竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

江戸に学ぶ粋のこころ

2006-04-30 22:29:21 | BOOKS
小山觀翁 「江戸に学ぶ粋のこころ」 グラフ社 2006.02.28.

京都の人が極端にしまり屋になってゆくのは、結局経済力が下降したからで、本来はそんな性向ではなかったらしい。江戸時代後半以降、京の人々は「うまいものを食べたいけれど、思うように食べられない。その範囲内で、どのようにして体面を保ち形をつけるか」に苦労した。京都人の歴史は、その苦心の歴史だったと言えないこともない。 
天明4年(1784)を期して、上方と江戸の出版物の数が逆転した。それまでは、質量ともに上方優位だった。文化、経済などすべての面で江戸が上方を凌駕したのは、この時期にあるといえよう。 
江戸の人の上方蔑視がはじまるのもこのあたりからだ。それまではすべて上方文化が日本文化の中心であり、江戸はその下風に立つものと、江戸自身があきらめていた。江戸の周辺にできる品物は上等でない、という意味で、上方の「下りもの」に対して、「下らないもの」とされ、これが、「くだらない」という言葉の語源となったほどである。 
寛永6年(1629)は、明正女帝践所の年である。明正女帝は、徳川二代将軍秀忠の息女和子姫と、後水尾天皇との間に生まれた姫君にあたる。称徳女帝(718-770)以後、わが朝に例を見ない女性の天皇を、なにがなんでも帝位につけようと画策した徳川氏は、公卿の反対を封じるためにさまざまな手を打った。 
徳川氏は清和源氏の嫡流(直系)であり、将軍の地位につく資格があるとされたが、このいかがわしいこじつけを何より気にかけていたのは、系図をでっちあげた本人の徳川家康であった。なればこそ、徳川氏が京都朝廷をおさえるためには、是非ともその血統から、天皇を出しておかなければならなかったのだ。 家康は、物量にものをいわせて公卿の懐柔をはかるとともに、その効果や反応を知る必要があったので、洛北鷹ケ峰に本阿弥光悦(鑑定家・工芸家・書家。1558-1637)を住まわせ、芸術活動を通じて公卿に接近させ、情報収集にあたらせたといわれている。 
したがって、この時期に、京都の公卿を中心とする上層階級に投入された金品は、京の町全体をうるおし、ここに豪商も生まれ、遊里、芸能にも多大の影響を及ぼしたのであった。阿国を中心とする女かぶきも、そのような基盤の上に繁栄することができた。 
そうした拝金主義の京の町で、女かぶきが売春にはしり、風紀を乱したことは、想像に難くないが、徳川氏が約30年の間、これに目をつぶったのは、公卿の街京都を武士が専断すれば、公卿たちの心証を損じ、天子擁立の障害となるおそれがあったからであろう。 
寛永6年に女かぶきが禁止されるのは、擁立に成功した徳川氏の「もう大丈夫、怖いものは何もない」という自信の表われといえよう。以後、徳川氏は公卿を圧迫してゆくことになり、それに比例して、京都は次第に地盤沈下してゆくのである。 

「みんなの意見」は案外正しい

2006-04-29 22:10:02 | BOOKS
ジェームズ・スロヴィッキー 「みんなの意見」は案外正しい 角川書店 2006.01.31.

自分のほしい情報がすべて得られることはまずない。将来の展望についても限られた知識しかない。複雑な費用対効果を計算する能力も欲求もない人が大半を占める。あらゆる可能性から最適な選択をしようと粘るより、そこそこよさそうなもので手を打つことのほうが多い。感情が判断に影響 を与えることもある。だが、制約がどんなに多くても、一つひとつの不完全な判断が正しい方向に積み重ねられると、集団として優れた知力が発揮されることも多い。 
私が「集団の知恵(集合知)」と呼ぶこの知力は、いろいろな装いでこの世に現れる。それはインターネットの検索エンジンであるグーグルが何十億というウェブページをスキャンして、探している情報が載っているページをピンポイントで発見できる理由である。意見の多様性、独立性、分散性、集約性の4つの要件を満たした集団は、正確な判断が下しやすい。なぜか。多様で、自立した個人から構成される、ある程度の規模の集団に予測や推測をしてもらう。その集団の回答を均すと1人ひとりの個人が回答を出す過程で犯した間違いが相殺される。言ってみれば、個人の回答には情報と間違いという2つの要素がある。算数のようなもので、間違いを引き算したら情報が残るというわけだ。「集団の知恵」という言葉に実質の伴った価値を与え、私たちを驚かせてやまないのは、みんなの意見に含まれている情報量の多さだ。 
100人が100メートル走った平均記録を計算したとしよう。平均記録が、いちばん速い人の記録 よりも速いことは絶対になくて、確実につまらない記録になるはずだ。だが、100人が質問に答えたり、問題を解決したりするときには、平均的な回答がいちはん頭がいい人の回答と同じくらい、あるいはそれ以上に優れていることが多い。たいていの場合、平均的とは凡庸であることを意味する。だが、意思決定の際には優秀であることにつながる。私たちは集団としてなら賢くなれるよう、プログラミングされているように思えてくる。 
いちばん優秀な人が集まった組織が必ずしもいちばん優秀な組織ではないという考え方は異端である。特に、「才能を求める戦争」が絶え間なく行われていて、一握りのスーパースターの存在が普通の会社と非凡な会社を分ける鍵だと考えられているビジネス界では、異端である。 
人々はCSO救世主説を信じ、「正しい」人物をトップに据えることが企業の成功の鍵だといまも信じ続けている。すばらしい実績をあげているCEOも必ず存在している。だが、過去10年のビジネス界を振り返ってみると、天才という評価の高いCEOが戦略上のミスを犯して最低最悪な痴れ者として解雇される様子はそこら中に見られた。失敗したCEOたちは決して愚かではなかった。彼らは就任したときと同じくらい辞任したときも優秀で、スキルも持っていた。ただ、いつも正しい答えを導けるほどのスキルは持っていなかっただけである。そもそもそんなスキルを持っている人などまず存在しない。不確実な未来を考えるとき、経営陣はみんなの意見のほうがいちばん賢い経営者個人の判断を打ち負かす。それぞれ異なる情報を持つ多様な個人からなる比較的少人数のグループが不確実な出来事について推測し、彼らの推測を集約すると、完璧に近い判断が得られる。これ以上企業が望むことはあるだろうか。

ゴルフは中国生まれ?

2006-04-27 22:38:31 | NEWS


夏坂健の「ゴルファーを笑え!」(新潮文庫)に、12世紀北宋時代に中国でゴルフの原型に当たる捶丸(ツイワン)というゲームがあったことが紹介されています。そしてとうとう2年の歳月を掛けてゴルフセットの復元に成功したそうです。
恐るべし中国3000年の歴史。全ての元は中華にありというところでしょうか。

広田神社  武庫郡式内社

2006-04-26 07:32:13 | SIGHT

広田神社(ひろたじんじゃ) 西宮市大社町7-7
『廷喜式』神名帳の摂津国武庫郡に「広田神社」とある。旧官幣大社。
当社の神は、住吉・生田・長田とともに、神功皇后が朝鮮遠征より帰還の折、武庫泊に定泊して創祀した神と伝えられている。
『日本書紀』には「是に天照大神、誨へまつりて日はく、『我あらみたま おほみもが荒魂は皇居に近づくべからず。当に御心を広田国に居らしむべし』とのたまふ。即ち山背根子が女葉山嬢を以て祭はしむ」とある。


標柱 平安時代頃まで、西宮は広田神社のことで、現在の西宮神社は南宮と呼ばれていた。


昭和20年の空襲で焼失し、本殿は伊勢神宮荒祭宮の旧社殿を譲り受けて昭和31年に竣工。
昭和56年にも焼失し、再建された。


拝殿 祭神:天照大御神荒御魂(あまてらすおおみかみのあらみたま)
脇殿に住吉大神・八幡大神・武御名方大神・高皇産霊神を祀る。


延喜式内社 伊和志豆神社(いわしずじんじゃ) 祭神:伊和志豆之大神
もとは広田本社より東南約1.5kmにあり、大正6年7月16日に境内に移転。戦後本社に合祀されていたものを平成2年に再建。


コバノミツバツツジ  境内の丘一帯に自生する県の天然記念物。

高句麗史の歪曲?

2006-04-25 22:35:53 | NEWS
韓国は日本以外にも中国との間にも教科書問題を抱えているのですね。
中国文化部の広報誌「中外文化交流」2004年9月号に「高句麗は中国東北地方で生活した古代少数民族政権」との記事が出、また人民教育出版社のホームページ「高等学校歴史」にも高句麗を「中国の東北地方の少数民族政権」とし、唐が「668年、高句麗政権を平定し、東北辺境地域の統一を実現した」と記述されています。
ワシントンボスト紙によれば「中国の歴史関係の本は高句麗が中国内の少数民族として始まった。日本の文明も紀元前209年、不死の薬を探しに出た1000人の中国少年、少女の植民地から始まったと記録している」とのこと。

パチンコ「30兆円の闇」もうこれで騙されない

2006-04-23 21:07:50 | BOOKS
溝口 敦 パチンコ「30兆円の闇」もうこれで騙されない 小学館 2005.10.20.

 財団法人社会経済生産性本部がまとめた『レジャー自書2004』には03年のパチンコの市場規模は29兆6340億円とある。中央競馬の年間売り上げが3兆円、競輪が1兆円、競艇が1兆1000億円、宝くじが1兆円だから、他のギャンブルが束になってもパチンコ1業種にかなわない。 
ちなみにゲームセンターが5870億円、テレビゲームとゲームソフトが4460億円であり、ゲームとして見てもパチンコはひとり吃立するガリバー型産業である。もちろん単一の産業としても、目を剥くほど巨大である。自動車産業が部品を含めて41兆円、医療関係が31兆円。 
30兆円を稼ぎ出す大もとは全国1万6000店のパチンコホールである。03年には1740万人が年間平均11万2800円をホールに注ぎ込んだとされる。単純平均すればパチンコホール1店が年間20億円を売り上げた計算になる。月均しで1億6600万円~。1店でこれほど巨額を売り上げる産業はパチンコ以外にない。パチンコは現代日本で野放図に膨れ上がった化け物産業なのだ。 従業員総数は33万人、関連業種を含めれば40万人にも及ぶ。米カジノ産業の従業員数が36万人。日本はすでにカジノを凌駕する産業を持っている。 
米カジノでのスロットマシン遊技客の平均投入額が約7000円なのに対し、日本のパチスロでは1回当たりヘビー客が2万3400円(パチンコでは1万7900円)、平均的な客が1万3100円(同1万1500円)を投じる。米カジノ客より探く重くギャンブルにハマっている。 
30兆円もの巨大な蜜壷には当然多くのアリがたかる。警察OBはキャリア、ノンキャリアを含め、一説に各都道府県当たり平均1000人がパチンコ店や景品会社、ホールオーナーの組合などに天下り、再就職しているといわれる。同産業が依然、不良外国人や暴力団組員の食い物であることは周知の事実である。 
ホールオーナーの8剖が北朝鮮系か韓国系、わずか2割が台湾系か日本人といわれる業界である。北朝鮮との密接な関係はもはや日本国民の常識だろう。膨大な利益の一部が北朝鮮に送金され、金正日体制を支え、ノドンやテポドンといったミサイルや核兵器の開発に使われた。北朝鮮事情に詳しい山梨学院大学・宮塚利雄教授も「パチンコ資金が北朝鮮に送金されているのは紛れもない事実です。しかし北に限ったことではなく、韓国にもかなりのカネが流れ、あの国が経済的に発展した原資になってます。何億円、何十億円とまとまったカネを送れるのはパチンコ業者しかいません」 
風が吹くと桶屋が儲かるではないが、日本人がパチンコ玉をはじくと、家計は火の車に、日本の都市は火の海になる? あながち冗談ともいえないのである。

日本の名車60台

2006-04-23 10:14:01 | BOOKS
大内 明彦 「日本の名車60台 上 1954~1975」 学習研究社 2006.04.07.

プリンス スカイライン  
無駄を省いて軽量・高剛性で仕上げる航空機設計の手法により、きわめて合理的なモデルとして仕上げられたスバル360に対し、もう1社、性能のためには技術投入を惜しまないという姿勢を見せる戦後の自動車メーカーがあった。富士重工業と同じく、やはり旧中島飛行機の血筋を引く富士精密工業、後のプリンス自動車である。 
昭和29年にプリンス自動車を収収した富士精密工業は、翌昭和30年にプリンス・セダンを発表。この年は初代クラウンが発表されたり富士重工業が設立されたりと、日本のモータリゼーション元年にも当たる年で、技術の進歩、発展に大きな弾みがついた年でもあった。 
こうした時代の流れの中でプリンスは、プリンス・セダンの後継となる新型車を投入した。これがスカイラインで昭和32年4月の登場となる。性能の優劣が生死を分ける軍用航空機の分野にあって、わずかな性能向上のためにも手数をいとわない姿勢が、そのまま自動車作りに持ち込まれたモデルであった。 
航空機畑のメーカーというプリンス、スバルに共通して言える事柄は、無駄を嫌い合理的な設計に徹する姿勢を持つことだった。スバルはそれをコストパフォーマンスで実現し、プリンスは性能の絶対値として見せてきた。 
スカイラインは1500ccで60psのエンジンを持っていたが、同じ1500cc車と比べてみると、昭和30年に登場したクラウンで48ps、昭和36年に登場するRT20型コロナがやっと62psという状態だから、いかに優れたものであったかが分かろうというものだ。ちなみに、当時発表された最高速度は125km/hだった。  
企業は商売人でなければいけない。第1回日本グランプリで、申し合わせ事項を文字通りに解釈し、それを忠実に守って自社ユーザーの支援のみに徹したことで、プリンスは惨敗を喫する結果となった。敗因を“裏側から支援しなかったこと”とは分析せずに“他を圧するだけの絶対的な性能”を解決策としたあたりはいかにもプリンスらしい。 
プリンスは第2回日本グランプリレースの要項が明らかになると、絶対に勝てる車両の開発を決定した。S40系グロリアに積んだG7型直6エンジを、ひと回り小型なS50系スカイラインに載せてしまおうという車両計画だ。あまりによく知られたスカイラインGTストーリーの始まりだ。グランプリ用に開発されたスカイラインGTが2000GTとして商品化された。スカイライン1500のシャシーを引き延ばして6気筒エンジンを積んだ2000GTが、車両バランスに優れるわけもない。逆に言えば、バランスを崩すほどエンジン性能が突出する危うさも、マニアにとっては大きな魅力となる。なにしろ、メカニカルな作りは生真面目一方のプリンス製。精度が高く手抜きはない。メカ好きが魅入られて当然のモデルであった。

ソウルで学ぼう

2006-04-21 22:24:10 | BOOKS
水野 俊平 「ソウルで学ぼう」 岩波ジュニア新書 2006.02.24.

鍾路、太平路、南大門路。この3つの道を歩くことをおすすめしたいのは、これらの道が朝鮮王朝時代から近現代までソウルのメインストリートだったこと、周囲に歴史的な建物や遺跡が多いこと、韓国の街並の特徴がわかること、それからなによりもさまざまな性格の街があつまっている、ということです。歴史が長いだけあって、じつにさまざまな業種が寄りあつまっているのです。 
これらの道を歩いていると、「同じ業種が同じ地域にあつまりやすい」という特徴が目につきます。韓国では、とにかく同じ商売をする人たちは一カ所にあつまりやすいのです。同じ業種の中でも、さらに似た者どうしはあつまりやすく、とくに同じ食べものを売る店は一カ所にあつまりやすいことがわかります。車に乗らず、街をゆっくり歩けば、こうした街の特徴も細かくつかむことができます。コーヒーショップやスイーツの店、食堂や屋台も多いエリアなので、食事をしたりひと休みしたりしながら散策するのもいいでしょう。 韓国ではカラオケをノレバンといいます。ノレは歌、バンは房で、直訳すれば「歌の部屋」ということになります。カラオケは日本から伝えられ、1991年に釜山でできたとされています。その後、歌って踊るのが大好きな韓国人の国民的娯楽として定着し、いまでは全国で3万3000ものノレバンが営業中だといいます。ノレバン機器の市場は、クミョンとTJという2大企業がにぎっており、どこに行ってもどちらかの機械が入っています。 
システムは基本的に日本と同じですが、酒や食べものを販売しないのが原則です。もちこむことはできます。本で歌を選び、機械に番号を入力して、画面に表示される歌詞を見て歌うのも日本と同じですが、背景の映像が歌とはまったく関係ないケーブルテレビの画面だったりします。日本のカラオケの機械にくらべてテンポや音程の微調整がきかず、声量に自身のない人は歌いづらい場合もあります。また、やたらと音量が大きい機械もあり、運悪くそういった機械にめぐりあった場合には、地ひびきがするほどの大音響の中で声を張り上げて必死に歌わなければなりません。