竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

町のうしろ姿

2007-02-28 08:27:45 | BOOKS
なぎら 健壱 「町のうしろ姿 都電沿線2006年夏」 岳陽舎 2006.12.10.

人は町のうしろ姿に気がついてあの頃はと振り返るもうそこに“あの頃”はいないのに繰り返しては口に出ず幾度もあの頃思い出す 久しぶりに訪れた鬼子母神の境内は変わっていなかった。境内に辿り着くまでのうっそうとした並木も、境内の駄菓子屋も、同じ顔を見せてくれていた。なんとなく眼に入る緑が、幼いとき見た武蔵野辺りの風景とオーバーラップした。 木漏れ日の中にたたずんで、心地よい風を頬に感じていると、そこにほっとする自分がいるのを発見する。しかしそのとき、それとは裏腹な気持ちが心に浮かんだ。いずれこの辺りの風景もなくなってしまうのではと。 場所と景観がオーバーラップした武蔵野も、そして下町も山の手の区別もつかない、東京は平べったい町になってしまった。確固たる区別さえなくなってしまった。そんなことを考えていると、途端に現実に引き戻されてしまう。 この界隈を撮影しておかなければ…‥。それならば都電沿線か。 三ノ輪橋や町屋は本来の下町ではない。しかし、下町然としている。要するに本来の下町が下町色を失っていく中、荒川区界隈も拡大した下町の仲間入りをし、下町らしさを残してくれている。それすら、だんだん希薄になってきている。“らしさ”を失いつつある。 やはり写真を撮るなら、都電沿線しかない。 降り立った鬼子母神の駅前で、愕然とさせられた。そこにあったはずの鶏肉店が忽然となってしまっている。昔はどこでも見かける、たたずまいのいい店舗だった。それが跡形もなく消え、工事中の無味な塀で囲まれていた。この場所を撮影したのはそんな昔のことではない。わずか2年ほど前である。それが消えてしまっている。 しかしそれを単に偶然だと片づけてしまうのは、怖いことである。つまり東京は刻一刻と変わっているのだ。これは偶然なんかじゃない、必然的に眼に入ったのだ。今この時間にも東京は変わりつつある。消えてしまっているものがある。 都電の停留所は全部で30。それを変則的に歩いた。本当に我ながらよく歩いたと思う。歩いて知ったことは、普段いかに我々は町を見ていないかということであった。都電沿線全てを考えると、あまり馴染みのある場所ではなかったが、これがよく行き来している馴染みの場所であっても、同じこと。見ようとしなければ、町は見えてこない。町を愛でれば、必ず新しいものが見えてくる。町がそれを見せてくれる。


映画の中で出逢う「駅」

2007-02-27 11:07:22 | BOOKS
白井 幸彦 映画の中で出逢う「駅」 集英社新書 2006.05.22.

「日本の駅には表情がない」といわれてきた。箱型の駅ビルスタイルに没個性的なものが多く、全国同じような商業施設が並べられ、地域の文化や風土を感じさせるものは少ない。戦後の復興と日本経済の急成長のなかで、機能性、経済性を最優先に行ってきたことに一因がある。また日本の建築界で、装飾の否定と機能主義を標榜するモダニズムが支配的であった。 戦前には、街の風景として静かな存在感のある、美しい駅も多かった。辰野金吾の作品である東京駅はその代表であろう。1914年(大正3)の完成で、塔やドームを王冠のごとく戴く辰野建築の特徴がよく表れている。赤煉瓦に白い御影石がアクセントとなり、荘重な美しさに飽きることがない。不幸にして戦災に見舞われ、ドームの屋根や内部の意匠は原形を失い、現在のものは当時のものより、やや小さい。しかし、鉄骨煉瓦造のため、躯体はほぼ健全で、全体のイメージは十分に復元され、その偉容には脈々たる生命を感じる。 小津安二郎の作品には東京駅や東京周辺の駅が描かれることが多い。『彼岸花』のファーストシーンは、東京駅のファサード壁面のクローズアップ。普段は何気なく眺めている東京駅の美しい素肌と目鼻立ちに改めて驚く。その後、カメラはホーム側(八重洲側)から駅の背後を映し出す。その屋根の向こうには新丸ビルと右端に日本工業倶楽部ビルがわずかに見える。東京駅の背後から駅の向こうに見える丸の内の景観は小津がよく使う構図だ。 小津監督の東京駅とその周辺の描写は、映画の舞台をそれとなく観客に知らせる。『彼岸花』では結婚式が執り行われているホテルの所在を、『早春』では主人公の職場の所在を知らせている。街のランドマークとして駅の場所性には、誰もが持っている共通の想いがあり、駅の映像はその場所で駅が担ってきた街の歴史や文化を伝えるメッセージにもなっている。 『彼岸花』では、新婚カップルの見送りで賑わう東京駅12番線が登場する。案内板は湘南電車、15時21分発の沼津・伊東行き、普通電車15両編成と表示している。そしてカメラは東京駅近くのホテルで行われている結婚披露宴の様子に移行し、何気なく当時の日本の結婚に関わる風俗や伝統を伝えている。エンディングは反対を押し切って結婚した娘節子(有馬稲子)が住む広島へ向かう父親平山渉(佐分利信)の乗る特急列車の走行シーン。豪華キャストのこの映画は、駅で始まり列車で終わる。 ケヴイン・リンチの都市認知理論は、「都市は人々にイメージされるものである」という認識に基づき、イメージされる可能性を「イメージアビリティ」と定義している。 映画における駅のイメージは駅に凝縮している人々の様々な人生への想いや体験で成り立っている。そして人々の想いや体験の中にはそれぞれの「駅らしさ」が息づいている。駅の「イメージアビリティ」が高いほど映画は鮮やかに陰影を帯びて、深い感銘を与える。それだけに映画に登場する駅の「駅らしさ」は極めて重要だ。

けなす技術

2007-02-26 00:05:13 | BOOKS
山本一朗 「けなす技術 俺様流ブログ活用法」 ソフトバンクパブリッシング 2005.03.31. 

あえて褒めるより、けなすことを手法として紹介しているのには理由がある。わざと反論し、けなし、紛争を起こすことが問題の本質に近づく最短距離であり、議論を志向するものはすべからく称賛と批判の2つの武器を研ぎ澄ましておくべきである。 称賛しか存在しない業界や分野は自浄能力を失って確実に腐っていくことは、歴史や産業を見れば誰にでも分かる話で、コントロール可能な人物を周囲に配置することによって、事実を批判的に見ることなく時代の流れに結果的に抗うこととなって破滅する。物事には光と影がある通り、そのとき成功の美名を謳歌しても、それの持つマイナスの側面にフォーカスしない限り同じプロセスで崩壊へと導かれる。それを避けるには、批判の受容と、批判を利用した行動や思想の修正以外ない。 同時に、あなたに対して何らかの批判的な言動をとる人間を大事にするべきである。それが精神的に、あるいは感情的に嫌悪するべきものであったとしても、さらにそれが嫉妬などの悪意によるものだったとしても、彼らは無料であなたに行動のマイナス面を教授してくれるからである。あなたが関心を払わない重要な問題や、本質に迫る負の側面について余すところなく論述してくれるこれらの批判者を門前払いする必要はどこにも存在しない。人間を磨くことが困難であるとするならば、議論を志す者が求めるべきは同志ではなく有力な敵対者である。立場や思想の違いがあることが、すなわち論者の持つ思考上の限界を示す。その議論がどこまで支持者を得られるのか、反論されるとしたらどのような点かといった観点は、物事の本質に迫るための道標である。 ネット上では様々な人物が存在するがゆえに、関心のないものを援用してその悪徳を煽り批判を繰り広げることが、支持者と批判者の獲得につながる。そして、話題の中心にあることが結果としてさらなる議論を呼び起こし、最終的にその議論についての本質の理解という最大の果実を与えてくれるのだ。何事かを理解しょうとする志向があるのであれば、まず褒めることとけなすこと、何よりけなす行為について注意を払うべきであり、何よりまずけなす技術に熟達しなければならない。

機長の心理学

2007-02-25 08:53:39 | BOOKS
デヴィッド・ビーティ 「機長の心理学」 講談社+α文庫 2006.07.20.

世界全体の航空業界のために、政治的任命や高官との縁故とは無縁の人びとから成る国際安全局を設立すべきではないだろうか? きっと海運業界より簡単に設立できるはずだ。 一般大衆は、安売り切符が欲しいだけで、ほかのことは何も気にかけていないとエアラインは言う。本当にそうなのか?疲れたパイロット、経費を削減するエアライン、過重労働の管制官、老朽化した航空機、最低設備の空港について知らされるべきである。ほとんどの乗客はクルーの休養がじゅうぶんか知りたいだろうし、スチュワーデスも身体強健できちんと訓練をつみ、安全に運んでくれるのか、経験の乏しい女性ではないのかを知りたいはずだ。彼らは緊急時に対応ができる乗務員のほうが、厚化粧の顔とスマートだが燃えやすい制服より好きになるだろう。 一般の人が協力できることは、機内に持ち込まず到着地で受けとる制度でなければ、免税酒類を購入しないことである。マンチェスター事故では、客室内の免税酒類が火のまわりを早くした。 経済圧力によって航空業界が再構築を迫られている情勢下では、採算性と安全性の両立を解決しなくてはならない。不幸なことに、エアラインは新しい効率の高い航空機を導入して古い航空機と交代させる必要があるときに、利益率が急激に落ちて苦しんでいる。この間題は規制緩和でさらに悪化するだろう。政治家は大衆に、規制緩和は運賃引き下げの競争に役立っていると説明できるが、エアライン同士の競争は、安全基準の引き下げ競争という結果にならないのだろうか?  巨大企業の少数寡占状態にあるアメリカ航空業界では、航空機が老朽化していく中、整備費を削減する、燃料節減と経験の乏しいパイロットの採用で経費を切り詰めるやり方が蔓延している。また儲け主義が見境なく、広告とイメージ作りが安全対策など日常的なものすべてに優先されて、巨大な予算がテレビ広告などに使われる。 管制の分野でも施設の更新が必要になっており、航空路管制レーダーの設置・更新計画が進行中だ。驚異的な進歩をもたらすはずの衛星航法・衛星通信による広範囲な管制システムは、これから全面的運用が実現するまで長い年月がかかるだろう。 ヒューマンファクターは現在でも事故原因の70%にも達している。 航空は世界の架け橋、未開拓の未来への架け橋である。利益がすべてであるなどという考えを受け入れるわけにはいかない。軽率にも安い運賃を盲目的に求めていると言われる乗客は、これから最高の安全性を要求しなければならない。利用者が政府に、国際的安全基準をもうけるよう、また自由な情報交換を実現するよう、強く働きかけるべきだ。もっとも重要なことは、ヒューマンファクターについて、パイロットだけではなく、潜在エラーが存在するシステムもふくめて、相当な深さまで調査するように圧力をかけるべきだ。

NPOの新段階

2007-02-24 13:13:56 | BOOKS
末村祐子 「NPOの新段階 市民が変える社会のかたち」 法律文化社 2007.01.30. 

今でもNPOの「非営利」という言葉が、儲けない、利益を出さないという意味で使われている場面をみかけます。また、NPOは善で、営利組織は利益だけを追求する金の亡者かのようなイメージをもたれていることがありますが、市場メカニズムにおける経済主体としての機能も保持しています。 まず、組織の構成ですが、NPOは、社員総会と理事会、事務局からなっています。営利組織も、株主総会と取締役会、そして事務局による構成です。NPOの社員総会の場合、社員が意思決定で行使できる権限は一人一票ですが、営利組織の場合は株の保有規模で変わります。また、職員は、NPOの場合、雇用契約を交わし従事する従業員の他に、雇用関係のないボランティアが存在していることが特徴です。 NPOも営利組織も、意思決定と執行、監査の大きく3つの機能を内在し、組織の機関設計や、大きな方向性についての最終決定は、社員総会と株主総会に。日常の組織や事業運営に関する意思決定は理事会や取締役会が、執行役員が事務局を指揮監督しながら実務を執行します。 意思決定、執行、自律機能、これら相互の力関係と、どのような機関設計を行うか、そして組織がもつ文化・風土は、組織の成果に大きな影響を及ぼします。したがって理事会の性格や能力は組織全体の成果を左右する重要な存在です。 NPOと営利の最も大きな違いは、出資者に対する利益分配の有無にあります。営利は株の保有を通して出資者に配当を分配し、配当を得ることが出資の動機となります。一方、NPOは、寄附という形で資金を得ますが、仮に大きな収益が得られても、利益は次の事業を通して社会に還元し、寄附者への配当は行いません。その事業の成果にどれだけ満足するかが寄附の動機です。 これが、NPOの特徴は価値観、理念を組織原理としてもっていること、営利組織は利益追求という論理で行動することが特徴とされる所以です。営利組織の場合はあらゆる資源調達において、収益という測定可能な基準が基本になりますが、NPOの場合、絶対的な基準はなく、組織が掲げている理念に共感できるかどうか、計画されている事業に共感できるかどうか、理念や事業を実現できる運営能力をもっているかどうかが、寄附者の基本的な判断基準です。また、リーダーの資質、カリスマ性といった属人的なことが基準になる場合もあり、寄附者の動機が多様であることが、NPOと営利組織との資源調達の原理として大きく異なる点です。 サービスや商品の利用者という点では、営利組織の場合、利用者はサービスを全員同じ価格で購入しますが、NPOでは、サービスの利用者の状況によっては対価を支払わない場合もあります。 NPOが活動する市場は、市場での取引価格の設定が困難で、市場規模が十分ではないという性格をもっていますので、活動に必要な経費も営利組織と同レベルには準備できない場合もあります。すべての活動に有給職員で取り組むことが困難な場合も多く、そんな時、有給職員とボランティアが協力して事業に取り組む機会も多いことから、NPOとボランティアはイコールだと理解されるようです。 ボランティアという言葉はそもそも、「自らの意思で動く人」を意味し、阪神淡路大震災での経験に照らして整理すると、全国から期間を区切って被災地に駆けつけた方々がボランティアで、刻々と変化する現地のニーズに合わせて事業を展開することで、善意と被災地のニーズとの調和を図っていたのがNPOです。つまり、ボランティアは事業や組織に身を投じる意思のある個人のことを、そうした人材や寄附などを活かしながら課題解決のための事業を運営する組織をNPOといいます。

アウトローたちの履歴書

2007-02-23 21:56:40 | BOOKS
石原行雄 「アウトローたちの履歴書」 彩図社 2006.12.11. 

開運商法・企画マンの山岡はマーケティングリサーチのやり手で、プランナーであり、コヒーライターでもある。 オカルト雑誌やインターネットで、胡散臭いネタを拾い集めていた。超常現象、占い、ネイチャー、ヒーリング、エコロジー、イルカとクジラ……。顧客予備軍の琴線に触れそうなキーワードを拾い、熱いうちに商品にした。 両岡の広告にはバターンがあった。まず、その大げささ。例えば、ペンダントやブレスレットのおかげで手に入れるクルマは、フェラーリかポルシェかベンツ。ボーナスやギャンブルで手にする臨時収入は、最低百万円。 特徴のもう一つは、とにかく感嘆符が多いこと。「!」だらけの広告。しかも、びっくりマークは1つでなく、ノッている部分では3連や4連も多用された。「広告で徹底的に夢を見させてやるんだよ」。そう言う一方で、女性週刊誌や女性ファッション誌の後ろのダイエットや美容整形の広告を参考にするのだ。 しかし、商品そのものには無頓着だ。アクセサリーやブレスレットは、雑貨店で数百円も出せば買える、見るからにチープなもの。はめ込まれた石も、宝石との触れ込みだが、あまりにも小さく、かえって安っぽく感じられた。 発注に際しての唯一こだわりは、原価に関してのみ。「原価がどれだけ安くても、『日く付き』ならいくらで売ってもいい」。原価が200~500円で、市販価格が2,000円というアクセサリーも、オカルト的「由緒」を付けると、1万円~5万で売ることができた。ある程度の金額なら勢いで手を出しやすく、買った後で泣き寝入りしてくれる。おかげでトラブルに巻き込まれたことはなかった。 「効果がない場合、お取り替えいたします」と謳った商品は、クレームとともに商品が返送されてきても、別の在庫と換えてもう一度送り返すだけ。何度でも客が気の済むまで、あきらめるまで、商品を換えては送り返す。 それでも、しつこく食い下がるクレーム客には、さっさと代金を返した。何時間も電話の相手をするよりも、返金する方が楽だ。長電話で仕事時間を削られずに済む方が安上がりだ。必要経費のようなもの。それくらいの分はほかの客からたんまり儲けている。

日本ジャズ者伝説

2007-02-21 22:52:26 | BOOKS
平岡正明 「日本ジャズ者伝説」 平凡社 2006.07.03. 

ナット・コールとナタリー・コールの父娘二重唱「アンフォーゲタブル」アンフォーゲタブル。あの日お父さんが買ってくださった下駄をわすれられないの・・・。ちがたか?いや、ちっともちがわないぞ。今はトップスターになった娘ナタリーが、亡き父の遺した名唱にかぶせて二重唱する歌声は、父親の胸に頭をもたせかけて、この一瞬はナット・コールの娘である幸せを唄っている。アンフォータ下駄。戦後日本の、最も人気のあったジャズ歌手は、彼である。ナット・コールはジャズ史に1ページをかざる名ピアニスト。ピアノ、ギター、ベースによるナット・コール・トリオのスタイルは、直にオスカー・ピーターソン・トリオにひきつがれる。「トゥ・ヤング」や「アンフォータゲブル」を、お菓子みたいに甘いジャズだと思ったらとんでもない。髪に白いものをおくようになって、恋することに臆病になった自分を歌うのが「トゥ・ヤング」。もう若い頃のように一直線に進めない。だからあなたを離れたところから見守っている。「ウィ・アー・ナット・トゥ・ヤング」の「ナット」に力点がある。だから「ナット・キング・コール」・・・。同様に「アンフォーゲタブル」は、娘ナタリーが「ナット・トゥ・ヤング」、若すぎない年齢に達して、父親の大きさをわかるようになった歌だ。


日本魅録

2007-02-20 08:04:37 | BOOKS
香川照之 「日本魅録」 キネマ旬報社 2006.10.31. 

ドラマの現場ではシーンの収録が終わるごとに「プレビュー」と称して、いま撮った箇所をすぐにモニターでチェックする習慣がある。「プレビュー」とは、ビデオにノイズが出ていないかとかマイクが見切れてないかとか俳優の動きが繋がっているかとかの「表面的な確認」のためで、「演技の質の追求」だったり、「画面の質の向上」のためではない。その類の余裕はいまのテレビ界にはない。それどころかスタジオで一度本番を収録してしまうと、俳優たちの演技もNGでさえなければ成立したと見なされてしまう。スピーディに撮っていかねばならないテレビの現場では、本番がシュートされてしまえば「演技の深みへの旅」はもう終わりなのだ。撮られてしまえば後は諦めるしかない。 それにしてもなぜプレビューを見た後で問題点を直したのでは遅いのか。 かつて映画の現場にはビジコン(モニター)というものは存在しなかった。映画における空間では、これまで長い間、目の前で起きている生身の芝居だけが真実だったのだ。 篠田正浩監督も「モニタリングすることで、色彩や構造を試行錯誤しながら画面を多面的に支配できる現代のデジタル撮影法を「スパイ・ゾルゲ」で採用したが、自分自身は画面の隅々までそういう支配をしない、本番での演技の一回性のような演出を重視している」と仰っている。準備さえ強固なら、その時そこで起こることは全部受け入れる。 中国映画では、姜 文監督も霍建起監督も、テストから毎回ビジコンの映像を録画してプレイバックの度に俳優を画面前に勢揃いさせ、俳優の動きに対して直接モニターに指を触れながら何度も検討を重ねる。良い画を撮るためだったら形振り構わず、覗き魔のようにモニタリングしまくる中国の撮影法は、全てを自分たちでコントロールしょうという大陸的性格の投影だと考えられる。それに比べて、カンニング的モニタリングを「武士は食わねど高楊枝」だと放擲し、むしろ自然の成り行きを享受しょうとする我が国の撮り方は、実にワビサビの境地に似ていると思う。 いつの日か何かの間違いで私が映画監督をしたなら、どっちのタイプになるのだろうと想像してみた。モニターは穴が開くほど見るだろうし、けど本番はやっぱり芝居場の方にいたいし、うーん……迷っている。

頭を冷やすための靖国論

2007-02-19 00:05:47 | BOOKS
三上修平 「頭を冷やすための靖国論」 ちくま新書 2007.01.10. 

神社神道での神は雑多であるが、近世まで没後まもない人間が神社の神に祀られることは、御霊信仰を除けば例のないことであった。歴代天皇のうち事績の顕著な者や、南北朝時代の忠臣など国家的英雄を神とする形態の神社神道は明治初期に創出された。 靖国神社の起源は、幕末の動乱の中で勤皇の志士たちが営んだ同志追悼の招魂祭にある。維新政府は鳥羽伏見の戦に勝利すると、神道を持ち上げて仏教の地位を落とす一連の宗教政策を矢継ぎ早に行い、官軍側の戦死者のみを神道式で祀リ、賊軍の死者は棄ててかえりみないという独自の戦死者追悼の方式が確立されてゆく。新政府軍が全国を刷圧した1869(明治2)年6月、九段に招魂場が設けられ、1879(明治12)年6月、東京招魂社は別格官幣社という社格を与えられて、靖国神社と改称された。 現行の政府主催の8月15日の全国戦没者追悼式典は1963(昭和38)年に始まった。日本遺族会からの要望を受け、追悼の対象を軍人・軍属に限定せず、空襲犠牲者などの民間の犠牲者にも広げて、宗教的儀式はともなわない。要人の式辞では「わが国の今日の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲のおかげ」という定型化した言説がくりかえされる。 生還を期しがたい大和の出撃を前にして、青年士官は、海軍兵学校卒にせよ、学徒出身にせよ、この戦争の前途がもはや絶望的で、大和の出撃も焼け石に水であることはわかっていた。だがその死の意義についての両者の意見は割れた。この激論を制して納得せしめたのは、唯一、臼淵大尉の次の発言だったという。 進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ日本ハ進歩トイフコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダハツテ、本当ノ進歩ヲ忘レテヰタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ハレルカ 今目覚メズシテイツ救ハレルカ俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ヂヤナイカ (森岡清美『決死の世代と遺書』) 臼淵発言は、敗戦時およびそれからしばらくの時代に、あの世代が見出しえた、戦争の意味づけのおそらくは最大公約数であったであろう。 生き残った者としての負い目を感じつつ戦後を生きた同世代の人々は、彼らの弔い合戦的な壮絶さで高度成長を達成し、振り返ったとき、「ああ、彼らの犠牲を負い目として頑張ったからこそ、自分たちはこうもなれた」という感謝の気持ちが湧き起こったであろう。 それからすでに数十年、戦争を振り返るための資料も飛躍的に豊富になり、交戦相手国側の人々が何を感じて同時代を生きていたかの証言もいくらでも手に入る時代となっている。それらを評価し、自分の立場を決めるとなると、人によって千差万別はなはだしい。しかし、日本という国家が存在し、外国からも国としての基本的なスタンスは何なのかと問われている。われわれはこの時代なりの最大公約数を見出す作業に真筆に取り組まねばならない。われわれの時代には、われわれの時代の臼淵が必要なのである。

南京「百人斬り競争」の真実

2007-02-18 03:04:45 | BOOKS
東中野修道 南京「百人斬り競争」の真実 ワック 2007.01.30.

昭和12年(1937)南京陥落まであと2週間となった11月30日、東京日日新聞と大阪毎日新聞(ともに現在の毎日新聞)が常州にて20日浅海、光本、安田特派員発》という記事を掲載する。見出しは「百人斬り競争!両少尉、早くも80人」「常熟、無錫間の40キロを6日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたった3日間で突破した。まさに神速、快進撃。その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた2名の青年将校がある。無錫出発後早くも1人は56人斬り、1人は25人斬りを果したといふ」 昭和22年(1947)連合国軍総司令部(GHQ)は、新聞に掲載された野田毅少尉と向井敏明少尉を中国に引き渡す。 向井少尉の実弟が毎日新聞の浅海一男記者を訪ねあて、証言してもらった。「両氏の行為は、決して住民あるいは俘虜等に対する残虐行為ではありません」しかしそこには「創作」という肝腎の言葉はなかった。 1947年(昭22)12月18日に南京軍事法廷において両少尉に死刑を宣告される。その判決の「主文」は次のようになっている。「向井敏明、野田巌、田中軍吉ハ作戦期間共同連続シテ俘虜及非戦闘員ヲシタルニ依り、各死刑ニ処ス向井敏明及野田巌ハ紫金山麓ニ於テ殺人ノ多寡ヲ以テ娯楽トシテ競争シ、各々刺刀ヲ以テ老幼ヲ間ハズ人ヲ見レバ之ヲ斬殺シ、其ノ結果、野田巌ハ百五名、向井敏明ハ百六名ヲ斬殺シ勝ヲ制セリ」(日本国法務省訳)2日後の12月20日、朝日新聞は判決を伝えた。「南京虐殺者に死刑【南京18日発中央社=共同】南京大虐殺事件で150人ぎり競争をした元中島部隊所属の小隊長向井敏明、元副官野田毅、それに300人ぎりの田中軍吉元大尉の3戦犯は18日南京軍事法廷で各死刑を宣告された。」 1985年(昭60)南京に開館した「南京大虐殺記念館」には、等身大の両少尉の写真が展示され、今日に至っている。平成18年5月。両少尉のご遺族が、冤罪を訴えた裁判において、東京高裁の判決が出た。「南京攻略戦当時の戦闘の実態や両少尉の軍隊における任務、一本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性等に照らしても、本件日日記事にある『百人斬り競争』の実体及びその殺傷数について同記事の内容を信じることはできないのであって、同記事の『百人斬り』の戦闘結果は甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である。 しかしながら……両少尉が、南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、……『百人斬り競争』を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである」数を別とすれば、両少尉の不法殺害を認定する判決であった。