竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

大王家の柩

2008-04-30 09:57:03 | BOOKS

板橋旺爾 「大王家の柩 継体と推古をつなぐ謎」 海鳥社 2007.05.15.


1998年1月、今城塚を熊本県宇土市教育委員会の高木恭二が歩きまわっていて、墳丘の一番高いところから赤い石片がのぞいているのに気づいた。阿蘇ピンク石だった。
阿蘇凝灰岩のうち、まれに溶岩の赤色をとどめたものがある。熊本県宇土市・馬門の森に、断崖となってそびえている赤い岩層がそれだ。乾燥するとピンクに発色するので、阿蘇ピンク石とよばれる。
2000年前後、畿内のいくつかの重要古墳から出土した石棺が、この9万年前の火山活動が生みだしためずらしい阿蘇ピンク石で造られていることがあきらかになった。古墳の時期は、倭の五王の時代終わりごろから九州で磐井の乱が起こった継体大王のとき。そして飛鳥文化が花開いた推古女帝、聖徳太子の時代。この5世紀後半~7世紀初頭のある時期の、特定の人物だけが、阿蘇ピンク石棺に葬られた。
はるばる宇土半島から摂津・大和まで、有明海、東シナ海、玄界灘、瀬戸内海の1,000km余の海を運ばれた。阿蘇ピンク石棺は、石材産地にはなく、畿内周辺の特定の古墳にしか見られない。河内王朝や継体のあと、竜山石、二上山石の石棺は各地の豪族の古墳からもたくさんでているが、阿蘇ピンク石棺のような石棺はほかになく、ある特定の「大王家の特注品」とされるゆえんだ。
継体大王以前、そして継体朝の時代に王権が九州・肥後の火の国の豪族たちと関係をもっていた。それは地方豪族同士、豪族と中央氏族の同盟、それらの氏族・豪族と大王家がむすぶことにより阿蘇灰色石とピンク石の石棺が海を渡り、それが新しい王朝であった継体時代の「大王家のひつぎ」として採用されたのだろう。
竜山石と二上山石が大王・王族の石棺だった時代に、推古女帝・竹田皇子合葬陵で、60年も前に姿を消した阿蘇ピンク石を、また掘りだして最愛の皇子のひつぎとしたのは、欽明以来の王統氏族としての蘇我氏の宿命が竹田皇子の“悲劇”をよんだことへの悲嘆、それへのせめてもの抵抗から、皇子へのはなむけとしたとも思える。そして推古は仏教の崇拝者だった。その仏教に西方浄土の思想がある。遠く東シナ海へ接する西方の地の赤い石。それに乗せて皇子を浄土へ旅立たせたかったのか……。
聖徳太子が建立した四天王寺に「熊野権現礼拝石」としておかれているピンク石の謎もそれを解明する文献上の史料も論拠もない。石棺の底のような形状からして、いつの時か慰霊のために運びこまれていた壊れた石棺を「礼拝石」としてよみがえらせたのだろうか。


現代チベットの歩み

2008-04-29 12:25:53 | BOOKS

A・T・グルンフェルド 「現代チベットの歩み」 東方書店 1994.11.25.

1950年以前のチベットは間違いなく独立国で、住民はみな幸福に微笑み、貧しいながら社会に不満をもたず、階級のない天国で深い慈悲の下に統治されていた“シャングリラ”だった。そして、残忍で仏教を敵視する中国兵が人々を虐待した。
他方で、チベットを最も非人道的な社会で、人民解放軍が解放するまで一握りの僧俗貴族が最も野蛮な刑罰と最も残虐な行為が横行する欧州型中世封建制度の中で人々を奴隷化していた。チベット研究者の見解は両極端だ。
チベット人の大部分は農奴で、ミセー(黄色い人)といわれ、納税・無償労働・労役を代償に土地で労働する権利を得た。寺に入るにも、結婚するにさえ許可が必要で、「小さく暗く寒い小屋」に住み、ヅァンバとバター茶のこね合せ、運がよければ少々の肉を食べた。
他方、金持ちは豊かで華やいだ生活を送り、大きくて壁の厚い家に住んでいた。政府の公務や荘園の管理さえ執事に任せ、仕事はせず、女性は幾日もつづくパーティーの準備やサイコロや麻雀のような遊びで過した。
人類の平等は仏教教義の重要な要素だが、チベット人が自分たちの階級制度をつくりあげる妨げにならなかった。数多くの職業が“不浄”と考えられ、仏教の階級制度はヒンズー教程ではなかったが、ラサに住むアウトカースト集団はラギヤパと呼ばれ、一定地域に動物の角でつくった家に住み、市内の人間その他の屍体の回収や糞便の汲み取りを仕事とし、1912年以前は罪人の監督もしていた。多くの寺院が1959年の反乱に積極的に参加し、反乱流民集団の支援基地となったことから、漢族はチベットの宗教制度に否定的な見方を強め、チベット人をいっせいに平和裡に宗教活動から引き離すため、還俗する僧に物質的報奨を与えた。
文化大革命で1966年に紅衛兵がチベットになだれこみ、ラサで「殴打、略奪、捜索」があった。69年末に最悪の状況は終わったが、漢族とチベット族の間に大きな亀裂を生んだ。
チベットの“独立”については2つの見解がある。亡命チベット人の見解では、チベットは1個の独立した国家であり、1951、中国の植民地占領下になって独立した地位が失われたというもの。中国の見解は、チベットは短期間英国の影響下にあり、その後、祖国中国の保護下に正当な地位を取り戻し、再び“中国の不可分の一部”となったというものだ。
ダライ・ラマが帰国したらどうなるのか?中国は難民の大量帰国を歓迎しないだろうが、北京はチベット人の“魂と理性”を獲得でき、ダライ・ラマは愛する聖なる都への帰還でチベット人に宗教的権威の回復をもたらすことができる。
「最終的に、怒りは怒りによって征服できず、過去の歴史は過去に消え去ってしまった。より大切なことは、中国とチベットの間に友好的で意義深い関係を発展させ、将来、真の平和と幸福を現実のものとすることである。これを実現するためには、双方が努力し、寛容な理解をもち、心を開くことが重要である。」


冷蔵庫で食品を腐らす日本人

2008-04-28 10:00:11 | BOOKS

魚柄仁之助 「冷蔵庫で食品を腐らす日本人 日本の食文化激変の50年史」 朝日新書 2007.08.30.

冷凍食品の生産高は2005年に153万9,009tを記録し、過去最高です。また、輸入量も前年比で12.2%増の29万1,098tと伸びています。急速超低温冷凍と調味料の向上で、20年前の冷食より格段によくなっているが、それらの食材の素性がよくわかりません。
特に中国や東南アジアから輸入した食材の素性はまだまだアヤシゲで、米国産牛肉の検査体制はないに等しく、売られている冷食の大半があっという間に手作りできるものばかりで買う必然性もありません。
コンビニやスーパーで冷えたものがどんな時間帯でも入手できるのに、家庭の冷凍冷蔵庫は巨大化する一方だ。巨大化する冷蔵庫内の傷みかけた食材で、食べきれぬ料理を作り、その料理が今日も明日も食卓にのぼる。大きな鍋の煮物は連日煮返され、3日目にはすえた味となり、最後にはゴミとして捨ててしまう。この姿は、都会でも地方でも今日よく目にする。豊かさとはほど遠いものを感じます。
1952年(昭和27)、ツナ・ソーセージという名前で魚肉ソーセージが発売されました。魚肉入りソーセージは第1次大戦中、豚肉不足におちいったドイツ、デンマーク、ノルウェー作られた記録がありますが、商業ベースにのったのは日本です。
製造したのは日本水産戸畑工場で、55年には年間9,417t、60年には10万tを超え、ピークの65(昭和40)年は18万8,094tも生産されました。
東京オリンピッックの1964年頃から、ロース肉を巻いたロールハムや牛、馬、ウサギ、羊などの肉を寄せ集めたプレスハムが誕生し、高価だった畜肉のソーセージも買えるようになり、魚肉ソーセージを「ニセモノ」と見て、70年代以後、魚肉ハム・ソーセージから畜肉ものへと移行しました。60年代の「もっと脂肪や油を摂ろう」から「健康のため、日本型食生活に戻そう」に世間がシフトしてきたのが80年代の終わりから90年代で、コピー食品メーカーも70年代以後、使用する添加物を進化させ、コピー食品が本家のホンモノよりローカロリーでコレステロールの心配もないと感じる消費者によって、もうニセモノでもコピー食品でもない、本家本元の魚肉ソーセージという地位をつかみました。
昨日のごちそうが今日はあたりまえの大衆食となり、処分に困っていた食品カスが新しい科学技術でごちそうになったりもする。食べものをめぐる下克上は今後もっと短いサイクルで激しく入れ替わってゆくでしょう。
今日の日本では、冷蔵庫もおうちの中もモノをギッシリ詰めこんでおるように思えます。食糧や人口問題、環境や資源の問題を考えると、必要なだけの食べものがあればいいし、新たな資源を使って生産するより、今あるものに手を加えながら暮らす方がいいと思います。


スーパーコンピューターを20万円で創る

2008-04-27 08:26:34 | BOOKS

伊藤智義 「スーパーコンピューターを20万円で創る」 集英社新書 2007.06.20.

1980年代当時、100メガフロッブス以上の性能を持つコンピューターはスーパーコンピューターと呼ばれ、その導入には数十億、ときには100億円を越えた。1989年秋、1台のコンピューターが開発され、当時のスーパーコンピューターの性能に達していた。その開発費は20万円。そのコンピューターの名はGRAPE-1。素人チームの手作り計算機だった。万有引力の法則は非常にシンプルな式だが、星の数が3つ以上になると正確な答えは得られず、「解析的には解けない」。一方、コンピューターを用いることで、時間を短く刻みながら計算を続けて現象を明らかにすることが可能になった。コンピューターの登場によって、星が3つ以上ある場合も「解析的には解けない」が「数値的に計算できる」ようになった。東京大学教養学部宇宙地球科学教室の杉本大一郎教授は、1983年「重力熱力学振動」を発表。自説を立証するために、高性能なコンピューターを欲していた。この天文学者による天文学者のためのコンピューター開発に、助手の戎崎俊一、大学院生の牧野淳一郎、伊藤智義が杉本の元に集まった。GRAPE-1、GRAPE-2と完成し、開発チームの中で各自の役割が自然に分かれていった。伊藤がハードウエアの開発を任され、牧野はGRAPEを使って次々と天文学上の成果を上げていった。直接の開発作業から解放された戎崎は、GRAPEの宣伝も兼ねて、方々の研究会に出かけていっては議論を繰り返していた。杉本のもとで各自がそれぞれ躍動し始め、開発チームは急速に自己発展していく。科学計算のオリンピックに相当するゴードン・ベル賞を1995年、96年と連続して受賞すると、GRAPEの名は一躍スーパーコンピューティングの世界で知れ渡っていく。そして、1983年に世界最高速のGRAPE-4を1ヶ月稼働させ続け、杉本が提唱した通り、球状星団が「重力熱力学振動」を起こしていることが証明された。杉本が東大を退官した1997年、GRAPEプロジェクトは「日本学術振興会未来開拓学術研究推進事業研究」に採択され、研究費は5年で11億円。GRAPEには5億5,000万円が投じられた。GRAPE-5は1998年に完成し、翌年のゴードン・ベル賞を受賞、2000年には開発途上のGRAPEI6を用いて、8度目のゴードン・ベル賞を受賞。現在でも、牧野がいる国立天文台と戎崎の理研で最新版のGRAPE開発が行われ、開発費は実に数十億円規模に膨れ上がっている。演算速度は初代の100万倍になるはずだ。


日本マクドナルド社長が送り続けた101の言葉

2008-04-26 09:11:59 | BOOKS

原田泳幸 「日本マクドナルド社長が送り続けた101の言葉」 かんき出版 2008.02.22.

マクドナルドの100円メニューは社内で「非常識な考え方だ」と云われたが、圧倒的にお客様を増加させる、戦略的な施策を打ち出すことが重要でした。「お客様のオーダーを受けてから作り始めるとお客様の待ち時間は長くなる」というファースト・フードの常識を覆したのが、注文を受けてから作る「メイド・フォー・ユー」システムです。それまでの作り置きでは、受注予測がはずれると、かえってお客様を待たせてしまいます。さらに非常識だったのは、この膨大なオペレーションシステムの移行をわずか半年で全国3,800店舗に一挙に導入したことです。考えてみると、日本マクドナルドのビジネスの成長は、すべて「非常識への挑戦」から生まれたものです。チャンスは、不可能のなかにあることが多いのです。2003年度の日本マクドナルドの売上高は約3,900億円。2007年度の売り上げ予想は約4,950億円で、近い将来、6,000億円を超えると確信しています。2007年度、マクドナルドは29店舗の不採算店を閉鎖し、ランドオーナーの数十店舗が閉鎖されました。同時に、約80店舗新規オープンしています。この閉店が収益性を向上させ、この3年間でプラス19.4%の客数回復となり、利益率も回復しました。今後も負の資産を整理し、成長のための投資へとシフトしていきます。マクドナルドでは、オペレーションマニュアルを「教科書」のように扱っていますが、お店で最も効率良く自分の能力を発揮するための基礎教育の教科書です。絶対にやらなくてはならないことで、それ以上は、個人それぞれの笑顔と心でやるべきだと考えています。マクドナルドの強みは、最もお得感のある「価格」対「価値認識」です。つまり、100円メニュー等の投入と共に、最もお得感のあるメニューと価格認知を高め、強烈に客数を伸ばしていく施策です。この施策を「バリュー戦略」と言います。マクドナルドでは、2005年にこの戦略を実行した結果、1年間に12.3%も客数が伸び、この4年間で1,000億円の売り上げ増加を獲得しました。全店舗で1日に37人多くお客様に来ていただいた計算になります。1時間にわずか2、3人のお客様。この日々の小さな積み重ねの連続が大きなスケールにつながっているのです。つまり、ファーストフード・ビジネスは、一瞬一瞬の勝負の積み重ねで、お客様への「コンビニエンス」お客様の期待を超える利便性の提供で発展していきました。食に関わる事業会社として食の安全が最も重要です。しかし、安全は突き詰めたらきりがなく、徹底しすぎると利益が出なくなります。外食産業において、「利益」と「安全」の追求は永遠に矛盾の関係にあるのです。今までは日本全体を1つのマーケットとして全国統一価格を設定してきましたが、地域別に顧客需要・コスト構造の違いを考えて価格設定し、全国に展開したのです。日本の商習慣を打ち破る」大きなチャレンジでもあるのです。


おいしいハンバーグのこわい話

2008-04-25 05:17:00 | BOOKS

エリック・シュローサー&チャールズ・ウィルソン 「おいしいハンバーグのこわい話」 草思社 2007.05.01. 

1948年にリチャードとマックのマクドナルド兄弟が始めた店は、食堂のキッチンを安いファストフードを製造する小さな工場に変え、ハンバーガーとチーズバーガーの2種だけにした。 1954年にレイ・クロックがふたりの事業に加わり、スピーディーサービス・システムを国じゅうに広めた。地元の事業家が自分の金でマクドナルドの店をひらき、クロックが経営のしかたを教え、店の利益を分けあうフランチャイズ方式を用いた。 1962年にはリチャードとマックの持ちぶんを200万ドルで買いとり、兄弟は1号店をビッグMと名前を変え持ちつづけたが、クロックはその向かいにマクドナルドの店をひらいて、ふたりの店をつぶした。 市や町が公園や運動場にかける予算を減らすなか、マクドナルドはアメリカじゆうの店に遊び場を8,000あまり設け、家族連れを増やしていった。 マクドナルドは世界でいちばん大きなおもちや会社で、店で売るか配るかするおもちゃの数は年に15億個以上だ。ハッピーセットのおもちゃを物価の低い国の工場から買っており、工場では14歳の子どもが1日に16時間働かされていると問題にもなった。 マクドナルドの店では、60人ほどの店員が雇われ、週に働く時間は、平均30時間。貸金の低い店員をたくさん雇って、客が少ないと早く帰らせ、人件費を低く抑えている。働く時間が長く、賃金は低く、医療保険もなく、きびしい規則に従わなくてはならないというわけで、つまらない仕事を”マックジョブ”と呼ばれている。 マクドナルドのフライドポテトの味には大きな特徴がある。揚げ油だ。大豆油7・牛脂93の比率で混ぜた油で揚げていた。こんなに牛の脂肪が多いポテトは体によくないと医者や栄養士が言いだし、1990年には植物油に切りかえ、代わりにポテトと揚げ油にビーフから作られた”天然香料”が入れてある。 マクドナルドは世界で最もコカコーラを売っている。1ドル29セントで売られるMサイズのコカコーラには9セントぶんのシロップが入っている。紙コップで砂糖入りの水を売るだけでたくさんの金を稼ぐことができるのだ。 アメリカで最もたくさん牛肉を買っているのもマクドナルドだ。牛肉の納入業者の数を5社にしぼりこみ、冷凍のひき肉を買っている。 牛肉より健康に良いと鶏を好むようになると、メニューに鶏肉の商品を要請し、キーストーン社の研究所が”マックナゲット”を開発し、タイソンフーズは生産に適した鶏”ミスター・マクドナルド”を作りだした。1983年に売り出すと、ケンタッキーフライドチキンに次ぐ販売量となった。 マックナゲットにはフライドポテトと同様、不健康な脂肪を多く含んでいた。いまではビーフの添加物は使われていないが、キロあたりの脂肪分はハンバーガーよりも多い。 大きな肥育場、食肉処理場、ハンバーガー用ひき肉工場ができたせいで、大腸菌0-157H7をはじめとする悪い細菌が広がりやすくなった。アメリカの大手精肉会社は、食品の安全を守るためにきびしい法律を作ろうという政府の動きに、いまも激しく抵抗し、精肉業界は毎年政治家に何百億ドルもの金を出している。 日本の沖縄の昔ながらの食事は、世界でも1、2を争うほど健康的だと言われている。野菜、海産物、調理で脂を抜いた豚肉、大豆などを中心とする食事で、寿命が100歳以上の割合も高かった。1976年にマクドナルドが店をひらいたことや、アメリカ軍の大きな基地があることから、ひとりあたりのハンバーガーレストランの数は日本一多い。肥満の割合も日本一で、お年寄りは自分の子どもより長生きする人が少なくない。


百貨店サバイバル

2008-04-24 06:21:14 | BOOKS

田中 陽 「百貨店サバイバル」 日経ビジネス文庫 2007.12.01. 

大阪の商業集積地は3地区に大別できる。三越(伊勢丹)が新規出店する大阪駅・梅田駅周辺のキタ。高島屋が大阪店を構えるなんば・心斎橋駅周辺ミナミ。そして近鉄百貨店が阿倍野本店を構える天王寺エリア。この3エリアを南北に走る地下鉄御堂筋線が結んでいる。 現在、市内中心部の百貨店は9店舗で、売り場面積は合計およそ40万m2。これが2011年までに、55万m2近くまで増える。 顧客の噌好が多様化する中、百貨店は一定以上の品揃えがなければ生き残りが難しい時代になった。加えて、高級ブランド店やアパレルなどの取引先は地域一番店に優先的に商品を供給し、二番店には人気商品が並ばない。その危機感が巨艦店競争に拍車をかけ、高級ブランドやアパレルメーカーの争奪戦を誘発する。 一方で、人口はゆるやかに減少を始める。売り場は増えて客が減る。大阪で起ころうとしている「2011年問題」は、全国の百貨店が直面している問題だ。 H20リティリング(阪神百貨店、阪急百貨店)と大丸が増床を計画する梅田地区に伊勢丹も出店するのは、競争が激化するマイナス要因よりも、梅田全体の商業集積地としての魅力が上がることに期待しているからだ。 高度成長から成熟社会を迎え、そして需要が逓滅しかねない人口減の社会に突入した今、百貨店が大きなパラダイムシフトに直面しているのは間違いない。 高度成長期の頃まで「流通業界の雄」と言われた百貨店は流通業界の手本だった。三越が創業時(1873=延宝元年)に掲げた「現銀掛値無」、1831(天保2)年創業の高島屋の「正札」「正道」「平等の待遇」の3つの錠。両者共、現全販売で資金繰りを安定させ、その原資で廉価販売を実現し、大衆を味方につけた。 1954年開業の大丸東京店は産業界初のパートタイマーの女性を採用し、60年は丸井が日本初のクレジットカードを発行。消費意欲をかき立てる原動力になった。百貨店は大都市だけでなく地方都市へも出店を加速し、「一億総中流」の舞台装置になった。 しかし、百貨店の経営革新は70年代から見るべきものがなくなり、大量生産・大量販売はスーパーのビジネスモデルとして定着。商品にバーコードを印刷して精算時間を短縮したのはコンビニだった。公共料金の請求書にもバーコードを印刷したことが原型となりコンビニ銀行が誕生した。 周回遅れの百貨店業界に警鐘を鳴らしたのがファンドなどの資本市場からだった。創業時からの土地や歴史的な建造物の資本効率を重んじる投資家からは改革の余地が十二分にあると映り、他業態への顧客流出を食い止め、新たな顧客を獲得する具体策を迫る。 人口の都市流入と高齢世帯の増加は百貨店経営には追い風だ。1カ所で大抵の買い物ができるワンストップショッピングは消費者にとって魅力で、高度な消費者ニーズを汲み取る熟練の販売員も強みになる。そのために必要なのは、新時代の百貨店を運営できる企業体質の構築だ。


天童木工

2008-04-23 09:23:30 | BOOKS

菅澤光政 「天童木工」 美術出版社 2008.04.10. 

天童木工は将棋の駒で有名な山形県天童市に、地元の大工、建具、指物の業者が集まり、天童木工家具建具工業組合として1940年に始動した。 戦前は軍用の木製弾薬箱の生産を、戦後に家具生産に切り替え、スギ材を使った折り畳み式のちゃぶ台、炊事用流し、茶ダンスの製造を始めた。 アメリカ軍が駐留すると、仙台の工芸指導所では、剣持勇、豊口克平らが「駐留軍家具」の製作指導に奔走。この「デペンデントハウス」のプロジェクトに天童木工も参加し、洋家具に触れる機会となった。 タンスや食器棚などの収納家具と同時に、肘掛けやフレームに成形合板の部品を取り入れた椅子も開発され、シンプルで軽快なデザインが新鮮かつ現代的に受け止められた反面、細身で薄っぺらいベ二ア板の家具というイメージもあったが、家庭用、コントラクト用の両方で市場は拡大。「成形合板の天童木工」を全国に印象づけた。 日本の成形合板技術の幕開けは1948年。仙台の工芸指導所で東京大学農学部の三好東一と山本孝が、高周波による木材加工が実用的と発表したのに始まる。成型合板は数枚の単板に接着材を塗布し、型や治具によって加圧成型。加熱して接着速度を高める。家具からスポーツ用品、家電品にまで広く使われた。 1975年にマイクロウエーブ加熱成形が開発され、デザイナーとしての剣持勇、経営者としての大山不二太郎、技術者としての乾三郎、加藤徳吉の密な連携ができ上がり、天童木工の基盤をつくりあげた。 1953年には丹下健三設計による愛媛県民会館の1400席の成形合板による椅子を製作、静岡市立体育館には3000脚の椅子と、その後の官公庁の建設ブームに乗って、成形合板家具が活躍していく。 外貨獲得のための輸出振興政策で、1957年には日本輸出家具協会が設立し、サンフランシスコに展示場を設けるが実を結ばなかった。一方、海外からの輸入家具は増加。デザインが良く、品質に優れたヨーロッパ製の家具は高級市場を席巻し、大手デパートが競って輸入家具の展示会を開いた。 とりわけ北欧家具は大きなインパクトを与えた。特に成形合板家具への影響が大きく、天童木工でも、バンス・ウェグナーやアルネ・ヤコブセンの家具を研究し、本格的な3次元の成形合板による柳宗理の名作、「バタフライスツール」が誕生した。 天童木工がこれまで契約した建築家、デザイナーは延べ70名。インテリアの立場から家具をデザインした剣持勇、豊口克平、渡辺力はプロダクトデザインの視点からとらえる。著名築家事務所から独立した水之江忠臣、長大作、松村勝男。海外でデザイン経験のある川上元美、阿部紘三、喜多俊之、梅田正徳。1976年に発売されたブルーノ・マットソンのデザインは北欧デザインの正統派だ。 海外からの引き合いも増えたが、日本での生産コストが高いため、輸出競争力がなくなっている。


popeye物語

2008-04-22 06:12:15 | BOOKS

椎根 和 「popeye物語」 新潮社 2008.03.25. 

「popeye」誌が平凡出版から創刊されたのは1976年6月25日。創刊号は、石川次郎がキャップに、アメリカのスニーカーを紹介。超一流のクライアントが広告を出し、創刊号は5万3400部売れた。 
編集長の木滑良久は、これからの新しい雑誌は、編集経験のない学生のような新人ライター、異業種からやってくる素人編集者たちに頼る方がベストだと考え、みんなで創る雑誌、“Come Join Us!”と連呼した。 
木滑と石川はポパイで、反米気分横溢の日本の学生たちにアメリカ大好きといわせ、Made in U.S.A.の商品を日本中に氾濫させた。 
1953年頃から、「対日心理戦略計画」をスタートさせていた米国はポパイの登場を歓迎し、ポパイの米国取材には米国商務省の金銭的援助が恒常化した。ポパイ誌の米国取材チームは、いつも5、6人という当時では考えられなかった人数を派遣し、いつも膨大な物と書物を買って帰るため、手荷物は大幅に重量超過したが、航空会社は大目にみてくれた。 
70年代、モノ、商品を、自然、風景のようにみる日本人が増加し、“モノ”をテーマにすればいくらでも編集企画はできた。 
ポパイの原稿作製システムは、まず各担当カポーが、ひとつの特集を5、6人のライターに取材・撮影を命じる。取材が終了すると、カポーが小見出しをつけ、写真をそえて、レイアウトに渡す。できあがったレイアウトの字数にあわせてライターが文章を書く。文頭にも末尾にも筆者のサインは入れない。 
60年代末から男性誌にも膨大な広告費が流れこみ、その7割以上を斡旋していたのが電通だった。編集長は自分のつくりたい雑誌を純粋につくればよかったが、ポパイの成功は、創刊編集長の個人的考え方以上に電通雑誌局の意向が重要視されるようになった。 
木滑と石川は80年5月27日創刊予定の新雑誌「BRUTUS」の発刊準備に入り、石川の最後の仕事、70号“これがポパイのアイビーだ!”では、VANは服装の着かたについてだけでなく、本当のアメリカの姿、アメリカの冒険心、アメリカのスポーツを日本の若者たちにスピリットとして教えてくれたと書き、最高販売数37万6200部を記録した。 
創刊と同時にポパイ誌はアメリカ商務省観光局の信頼を得、97号ではアメリカの経済紙『ウォールストリート・ジャーナル』の1面に『ポパイ』と『ブルータス』が取り上げられ、その経済的波及効果・影響力を賞賛された。 
ポパイ神話形成に功績のあったアンダーボス、カポーたちは全員退社し、石川も93年の1月に退社した。ポパイ誌の大成功で木滑は取締役になり、社長にもなり、最高顧問として現在もマガジンハウスに君臨し、98年まで日本雑誌協会広告委員会委員長を、01年まで日本雑誌広告協会理事長をつとめている。


シンプルに使うパソコン術

2008-04-21 09:24:14 | BOOKS
鐸木能光 「シンプルに使うパソコン術」 ブルーバックス 2007.08.20. 

私はパソコンが嫌いです。十数年、パソコンを「まともに」使える道具とするために悪戦苦闘し続けてきましたが、パソコンを使えば使うほど、知れば知るほど、ストレスがたまり、嫌いになります。 
何万ページもの文書、何万枚もの写真画像などが弁当箱より小さなハードディスクドライブの中に収まり、瞬時に呼び出せることがパソコンのすばらしさです。 
パソコンユーザーが欲しているのは、文書やデータの作成、メールの送受信、WEBページの閲覧といった「本来の作業」を、サクッと快適かつ確実に行うための「シンプルな道具と環境」でしょう。その道具と環境を得る手段となるのが「フリーソフト」で、フリーソフトで「シンプルな使い方」が取り戻せます。 
2007年1月、Windows Vistaという新しいOSが発売されました。新機能と引き替えに、マシン性能の大幅アップを要求されますが、そのコストに見合うのでしょうか。 
前OSのWindows XPは、乗り換える価値のあるOSでした。以前のWindows(95/98/Me)は、16ビットアプリケーションとの互換性を捨てきれず、メモリをいくら搭載しても、それをフルに活用することすらできませんでした。それに対して、Windows2000やXPは、純粋な32ビットOSとして作り直され、安定性が得られたので、乗り換える意味がありました。しかし、?Pには余計な「効果」のために、CPUやメモリに負荷をかけています。 
本来、OSというのは「ソフトを動かすための基本ソフト」ですから、極力シンプルでなければなりません。 今度のVistaは、その「余計なもの」をさらに強調する方向で作られ、1GHz以上の高速CPUと1GB以上の本体メモリ、128MB以上のグラフィックメモリが推奨されていますが、それだけのハイスペックマシンにXPを入れたら、どれだけ快適に動くことでしょう。書類を作成し、電子メールのやりとりをするだけなら、XPで十分。エクスプローラも、デザインの変更がされただけで、Windows95から始まった「拡張子を隠す」という姿勢を改めていません。
 Windowsに付属しているメールソフトOutlook Expressは、そのまま使うとHTMLメールを送信するというひどいものでしたが、これも、後継ソフトWindows Mailではまったく同じでした。ウインドウを3D化させることに力を入れる前に、既知の欠点を改善し、本来の作業性や基本的な安全性を上げる改善をするべきでしょう。 VistaもXPの初期設定を、「パソコンの性能をフルに発揮させる」「余計なトラブルを減らす」設定変更を簡単にガイダンスします。
1)エクスプローラを「クラシックスタイル」に変更する。
2)デザインをシンプルにする。 
3)アニメーションを無効にする。
4)すべてのファイルおよびファイルの拡張子を表示する。

お勧めフリーソフト 
万引き防止用に大きなパッケージに入れられ、お店で売られているソフトを市販ソフトといい、インターネットを介して流通している「オンラインソフト」中で、使用に際して対価を求めないものをフリーソフトと言います。 
フリーソフトには、ソフト開発で儲けるという発想がありません。コンピュータという道具を、より多くの人が便利に使えるようにという、純粋なボランティア精神で作られていますから、ソフトの目的は明快で、操作性もシンプルかつ合理的な方向に進化します。 
フリーソフトの多くは「小さな」ソフトで、そのぶん「小回りが利く」ソフトでもあります。拡張子が.LZHとなっている配布ファイルに遭遇したときにはLhaplus(ラプラス)という解凍ソフトで解凍すると、出てきたファイルの拡張子が.EXEになっているファイルがプログラム本体です。これをダブルクリックして実行すればソフトが起動します。 
ウイルス検知・駆除ソフトとしてはavast!が有名です。ファイアウォールソフトは、歴史も古く、有名で、フリー版もあるのが、ZoneAlarmです。スパイウェアが入り込まないようにブロックするソフトがSpywareBlasterです。
spamフィルタの中で、最強ではないかと言われているのがGmailに組み込まれているspamフィルタです。精度が高く、Spamと判別されたメールがspamフォルダに選り分けられるだけで、メール喪失がありません。また、メールボックスの容量は2.5GBという大容量で、パンクする心配はまずありません。Firefoxは使いやすくシンプルなブラウザでお勧めです。 
また、今はワード全盛時代ですが、20年後、50年後、ワードというソフトがどうなっているかは分かりません。文字だけの内容は必ずテキスト形式で保存する、という大原則を守れば、そのファイルは将来にわたって確実に編集可能ですし、再利用するときも簡単に加工できます。テキストエディタとしては、CoolMintMIKEditorNoEditorなどがお勧めです。