matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

根津神社のつつじ

2016-04-27 10:23:03 | 東京散歩




 根津

 根津神社はつつじの名所として
有名です。3000株のつつじ
があります。

千代田線根津駅から10分です。

谷中・根津・千駄木を併せて、
いわゆる「谷根千(やねせん)」です。



現在の社殿は、1706(宝永3)年
創建です。

5代将軍徳川綱吉による造営で、
権現造の傑作といわれています。

江戸時代の神社建築としては
最大規模です。



境内のつつじは、徳川綱重(綱吉の兄)
が屋敷の庭に植えたことに始まる
そうです。



高村光雲の「幕末維新懐古談」には、
こうあります。

「従来神田明神とか、根津権現とか
いったものは、神田神社、根津神社
というようになり、三社権現も浅草
神社と改称して、神仏何方(どっち)
かに片附けなければならないことに
なったのである。」

権という文字は「臨時の」「仮の」
という意味で、権現(ごんげん)は
日本の神々を仏教の仏が仮の姿で
現れたものとする神号だそうです。



つつじを詠んだ俳句を見ていたら、
面白い句がありました。

「百両の石にもまけぬつつじ哉」

(立派なお庭に咲いているつつじ。
100両の石よりも値打ち
があるような・・・・)

一茶の句です。

彦根城の桜

2016-04-21 10:37:22 | 旅行




 金沢から彦根に向かいました。

彦根駅のすぐ手前で、車窓から
「佐和山城跡」と大書された標識
が見えました。

広い空地では子供たちがボール遊びに
興じていました。

 彦根

 彦根は、中山道と北陸道が合流し、
水陸から京に至る東国と西国の結節点
であり、古来から多くの合戦がこの地
で行われました。



織田信長は佐和山城に丹羽長秀を、
長浜城に羽柴秀吉を入れています。

秀吉は譜代筆頭の石田三成を、
1591年佐和山城に配置しました。

そして1600年関ヶ原の戦いの後、
井伊直政が石田三成の居城であった
佐和山城に入城しました。

直政は1602年死去しますが、
1604年彦根山(金亀山)に
彦根城の築城を開始し、1606年
天守完成時に直継が入城します。



一方、佐和山城は政権が豊臣から徳川
に代わったことを誇示するため、
徹底的に破壊されました。

石垣は彦根城築城の際に再利用された
そうです。
(日本経済新聞3月25日)



太鼓門櫓です。
本丸の表口を固める櫓門です。

背面は開放されて廊下となっています。



彦根城は天守が国宝指定された五城
の一つです。

どっしりとした牛蒡積と呼ばれる石垣
の上に、三重の天守がそびえています。

大津城から移築されたと
いわれています。



天守の上から琵琶湖が見渡せます。


石田三成(1560-1600年)は、
家康の命により六条河原で斬首
されます。享年41。

辞世は「筑摩江や 芦間に灯す
かがり火と ともに消えゆく
我が身なりけり」

三成の死後も佐和山の領民はその遺徳を
偲んで、佐和山城付近に地蔵を築くなど
してその霊を慰めたといわれています。



築城以来、彦根城には桜が植えられて
いなかったのですが、昭和9年に
ソメイヨシノの苗木1000本が植樹
され、観光のシンボルとなりました。



金沢の春ー兼六園など

2016-04-14 12:18:05 | 旅行




 金沢

 4月上旬、桜の季節に金沢を
訪れました。

雨がしとしと降っていますが、
桜はほぼ満開です。

金沢駅から、傘をさしながら
歩きました。

1 泉鏡花記念館



 武蔵が辻から橋場町に至る百万石通り
沿いほど近くに、泉鏡花の生家跡が
あり、現在は泉鏡花記念館
となっています。

泉鏡花(1873-1939年)は、
明治6年金沢市下新町で生まれました。

9歳で母を亡くします。
上京して尾崎紅葉の書生となります。



妻すずは神楽坂の芸妓で、師紅葉は
二人の関係を絶対にゆるさず、
「女を捨てるか、師匠を捨てるか」
とまで迫ります。

二人は泣く泣く離別を決意し、
この体験が「婦系図」の湯島天神の場
の下敷きになっているそうです。

紅葉の没後、鏡花はすずと結婚します。

鏡花は、美と幻想と反俗の作家と
いわれますが、川端康成、石川淳、
三島由紀夫らに影響を与えました。

2 金沢城公園



 尾張町から大手町を通って、城の
正門である尾坂門から城跡に
入りました。



石川門は、江戸時代初期から搦め手門
とされ、現在の建物は1788(天明
8)年に再建されたものです。

石川橋を渡ると、日本三名園の一つ
兼六園が広がっています。

3 兼六園



 兼六園は、池泉回遊式の江戸時代
を代表する大名庭園です。

「桜心中」は1915(大正4)年
に発表された泉鏡花42才の時の作品、
怪談です。

夜の兼六園、青年は<富士見桜>の元
から彷徨う女に声をかけます。

女は川を隔て兼六公園と向かい合った
寺町の<江月寺の桜>だと言います。

義経主従が憩いをとった記念に<君桜>
と呼ばれ、恋しい男に両手を枝を
伸ばしている。その相手が<判官桜>
ともいわれるこの公園の<富士見桜>。



「貴方は?」

「非情のものです、草木です、
木の幻です、枝の影です、
花と云うのは、恥しい、朧を
たよりの色に出て、月に霞んだ
桜ですよ。」


女は「千年、万年生きてきたのに、
無残に切り倒されるのが情けない」
と打ち明け、現実離れした話が
始まります。

今、実際に全国の桜が危機に直面
しているそうです。
病気や虫食いで、倒れる恐れも出て
きたため、自治体などが伐採を進めて
いるとのことです。

(日本経済新聞4月3日「春秋」を
参考にしました。)

皇居乾通りから千鳥ヶ淵へ

2016-04-09 10:45:35 | 東京散歩




 皇居

 皇居乾通り一般公開へ友人のT氏に
誘われました。せっかくの貴重な機会
です。

当日は肌寒く、雨が降りそうな天気
でした。



ほとんど待たされることもなく、
スムーズに入場できました。

南側の「坂下門」から宮内庁庁舎前
を通って、北側の「乾門」までの約
750メートルをゆっくり歩きました。



開花から1週間経っているのに、
両側の桜はほとんどが二分か三分程度
です。

でも森閑とした空気を味わうことが
出来ました。



「乾門」を出てから竹橋方向へ
歩きました。



この日は千鳥ヶ淵まで足を延ばすのは
止めました。

4月に入り、満開の知らせを聞いてから
千鳥ヶ淵へ出かけました。



満開までかなり待たされましたが、
見応えがありました。



入学式もあり、かなりの人出です。

絢爛豪華な見事な桜を見ていると
言葉もありません。




 さまざまの事おもひ出す桜かな

 (芭蕉)







隅田川散歩、両国~浅草

2016-04-07 10:56:48 | 東京散歩




 両国・浅草

 3月末のうららかな日、両国駅で
降りて、隅田川沿いに河川テラスを
歩きました。

1.北斎通り



野見宿祢(のみのすくね)神社です。

相撲の神様、野見宿祢を祀る神社。
本場所前には相撲協会の神事を
執り行うそうです。



葛飾北斎生誕の地碑です。

葛飾北斎(1760-1849年)は
本所南割下水に百姓の子として
生まれました。

北斎は生涯に3万点を超える作品を発表
した天才絵師ですが、転居の多さでも
有名です。

実に93回もの転居をくり返し、百回
引っ越してから死にたいと言った
という説もあるようです。

又、改号することも頻繁で、「春朗」
「宗理」「北斎」など生涯に30回
も改号したそうです。



雑誌「ライフ」で「この1000年で
最も重要な功績を残した世界の人物
100人」で、日本人として唯一86位
にランクインしました。(1999年)



現在、緑町公園に「すみだ北斎美術館」
が建設中です。

2.蔵前橋と浅草御蔵跡



蔵前の名は、幕府の御米蔵がこの地
にあったことに由来します。

御米蔵は、1620年に隅田川西岸の
現在の柳橋二丁目、蔵前一、二丁目
にかけての地域を埋め立てて造営
されました。

幕末には67棟、356戸あった
そうです。

ここで収納された米は旗本・御家人
への支給米や、幕府の非常備蓄米
で勘定奉行支配下に置かれました。

蔵前橋は昭和2年(1927年)に
完成しました。



駒形橋です。

蔵前橋と同じ昭和2年の架橋です。
もとは「駒形の渡し」がありました。

3.隅田公園



隅田公園は隅田川の両岸に広がり、
江戸時代から桜の名所として
知られています。



隅田川は多くの船が行き交う交通の
大動脈であり、人々の憩いの地でも
ありました。

吾妻橋(大川橋)ができたのは、
安永3年(1774年)。

百万都市となった江戸が繁栄し、
上方の京・大阪にも負けない
文化発信の地になった頃です。