小山觀翁 「江戸に学ぶ粋のこころ」 グラフ社 2006.02.28.
京都の人が極端にしまり屋になってゆくのは、結局経済力が下降したからで、本来はそんな性向ではなかったらしい。江戸時代後半以降、京の人々は「うまいものを食べたいけれど、思うように食べられない。その範囲内で、どのようにして体面を保ち形をつけるか」に苦労した。京都人の歴史は、その苦心の歴史だったと言えないこともない。
天明4年(1784)を期して、上方と江戸の出版物の数が逆転した。それまでは、質量ともに上方優位だった。文化、経済などすべての面で江戸が上方を凌駕したのは、この時期にあるといえよう。
江戸の人の上方蔑視がはじまるのもこのあたりからだ。それまではすべて上方文化が日本文化の中心であり、江戸はその下風に立つものと、江戸自身があきらめていた。江戸の周辺にできる品物は上等でない、という意味で、上方の「下りもの」に対して、「下らないもの」とされ、これが、「くだらない」という言葉の語源となったほどである。
寛永6年(1629)は、明正女帝践所の年である。明正女帝は、徳川二代将軍秀忠の息女和子姫と、後水尾天皇との間に生まれた姫君にあたる。称徳女帝(718-770)以後、わが朝に例を見ない女性の天皇を、なにがなんでも帝位につけようと画策した徳川氏は、公卿の反対を封じるためにさまざまな手を打った。
徳川氏は清和源氏の嫡流(直系)であり、将軍の地位につく資格があるとされたが、このいかがわしいこじつけを何より気にかけていたのは、系図をでっちあげた本人の徳川家康であった。なればこそ、徳川氏が京都朝廷をおさえるためには、是非ともその血統から、天皇を出しておかなければならなかったのだ。 家康は、物量にものをいわせて公卿の懐柔をはかるとともに、その効果や反応を知る必要があったので、洛北鷹ケ峰に本阿弥光悦(鑑定家・工芸家・書家。1558-1637)を住まわせ、芸術活動を通じて公卿に接近させ、情報収集にあたらせたといわれている。
したがって、この時期に、京都の公卿を中心とする上層階級に投入された金品は、京の町全体をうるおし、ここに豪商も生まれ、遊里、芸能にも多大の影響を及ぼしたのであった。阿国を中心とする女かぶきも、そのような基盤の上に繁栄することができた。
そうした拝金主義の京の町で、女かぶきが売春にはしり、風紀を乱したことは、想像に難くないが、徳川氏が約30年の間、これに目をつぶったのは、公卿の街京都を武士が専断すれば、公卿たちの心証を損じ、天子擁立の障害となるおそれがあったからであろう。
寛永6年に女かぶきが禁止されるのは、擁立に成功した徳川氏の「もう大丈夫、怖いものは何もない」という自信の表われといえよう。以後、徳川氏は公卿を圧迫してゆくことになり、それに比例して、京都は次第に地盤沈下してゆくのである。
京都の人が極端にしまり屋になってゆくのは、結局経済力が下降したからで、本来はそんな性向ではなかったらしい。江戸時代後半以降、京の人々は「うまいものを食べたいけれど、思うように食べられない。その範囲内で、どのようにして体面を保ち形をつけるか」に苦労した。京都人の歴史は、その苦心の歴史だったと言えないこともない。
天明4年(1784)を期して、上方と江戸の出版物の数が逆転した。それまでは、質量ともに上方優位だった。文化、経済などすべての面で江戸が上方を凌駕したのは、この時期にあるといえよう。
江戸の人の上方蔑視がはじまるのもこのあたりからだ。それまではすべて上方文化が日本文化の中心であり、江戸はその下風に立つものと、江戸自身があきらめていた。江戸の周辺にできる品物は上等でない、という意味で、上方の「下りもの」に対して、「下らないもの」とされ、これが、「くだらない」という言葉の語源となったほどである。
寛永6年(1629)は、明正女帝践所の年である。明正女帝は、徳川二代将軍秀忠の息女和子姫と、後水尾天皇との間に生まれた姫君にあたる。称徳女帝(718-770)以後、わが朝に例を見ない女性の天皇を、なにがなんでも帝位につけようと画策した徳川氏は、公卿の反対を封じるためにさまざまな手を打った。
徳川氏は清和源氏の嫡流(直系)であり、将軍の地位につく資格があるとされたが、このいかがわしいこじつけを何より気にかけていたのは、系図をでっちあげた本人の徳川家康であった。なればこそ、徳川氏が京都朝廷をおさえるためには、是非ともその血統から、天皇を出しておかなければならなかったのだ。 家康は、物量にものをいわせて公卿の懐柔をはかるとともに、その効果や反応を知る必要があったので、洛北鷹ケ峰に本阿弥光悦(鑑定家・工芸家・書家。1558-1637)を住まわせ、芸術活動を通じて公卿に接近させ、情報収集にあたらせたといわれている。
したがって、この時期に、京都の公卿を中心とする上層階級に投入された金品は、京の町全体をうるおし、ここに豪商も生まれ、遊里、芸能にも多大の影響を及ぼしたのであった。阿国を中心とする女かぶきも、そのような基盤の上に繁栄することができた。
そうした拝金主義の京の町で、女かぶきが売春にはしり、風紀を乱したことは、想像に難くないが、徳川氏が約30年の間、これに目をつぶったのは、公卿の街京都を武士が専断すれば、公卿たちの心証を損じ、天子擁立の障害となるおそれがあったからであろう。
寛永6年に女かぶきが禁止されるのは、擁立に成功した徳川氏の「もう大丈夫、怖いものは何もない」という自信の表われといえよう。以後、徳川氏は公卿を圧迫してゆくことになり、それに比例して、京都は次第に地盤沈下してゆくのである。