビール会社の社屋が一体となった珍景を一望できる。橋そのものの典雅さでは永代橋勝ちどき橋、清洲橋に一歩譲るが、欄干からの景観や活気という点ではこの吾妻橋に勝る橋はないだろう。



スカイツリーがグランドオープンし、煌びやかにライトアップされた折には、さらに多くの人々がこの橋を行き交うようになるのだろう。その賑々しさを思うと、かつてこの一体を覆った忌むべき惨禍が架空の話にように思えてくる。その惨禍とは関東大震災による大規模火災であり、カーチス・ルメイによって計画・実行された東京大空襲に他ならず、この界隈の地誌として永久に語り継がれる忌まわしき記憶である。東京都編集・発行の『都政十年史』によれば、
「隅田川をはさんだ下町一帯は全く火の海と化し、最後まで防火にあたろうとした人々は煙にまかれて逃げ道を失い、白鬚橋から吾妻橋にかけて道路といわず川のふちといわず、焼死者の屍がるいるいと横たわるという惨状を現出した」(空襲を受けての状況に関して)
とあり、ここを中心に展開された酸鼻極まる地獄絵図が生々しく描写されている。所々に江戸情緒や昭和風情を色濃く残す浅草・本所。しかし、ここが“そうした場所”であることを忘れたことはない。






最新の画像もっと見る