竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

やっぱりペンギンは飛んでいる!!

2007-09-30 00:09:03 | BOOKS
いとう良一 「やっぱりペンギンは飛んでいる!!」 技術評論社 2007.04.25. 

海鳥の進化を見ると、不思議な事に、南北両半球の離れた場所で、似た環境に似た進化段階の鳥類が現れている。北半球ではウミガラス類のオオウミガラスが、南半球ではペンギン類が現れました。しかし、オオウミガラスは1844年6月4日にこの世から消えたのです。人間の商業的な捕獲によって絶滅した最初の鳥です。 卵は食用に、羽毛は防寒の保温材として、また、ペンギンも食用や防寒以外に体内の脂肪を「ペンギンオイル」として欧州人が好みました。 日本には大正4年(1915)に1羽のフンボルトペンギンが上野動物園に来たことが最初です。現在、日本全国約100カ所の動物観・水族館に11~12種、約2,500羽のペンギンが飼育され、世界中の4分の1を占める世界最大の飼育国家となっています。 ペンギンのコロコロした体型は、見た目通り体重は重く、体長80センチのキングペンギンでは12~14キロと、同体長のウミウの3キロと比べても3倍以上あり、骨が他の鳥類と違って密度が高く、重くできています。また、全身が羽毛だけで覆われているのも、他に類をみない特徴です。ペンギンのよちよち歩きは意外と早く、アデリーペンギンで時速2キロ、水中では時速7キロで泳ぎ、深度100メートル潜水し、20分程度は海中に留まることができます。 中世以前では、肉、卵、脂肪、羽毛というペンギン自体の利用でしたが、近代に入ると、グアノという糞や死骸などの数千から数万年に渡って積み重なった土層の採掘が始まります。含まれている窒素とリンが目的で、おかげで、南アフリカや南米チリでは営巣地を追われたケープやフンボルトペンギンの繁殖数が激減しています。ニュージーランドでは入植者の森林開拓でキガシラペンギンが絶滅の危機を迎えています。また、イヌやネコなどの帰化動物、そして車による被害もあります。逆に、人の手が加わりにくい南極に生息する個体数は、減少から増加に転じています。 絶滅危惧種の生活環境が改善されれば、日本が持つ飼育・繁殖技術がペンギンを救う切り札となるでしょう。

中国「犯罪源流」を往く

2007-09-29 04:42:58 | BOOKS
森田靖郎 中国「犯罪源流」を往く 講談社 2007.06.28. 

「日本の治安悪化の最大の理由は不法滞在、不法入国の外国人です。」という石原慎太郎・東京都知事の発言後、中国人の不法滞在、不法入国そして不法就労の解消へと動き出した。 不法就労している中国人の多くは、日本の3Kと呼ばれる職場で働いている。「きつい、汚い、危険」といわれる3K職場では日本人離れが進み、アジア系外国人労働者がその隙間を埋めてきた。人件費のコスト削減など合理化が求められる労働現場は、不法就労の温床になりがちで、「価格破壊」が進む産業界では、不法就労と知りながらも、安価な労働者を受け入れざるを得ない事情を抱えていた。 一方、治安の面から見れば、不法就労の外国人は犯罪の予備軍になると指摘され、治安の悪化を恐れる日本社会は、外国からの単純労働者の入国を阻んできた。 産業界が望むのは安価な外国人労働者。そこで生み出されたのが、「外国人研修制度」である。発展途上国の青壮年労働者を日本の産業界に「研修生」として受け入れ、一定期間在留する間に受け入れ事業場において実習させる。この制度では、1年目は研修生だが、2年目から2年間は実習生となり、受け入れ企業で労働者として雇われる。3K職場といわれる製造業分野の雇用主たちは、「日本人を雇うより安く済む」というホンネで、この技能実習制度を積極的に取り入れた。 外国人研修・実習生の支援機関の公益法人JITCOによると、日本で働く外国人研修・実習生は約12万人。06年だけで9万2,000人ほどが新たに来日している。その8割が中国人だ。外国人の不法就労を締め出す代わりに、その穴を中国人研修・実習生が埋める形となったわけだ。 一攫千金を夢見て来日した研修・実習生が日本で知る現実は、過酷な労働の日々である。研修・実習生の手取りは、月に6万円から多くても11万円止まり。それに比べて、建築現場で解体作業などをする不法就労者の手取りは月に20万円を超えることから、日本全国で研修生や技能実習生が1,456人失踪している。そして06年1月時点では、研修資格で入国した外国人のうち約3,400人が不法在留しているという。 外国人研修・技能実習制度は、技術移転という本来の目的とは違って、単なる単純労働者の受け入れの「隠れみの」にすぎないことが明らかにされてきている。


韓vs日「偽史ワールド」

2007-09-28 05:20:17 | BOOKS
水野俊平 韓vs日「偽史ワールド」 小学館 2007.03.10. 

2001年12月18日の宮内記者との会見で、天皇は日韓共催のサッカーW杯の共同開催国である韓国について、「私自身としては桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べた。 23日に、日本でこの発言を報じたのは朝日新聞と産経新聞だけだが、韓国では大々的な報道が行われた。韓国のマスコミは「天皇家のルーツが百済であると天皇自らが認めた」と捉えたようである。 実は「日本の天皇の起源は朝鮮半島である」という説は江戸時代から存在していた。藤貞幹は『衝口発』で日本文化の源流は朝鮮であり、天皇家の出自も朝鮮半島であると主張し、「高天原」についても新井白石が『古史通惑問』で高天原を馬韓とする説を紹介し、幕末・維新期の国学者・横山由清も天孫の祖国(高天原)を朝鮮半島に比定している。 そして、日本の植民地下にあった朝鮮は、日本と朝鮮がその祖先を同じくし、本来一体になるべきものであるという「日鮮同祖論」が、戦前、朝鮮に対する日本の植民地支配を正当化するためにさかんに利用された。 日本の植民地支配を正当化する口実として用いられた「桓武天皇生母は百済王族」説が、韓国では戦後に用途が変わって、韓国人の優越感を充足する手段として用いられている。さらに、日本の天皇家の起源そのものが百済であるとする説も唱えられている。 つまるところ、「日本人、日本文化、日本の天皇の起源は韓国(百済)である」という韓国の民間史学者の「説」の根拠を提供したのは日本人ということで、特に「桓武天皇生母は百済王族」説と「高天原は韓国」説は、日本人と韓国人が100年近い歳月をかけて作り出してきた「伝統のある偽史」と言えるだろう。


世界を見せた明治の写真帖

2007-09-27 21:23:38 | BOOKS
三木理史 「世界を見せた明治の写真帖」 ナカニシヤ出版 2007.09.15. 

明治44年(1911)1月の「東京朝日新聞」には「世界写真帖」が好評で、初版2版売切、3版発行の広告が載った。定価2円50銭は現在なら7~8千円程度の手ごろな豪華写真集になる。 前年実施の朝日新聞主催の第二回世界一周会に参加した田山宗堯が、帰国後の成果を写真帖にまとめてロングセラーとなったのだ。 「世界写真帖」は22×30センチの横本型、211頁コロタイプ印刷による写真を配し、彩色写真の皇居二重橋から始まり、出港地横浜を経て経由地ハワイ、到着地合衆国、スコットランド、南フランス、スペイン、イタリア、最終地ロシアと、世界=欧米思考であることが認められる。 田山は、風景の描画はもちろん、写真の撮影にも行わず、現地で土産物用の絵葉書や写真を購入することで「世界写真帖」を編纂したようだ。その後「日本写真帖」を編纂し、ロングセラー刊行物として好評を得た。こちらも、原版が田山あるいはその依頼した写真師の撮影ではなく、各地で撮影された写真の収集・編集を推定させる。交通の不便な明治末期には地の利を生かせる地元の写真家に依頼するよりなかったはずだ。それを東京の印刷・出版業者であった田山が編集して刊行した。 幕末に伝来した写真術は意外に早く地方に伝播して日露戦争前後には全国的に写真館が開業して撮影を行ったが、写真製版技術の全国的な普及は大正中期以後を待たざるをえなかった。その微妙なタイムラグが田山のような業者を生み出し、「日本写真帖」のような通覧写真帖編纂を可能にした。 1930年代に軍事・戦争帖の比重が高まっても、地誌写真帖は一定の刊行シェアを占めつづけた。

なぜこれほど歴史認識が違うのか

2007-09-26 19:40:11 | BOOKS
永沢道雄 「なぜこれほど歴史認識が違うのか」 光人社 2006.11.05. 

かつて、日露戦争はヨーロッパ人傲慢時代の終焉というアジアの歴史における一時期を画するものと評価され、フィリピン、インドシナ、インドで、白人支配からの自立をもとめる心情が高揚した。 しかし、日本の東北侵略、そして、犬養亡き後の斉藤実内閣の内田康哉外相は「国を焦土にしても満州国を承認する」と、国際連盟脱退は誠に遺憾との昭和天皇のご意志に反し、正しく国を焦土とする道を進んだ。1939年7月7日から始まった日中の戦争は終結。日本軍の戦死者54万人、中国側の軍人・ゲリラの死者321万人、一般市民の死者1千万人以上とされ、これには双方の満州地区の犠牲者は含まれていない。 1932年の平和友好条約から3分の1世紀以上たち、中国の経済成長はめざましく、いまや日本経済は中国抜きには語れない。 今や、恐ろしいほどの中国経済の成長は警戒心と、資源不足への不安を引き起こし、日本人の心にのしかかる中国の軍備増強と不透明性。一方、中国側にも完全には払拭されていない日本の軍国主義復活への不安。19世紀半ばのようにおたがい相手の侵略してくるはずはないという信頼関係が回復していない。 先入観を排して近代日中通史を見直す時期に来ている。

食楽ICIBA

2007-09-25 03:58:21 | NEWS
千葉中央公園で、連休の催事として行われていた野外ステージを覗きました。



会場には何故か50年代のアメ車のカスタムカーがメインにおかれていました。シャコタンで図体の大きなこの車で建て込んだ住宅街を乗り回すのは難しいだろうな。



音と飲食のコラボレーションとあって、広場にはこんな屋台が出店していました。



屋台の車はヨーロッパのワンボックスがはやりなのでしょうか?



肝心のステージは、トップバッターの「エゴセントリズム」。仲良しの女子高生トリオ。ボーカルは音を外しっ放しだけど、いかにも音楽を楽しんでいるといった感じで、好感を持てました。



こちらは中盤で出ていた「American Short Hair」。CDも出しているそうで、構成もしっかりしています。70年代の京都は「拾得」「磔磔」とったライブハウスに入り浸りだったことを思い出し、楽しめました。

プトゥ・スティアのバリ案内

2007-09-24 09:18:25 | BOOKS
プトゥ・スティア 「プトゥ・スティアのバリ案内(バリを告発する)」 木犀社 2007.06.30. 

バリは美しく治安のいい島として世界に知られている。だから、この島でテロの爆弾が炸裂したとき、多くの人は驚き、観光産業に依存するバリの経済は混乱におちいった。 バリの人びとはすでにとても消費的になってしまい、観光産業依存からふたたび農業へ戻ることも容易ではない。町に近い田の多くはすでに宅地や店舗、ホテル、ゴルフ場などに変えられてしまっている。水を流す田がなくなったというので、バリの伝統的な水利組合スバックも多くがすでに解散してしまっている。 1970年代に観光時代が到来したときの理念は「文化観光」というものだった。しかし、実際には文化を育むバリ人の「庭先」は侵食され続けた。田んぼはホテルや店屋に変えられ、渓谷はバンガローで埋め尽くされ、田を潤していた水はホテルにとられ、寺院の周りにもホテルが建ち並び、聖なる場所のたたずまいが台無しになってしまった。しかもそのホテルもレストランも旅行会社も多くはバリ島以外の人の所有である。 それと同時に隣のジャワ島やロンボク島からの貧しい人びとの流入で、「新しい文化」をバリにもたらした。交差点で新聞を売ったり、歩道に屋台をだしたり、村々に行商に歩いたり、カフェや売春婦も村にまで進出した。それら島外からの流入者たちはバリ人の消費欲をうまく利用し、宗教儀礼に用いる素材すら東ジャワから持ち込んでいる。これらはすべてバリの文化を破壊する。 民族言語の専門家のあいだでは、2041年にはバリ語は消滅するのではと取りざたされている。国語はインドネシア語で、バリの地方政府もバリ語を公用語としていない。 儀礼や捧げ物としての芸能も経済不況のなかで退潮しつつある。かつて、村の寺院の定期祭礼では、人々は芸能を提供するのに情熱を傾けていた。娘が大きくなったら寺院祭礼で踊りを披露するのは家族の自慢だった。しかし今日では生活費の上昇で、踊りの衣装を借りるだけの経済力がなくなり、芸能への情熱が低下してしまった。 バリは地獄の谷底への道をたどっているのか、それとも美しい極楽の園への道をたどっているのだろうか。


コテコテ論序説

2007-09-23 21:16:41 | BOOKS
上田賢一 「コテコテ論序説 「なんば」はニッポンの右脳である」 新潮新書 2007.05.20. 

キタとミナミをつなぐ大阪のメインストリート、御堂筋が生まれて今年で70年になる。それをきっかけに、いかにしえなんばのような街がうまれたのかを考えてみた。 キタは上品、気取った街、フォーマルな街、おしゃれして行く街、ミナミは品がない、ごちゃごちゃした街、無秩序でこわい街、普段着の街というイメージがある。東京ナイズされた美しい街キタと土着性の強い一向に洗練されない街ミナミ。そして今、多くの人たちが魅力を感じるのはミナミだ。 大阪といえば漫才、喜劇というイメージは古くからあったが、コテコテ、たこ焼き、お好み焼き、阪神タイガース、通天閣、串カツ、どて焼き、道頓堀、グリコの看板、おばちゃん、吉本興業・・・。それが現在の全国的な小坂の顔、パブリック。イメージだろう。これらはいずれもある時期までは、ポジティブに受け止められていなかった。それが今、多くの人が混沌としたエネルギーに惹きつけられている。洗練されたもの、近代的なものを持て囃す風潮が終わって、ローカルこそインターナショナル、辺境こそ普遍といった世界的潮流に変わり、大阪が再発見され、とりわけ強い土着性を持ったミナミが再認識されたのだ。 大袈裟なと思うならば、一度、なんばに来てみてほしい。賑やかで雑多で混沌として、静けさはない。それでもきっと訪れる人をリフレッシュしてくれるはずだ。


人民元は世界を変える

2007-09-22 22:46:51 | BOOKS
小口 幸伸 「人民元は世界を変える」 集英社新書 2005.11.22. 

米国の証券会社が投資家向けのレポートで、2050年の世界各国の経済規模について、一番が中国、次いで米国、インド、ブラジル、ロシアの順になると予想した。日本とドイツだけが奇跡の経済回復を成し遂げたという歴史を独占するわけにはいかない。英国の経済史家アンガス・マディソンによれば、中国は植民地化される前の1820年には世界のGDPの3分の1を占めていたようだから、世界一になっても不思議ではなく、復活したにすぎないのだ。 アジアが経済統合を深めて通貨統合を果たすのがいつになるのかは予想できないが、可能性としては3つ考えられる。1つ目はユーロのような新しい通貨の創設だ。2つ目は、円が統一通貨になる可能性だ。3つ目は人民元が統一通貨になる可能性だ。欧州の統合は政治的意思が優先した。経済通貨統合は、一つの欧州という、何度も域内で戦争をした歴史を繰り返さないための、最終的には政治統合を目標となるプロセスだった。それに比べればアジアの共同体構想は、経済的利益が優先して、アジアで新しい通貨が生まれる可能性は低い。となると将来の統合が進んだアジア経済のなかで、どちらが主導的な役割を果たしているかによって円か人民元ということになる。円がアジアのチャンピョンとなるめには製造業重視から金融重視への政策転換と、円安から円高政策への転換が必要だ。日本が現在中国と最も実力差がるのは、金融の分野で、これを生かさない理由はない。具体的には、まず東京市場をアジアの金融センターとして確立することである。そして、これまでの介入政策は改めるべきだ。不必要なリスクを増大させたり、無駄な資金を使うべきではない。アジアや世界の資本を引き入れる努力をすべきだ。そのためには強い円が望ましい。日本がアジアの金融センターになることに成功すれば、円がアジアのチャンピョンになる可能性は高まる。人民元の台頭でそうならなかったとしても、ユーロにおけるポンドの地位を占めることにはなるだろう。


星の王子さま

2007-09-21 21:14:42 | BOOKS
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 「Le Petit Prince 」 1943

「シャポーの絵としか見えない大人たち、ほんとうは大蛇なんだよ」少女がそう読み上げたとき、ああ、サンテクスの「星の王子さま」の一節だなと、40年程前に読んだことを思い出した。でも、ゾウを呑み込んだのは“大蛇”ではなく“ウワバミ”のはずだ。“ウワバミ”と訳してあったのは岩波書店(1962)の内藤濯訳だった。そうこの本だ。記憶に間違いはなかった。ところが、ここ数年で驚くほど多くの訳本が出ていた。原文の”boa”を河野万里子は“大蛇ボア”、 池澤夏樹は“ボア”、辛酸なめこは“大蛇“としていた。そもそも題名を「星の王子さま」としたのも内藤濯の意訳だ。主人公が「夜になったら星をながめておくれよ。星がみんなきみの友達になるわけさ」と言い残して消えたことから名づけたのだ。原題「Le Petit Prince」を直訳すれば、“小さな領主”となり、そこから「小さな王子」 、「小さな星の王子さま」 、「小さい王子」というのもある。多くの訳本が出るほどに、時を越えて魅了するこの物語のお気に入りの一節は、Ce qui est important,ça ne se voit pas…(たいせつなことはね、目に見えないんだよ…)<