matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

新春の京都(2017)その3ー智積院と養源院

2017-02-03 11:33:53 | 京都散歩




 京都その3

 朝、京阪七条駅を降りると、ゆるい坂
の七条通りが東大路通りまで続いていま
す。


(三十三間堂)

左手に京都国立博物館、右手には三十三
間堂。

通学中の女学生たちの長い列が、通りの
両側を埋めています。

三十三間堂の東向かいに養源院がありま
す。


(養源院山門)

1594(文禄3)年、豊臣秀吉の側室
・淀殿(母は織田信長の妹・市)が父・
浅井長政、祖父浅井久政(小谷城で自刃
)の供養のために秀吉に願って創建しま
した。

1616(元和2)年には、2代将軍徳
川秀忠の正室・崇源院(江、淀殿の妹)
によって、淀殿と豊臣秀頼の菩提が弔わ
れました。

一時火災により焼失しますが、崇源院の
願いにより再興され、以後徳川氏の菩提
所ともなりました。


東大路通りと七条通りのT字路に面して
智積院が建っています。



智積院の境内には梅が開花していました。

智積院は真言宗智山派の総本山です。

智山派の大本山としては、成田山新勝寺
、川崎大師、高尾山薬王院があります。


(明王院)

明王院は智積院の護摩道場、祈祷所で
不動堂とも呼ばれています。

智積院は、もともと紀州根来山大伝法院
(根来寺)の塔頭でした。

根来寺は最盛期には坊舎2700、住侶
6000、所領70万石という大勢力で
した。

対立した豊臣秀吉は、1585年全山を
焼き払いました。
住職玄宥は高野山に逃れました。



関ヶ原の戦いの翌年1601年に、徳川
家康の保護でようやく智積院は東山に復
興しました。

1615年に豊臣氏が滅ぶと、豊臣家ゆ
かりの禅寺・祥雲寺の寺地も与えられ、
規模を拡大し、寺号を「根来寺」としま
した。


(名勝庭園)

智積院庭園は、利休好みの庭と伝えられ
山は「廬山」を、池は「長江」をモデル
にしているそうです。


(講堂襖絵)



長谷川等伯一派によって描かれた祥雲
禅寺の障壁画が、智積院に現存し、収
蔵庫で鑑賞できます。

「桜図」は長谷川久蔵25歳の作です。

急逝した翌年、父等伯が哀惜の情をこめ
て「楓図」を描きました。

他に「松に秋草図」「雪松図」等が展示
されています。

いずれも国宝障壁画を代表する見応えの
ある作品です。残念ながら撮影はできま
せん。


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2 コメント

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智積院について (ラブ・ミル)
2017-02-10 11:09:22
新春の京都(2017)その3 
京都の歴史探訪記事ありがとうございます。
毎回知らない事が多く知識が蓄積されます。

京都智積院が、真言宗智山派の総本山だと初めて知りました。数年前に、八十八ケ所お遍路めぐりをしました。後で調べてみると、なぜか智山派は、高知県(土佐)に集中しています。
聖武天皇時代、智山派は、土佐と深い関係があったのかもしれません。次回の記事を楽しみにしています。
ラブ・ミルさんへ (matasaburo3)
2017-02-14 10:15:38
コメントありがとうございます。
京都へ行くたびに、新しい発見があります。歴史が幾層にも積み重なって独特の
風土となっています。
高知(土佐)もいろいろな発見ありそうですね。行ってみたいです。

matasaburo3

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