Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーなどのゆるい話題と、SFや美術のちょっとだけマジメな感想など。

根津美術館『KORIN展 国宝「燕子花図」とメトロポリタン美術館所蔵「八橋図」』

2012年05月19日 | 美術鑑賞・展覧会
ゴールデンウィーク中の話になりますが、根津美術館で5月20日まで開催されている
『KORIN展 国宝「燕子花図」とメトロポリタン美術館所蔵「八橋図」』に行ってきました。



今回の「KORIN展」では、タイトルどおり、尾形光琳が描いた「燕子花図屏風」と「八橋図屏風」が、
約百年ぶりに揃って展示されています。

実はこの二作品、昨年のこの時期に揃って展示される予定でしたが、ご存知のとおり開催直前に
東日本大震災が発生。
その後すぐに翌年への延期が告知され、それから実に1年後、ようやくこの展示が実現したものです。

一年待つのは長かったけど、今こうして無事に2作がそろって見られたのは何よりうれしいし、
あれからもう一年経ったんだな・・・という思いも加わって、普通に見るよりもありがたみが増したように
感じました。

ミニ屏風が欲しかったのですが、グッズ売り場になかったので、チラシを使って作成してみました。

燕子花図屏風(根津美術館所蔵)

二つの屏風は、どちらも平安時代に書かれた「伊勢物語」を主題としており、主人公の在原業平が
三河国の八橋に至った際の場面を描いたとされています。
しかし先に描かれたと言われる「燕子花図屏風」では、地名の由来となった八橋は画面内に無く、
燕子花の花の群生しか描かれていません。

江戸時代、これらの作品を所有していた富裕層には古典の知識が不可欠だったので、「燕子花」とくれば
「伊勢物語」と結びつけるのが当然だったとか、あるいは花の群生が八つあるのを八橋に見立てている、
といった解釈もあるとか。

まあそれはともかく、この絵の魅力は「燕子花」の鮮やかな色とユニークな形を最大限に活かしつつ、
自然な「風景」として描いたところにあると思います。

燕子花そのものは簡略化されていますが、いかにも高級そうな顔料によって強烈に発色し、
これが金屏風の下地と合わさって豪華な画面を作り出しています。
でもこの金色を「水面の反射」に見立てると、意外に素直な風景画にも見える・・・というのが、
この絵が持つ別のおもしろさ。

光琳はこの光の具合によって、描いていない水や群生の奥行きまで表現しようとしたのでしょうか。
だとすれば、そこには若冲や応挙のような超絶描写とはまた違った「発想の斬新さ」という個性が
光り輝いているようにも思えます。

そして「燕子花図屏風」より十数年後の作品と言われる「八橋図屏風」では、名前にもあるとおり、
とうとう「八橋」が登場しました。
そしてこの八橋がまた強烈で、燕子花の花を上まわるほどに個性的な形をしています。

こちらもチラシを流用して、ミニ屏風を作りました。

八橋図屏風(メトロポリタン美術館所蔵)

橋というよりも、まるで画面の中を稲妻が走り抜けたみたい・・・むっ、もしやこのデザインには、
さりげなく「風神雷神図屏風」のモチーフが託されているのかも!(笑)

さすがに風神雷神はオーバーでしょうけど、やはりこの橋には単なるデザインだけでない、
もうひとつの意図が秘められているような気もします。
それは屏風絵という形式のみが可能とする、一種の「立体視効果」をさらに高めるための、
視覚的なトリックではないか…というもの。

文章では説明しにくいので、せっかく作ったミニ屏風を使って検証してみましょう。

屏風を折らずに見ると、やや平べったく見えます。


これを半分だけ屏風状に折り曲げると、折った側だけ立体感があるように見えてきます。


そして全部を屏風状にすると、燕子花に囲まれた橋が手前から奥へと伸びている感じになりました。


さらに板の厚みや橋桁の位置なども考慮すると、右隻と左隻の中心よりもやや左に寄って見たほうが、
より奥行き感が感じられるように思います。


「燕子花図屏風」では“描かないことで奥行きを出してみせた”光琳ですが、「八橋図屏風」では
しっかりと橋を描きつつ、屏風の角度と直線的な橋をジグザグに組み合わせたデザインによって、
新たな立体表現に挑んだようにも見えます。
また燕子花の花も以前より細密な描写になっており、絵全体がより現実の光景へと近づいたようにも
感じました。

文学作品を扱いながら、その中に光琳なりのリアリズムを持ち込もうとした実験精神の成果こそ、
この「八橋図屏風」である、と解釈することもできそうですね。

これは私の主観なので、実際に見たときにどう見えるかはその人次第でしょう。
ただし「こういう見方もあるなあ」と思いながら見てもらると、そんな気になるかもしれません。

こうやっていろいろと見立てができるのも、光琳が作中に主題となる人物などをはっきりと
描きこまなかったおかげだし、それによって初めて可能な「遊び」ではないかとも思います。
なにしろ燕子花の絵を「伊勢物語」に見立てること自体が、もともと遊びみたいなものですしね。

そして咲き誇る燕子花を眺めながら、目の前に伸びる八橋を見据えるとき、私たちは自らが
在原業平となり、彼が見ていた風景を目にしていることになるのだと思います。

二つの燕子花図を横並びで見られる展覧会が、次にいつ開かれるのはいつのことか。
・・・もしかすると、また百年待たなければならないかもしれません。
両者を見比べるためにも、この絶好の機会をお見逃し無く。

庭園では五月の節句にふさわしく、本物の燕子花が見ごろを迎えていました。





この花の色と形、そして垂直に伸びた葉の形・・・確かに光琳の描いたとおりです!
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『風の谷のナウシカ』原作ラストに対する、私的な解釈と感想

2012年05月13日 | アニメ
先日、テレビで『風の谷のナウシカ』が(何度目かの)再放送をされたとき、ネットでの反響を見て
「今でもアニメより原作を支持する人が多い」ということを確認しました。

それを見てふと考えたのが「あのラストの意味を、皆さんどう考えてるのだろうか?」ということ。
そして自分にとって、原作版とアニメ版はどういう風に違い、それをどのように受け入れているかを、
ある程度は整理しておきたい、ということでした。

そこで今回は、主に原作ラストの解釈を中心に、私なりのナウシカ観などを書こうと思います。

(ここから先はネタばれになるので、もし原作を読んでないならスルーしてください。)

原作コミック版最終巻で、ナウシカは旧世界の遺跡「墓所」の深部に突入し、旧人類が遺した
管理システムである「墓所の主」から、自分たちの生きる世界についての秘密を知らされます。
それは、腐海とその生態系が地球環境を再生するために計画された、人工的な浄化プラントであること。
さらに、その周辺に暮らす生き残りの人類たちも、実は広範に撒き散らされた毒への耐性を与えられた
改造種であり、世界が浄化されれば腐海の生物と共に絶滅する運命にある、ということです。

「墓所」には、浄化完了後に人類を元に戻す技術も保存されていましたが、ナウシカはそれを拒んで
旧人類の遺産を破壊します。
このときに彼女が発したセリフが「ちがう。いのちは闇の中のまたたく光だ!!」なのですが、
ここで彼女が言う「いのち」が、「人類」のものだとは、ひとことも触れられていません。

むしろ前後の文脈から読むと、ナウシカは腐海の存在する世界こそ、いまある「自然」の姿だと受け止め、
やがてその「自然」が滅び、新たな「自然」が生まれるなら、そこに人類だけが生き残っていること自体が
「不自然」だという考えに到ったうえで、腐海と人類が先も生き残れるかは「この星」が決めることだ、
と言い切ったように読むことができます。

生というものは本来不確実である、という自然の摂理に沿って考えるなら、ナウシカの決断は正しく、
そして崇高なものだと言えるでしょう。
実際、わたしもこの言葉に泣いてしまった人のひとりでした。

しかし、逆に言うと、このナウシカの考え方は、今のわたしたちが追い求めてきた理想としての
「自然の摂理に逆らってでも、より長く、より健康に生きたい。」
「そして自分たちが犯した過ちは、自分たちの科学と技術で正すべきだし、人類にはそれができる力がある。」
という傲慢さや驕りとは、まるで正反対のところにあるはずです。

いま、かつてない事態に直面している私たちの中で、あのラストを読んでナウシカの真意を理解し、
自分たちを含めた人類の行いを振り返ることができた人が、どの程度いたでしょうか。

そしていま、新たにナウシカの原作を読む人たちは、自分たちこそこの作品で描かれた
「旧人類の末裔で、腐海という自然と共に生きる人々」そのものであるという自覚に至り、
それでもなお、彼女の決断に感動できるかどうか・・・。
正直なところ、私自身はそれに確信が持てません。

むしろ、今の社会の動きを見た感じだと、安易な自然保護や反原子力の方向性で解釈され、
その活動に利用されるのではないか、という危惧のほうが強いです。
それはかつて、王蟲と同じ名の教団が数々の物語を捻じ曲げ、自分たちに有利な解釈を与えて
信徒たちに「救済の神話」を吹き込んだときと、全く縁がないとは思えません。

私個人としては、原作のナウシカにおける結論は、救済の論理とは程遠いところにあると思います。
それは、人類はその過ちも含む世界の在り方すら「自然」として受容し、その穢れを背負ってでも
生きていかなければいけないということ。
確実な未来を求めたり、誰かの救いにすがるのではなく、不確実な世界の運命に身を委ねて生きていくこと。
そしてこうこうと輝く光ではなく、小さくても闇の中でまたたく光として生きていくこと。

しかし、ここで私の思考は袋小路に行き当たります。
これは理想論であり、実際にこういう行き方ができるのだろうか。
人間が知恵と欲望を自覚したときから、この生き方に戻ることは不可能ではないのか・・・。

だから原作のナウシカを読むとき、私は感動と共に苦痛を感じるときもあろのです。
これを読み、これに共感すればするほど、自分の、あるいは人間の本質とはかけ離れた理想が重たくなる。

そんな時、どれだけ生ぬるくお約束な物語と言われようと、もうひとつの理想、あるいは夢の世界としての
美しい結末が示される「アニメ版ナウシカ」の存在が、私の気持ちを少しでも和ませてくれるのです。

希望がなくなったら、やっぱり人間は生きていけないんじゃないか。
そのためには、やはり希望を語る物語が必要ではないか。

そう思うと、私にはどちらのナウシカも大切だし、どちらの物語も否定する気になれないのです。

その一方、ここまで重い業を背負った人類であれば、いっそ世界を敵に回しても生き残ろうとする
悪あがきの姿こそ、種としての生き様にふさわしいとも思います。
そして、そんな気分を最もよく反映し、がけっぷちに追い込まれた人間の反撃をオタク泣かせの表現で
痛快に見せてくれるのが、何を隠そう、私が偏愛するもうひとつのアニメ『トップをねらえ!』です。

それゆえに、私の中ではこのふたつの作品はテーマも含めて表裏一体であり、そのふたつをあわせて、
ようやく「人類」という種の性質が揃うものである、と考えています。

作品を構成するパーツを並べてみても、戦うヒロイン、人類の危機、環境が原因で引き起こされる不治の病、
巨大生物と人類の対決、そして巨神兵(ガンバスター)の登場と、多くの部分で重なるところがあります。

そしてなにより、トップのヒロインが宇宙で最初に乗るメカの愛称が「ナウシカ」(笑)であること。
これは『トップをねらえ!』が『風の谷のナウシカ』の影響を色濃く受けているという自己申告であり、
一方ではこれが『ナウシカ』へのアンチテーゼだという宣言ではないか・・・とも考えてしまいます。

ちょっと話がそれましたが、原作コミックで『風の谷のナウシカ』を読むとき、感動でひとしきり泣いた後に
ラストでナウシカが何を思い、何を犠牲にする決断を下したかを、改めて考えて欲しいと思います。
それからアニメ版を見ると、また違った見え方、感じ方があるかもしれません。

・・・もしよければ、その後に『トップをねらえ!』とも見比べてもらえると、さらにうれしいのですが(^^;。
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シェリー・プリースト『ボーンシェイカー ぜんまい仕掛けの都市』感想

2012年05月10日 | SF・FT
ハヤカワ文庫SF『ボーンシェイカー ぜんまい仕掛けの都市』読み終えましたので、
あらすじとか感想をまとめてみました。

・・・物語の舞台は北米シアトル、時は1860年代。
南北戦争が長引く架空のアメリカで、凍土の下に眠るという金鉱脈を掘りあてるために
天才科学者レヴィティカス・ブルーが巨大ドリルマシン「ボーンシェイカー」を発明する。

しかしこのマシンがテスト走行中に市街地の地下を掘りまくるという暴走を起こしたことで、
街のいたるところが大きく陥没し、多数の死者が発生。
さらに掘った穴から致死性の毒ガスが噴出し、このガスが死者の一部をゾンビ化させたため、
街は「腐れ人」があふれかえる地獄となってしまった。
空気より重い毒ガスの拡散を防ぐため、生き残った人々は突貫工事で周囲に高い壁を建て、
破壊された街をゾンビもろとも封じ込めてしまう。

(ここまでが序章で、およそ5ページを使って設定を説明しています。このあとから本編。)

・・・大災厄から約15年後。壁付近にある水浄化工場で働く35歳のブライア・ウィルクスは、
二人の男の苦い記憶を引きずりながら暮らしていた。

一人は警官でありながら、大惨事の日に無断で囚人を解放した父・メイナード。
一人はシアトルを壊滅させたまま行方をくらました夫・レヴィティカスである。

二人の行いを非難する人々に囲まれ、肩身の狭い思いを強いられるブライアだったが、
辛い仕打ちに耐えつつ、最愛の息子が彼らとは違う真っ当な人間に育つよう願っていた。

一方、ブライアの一人息子であるジークは、祖父を英雄視する非行少年や犯罪者とつるみ、
ひんぱんに母との衝突を繰り返していたが、その裏には夫について一切語ろうとしない母と、
父の引き起こした事件の真相を知りたい息子との、心のすれ違いがあった。
やがてジークは父の名誉を回復しようと、壁の中に残されたレヴィの自宅兼研究室を目指して
封鎖された街へ侵入してしまう。
さらに息子の意図を知ったブライアも、父の衣装を身にまとい、ライフルを背負って追いかける。

メイナードを敬う犯罪者や封鎖都市内に残った人々の協力で、それぞれに目的地を目指す二人だが、
その前に立ちはだかるのはゾンビの群れと、壁の内側を科学力で支配するマッドサイエンティスト、
ミンネリヒト博士であった。
はたしてブライアたちはゾンビから逃げきれるのか?そしてミンネリヒトの正体とは・・・?


あらすじだけ読むと結構盛り上がりそうなんだけど、一番盛り上がるドリルメカの活躍部分は
冒頭5ページの要約のみ。そして本書で一番おもしろいのが、実はこの要約だったりします。
読む前に期待していたドリル成分については、結局ほとんど補給できませんでした。

ざっくりまとめると、親子関係がぎくしゃくした母子が冒険をきっかけに和解すると共に、
ヒロインが抱えていた父へのわだかまりと、暴君であった夫の記憶から解放されるという
要するに30代シングルマザーの自己回復物語です。
ノリはパラノーマル・ロマンスに近いけど、色恋沙汰よりは強い女性像で売り込むタイプ。

こういうのがウケるということは、あちらのSF読者には女性が多いということなのか、
それとも本書がそういう読者層をうまく取り込むことに成功したのでしょうか・・・。
いずれにしろ、マーケット受けを強く意識した内容であることは間違いないし、結果的に
その戦略がアメリカで見事に当たったのは、ローカス賞受賞という結果からも明らかです。

でも、SFとしてのスケールの大きさ、テーマの骨太さ、そして視野の大きさを期待すると、
たぶん肩透かしを食らうはず。
なにしろ徹頭徹尾、息子の心配ばっかりしてるアラフォーヒロインの話ですから・・・。
脅威の発明や壊れた世界、そして病んだ人々の姿は、この物語の中ではあくまで引き立て役。
物語の鍵となるのは常に妻と夫、そして親と子を巡る因縁に尽きます。
それは途中から登場するプリンセスやルーシーといった女性陣にも、例外なくあてはまります。

ゾンビガスから抽出されるドラッグというユニークな設定も、結局はヒロインがその密輸ルートで
封鎖都市内にもぐりこむというアイデアに使われるだけで、その後は忘れたように投げっぱなし。
そういう要素が、本作ではいくつも放り出されたままになっています。
タイトルになってるドリルメカ「ボーンシェイカー」は、まさにその代表と言えるでしょう。

そして結末、世界を修復する代わりに作者が描くのは「安全だけど息が詰まるような暮らし」から
「たとえ危険と隣り合わせでも、人に後ろ指を指されることなく生きられる新天地」に生きると、
ヒロインが心を決める姿でした。
プリーストとしては、強いヒロイン・強い母親像を書けてさぞや満足というところでしょうけど、
物語の最初に比べて何かが好転したわけでもないのに、これで感動しろってのは無理ですよ。

あとこの作者、人間も死人も含めてフリークを描くのにやたら力を入れてる気がしましたが、
巻末の解説で「デビュー後から主に南部ゴシック系の作品を書いていた」というのを読んで
あーもともとそういうのを書く人なのね、と妙に納得しました。
南部ゴシックの作家って、中も外も歪んだ人間を描くのが大好きな人ばっかりですからね。

ちなみに1860年代といえば、北米は西部開拓時代のまっただなか。
本書も西部劇の雰囲気が強く感じられるので、ネオ・スチームパンクと呼ぶよりも
むしろスチーム・ウェスタンとでも呼んだほうがお似合いな気もします。

まあ名称はどうであれ、話の平板さとスケールの小ささは変わりません。
そして外見こそスチームパンクの設定と南部ゴシックのフリーク趣味で飾りつけてはいますけど、
一皮むけば昔ながらの西部劇と、安易なフェミニズムが奇跡の合体を遂げた作品でした。
・・・これをSFとしておもしろく読むのは、私にはちょっと荷が重かった。

帯のコピー文では煽りまくってますが、さすがに持ち上げすぎ。


万が一にも、これが「ネオ・スチームパンクの最高傑作」だとしたら、このジャンルが我が国で
「SFの新たなムーブメント」になるのは、とうてい無理でしょう。
むしろこのジャンルの未来は、この後に紹介される作品の数と質にかかってくると思います。
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『ボーンシェイカー』読み始めました

2012年05月09日 | SF・FT
久しぶりに本屋をのぞいてみたら、ハヤカワ文庫SFの新刊コーナーにシェリー・プリーストの
『ボーンシェイカー 〜ぜんまい仕掛けの都市〜』が1冊だけ置いてあったので、とっさに購入。

実はゾンビ小説ってそんなに好きじゃないんだけど、海の向こう側で評判がいいのは聞いてたし、
改変世界でドリルメカと封鎖都市が出てくる冒険モノとくれば、とりあえず手にとってしまうのが
奇想SFファンのたしなみというものですからね。

で、だいたい100ページばかり読み進んだところですが、うーん。
思ってたほど盛り上がらないというか、自分の期待してた話と違う方向に進んでる気がする。

そもそもタイトルになってるドリルメカがほとんど出てこないとか、序盤で続く生活描写が
いやに長ったらしくて爽快感に欠けるのも、イマイチな理由ではあります。
でも一番気に食わないのは、ドリルで街を壊滅させたと世間に非難される父の汚名を晴らそうと
ゾンビの巣窟にもぐりこむジーク少年の無謀っぷりにも、それをを心配して追いかけるヒロインの
ブライア母さんにも、まったく共感を覚えないというところですね。

特にイラつくのは、ブライアがことあるごとに息子への母性愛と、彼女の父や夫に関する苦い記憶を
くどくどと自分語りするところ。
というか、ブライアのそういう内面をしつこく描写するところに、作者の女性としての自己主張が
透けて見える気がして、冒険活劇として気楽に読めません。

話の展開にいちいち父への反発と夫への怒りが絡んでくるあたり、まるで父権主義へのあてつけを
冒険小説仕立てにしたような印象もあります。
おまけに、そのあてつけも社会への問題提起というよりは、多分に私情がらみというめんどくささ。

私が考えるフェミニズム/ジェンダー小説のおもしろさは、既存の社会や価値観を揺るがすような
新たな視点を提示してくれることにありますが、この作品にはそこまでの深みが感じられないので
そっちの筋から読んだとしても、あんまり楽しめそうにないしなぁ。

・・・などといったん引っかかってしまうと、この物語の発端となった大事件として回想される
「制御できなくなったドリルメカが街を破壊し、その後に取り返しのつかない災厄を撒き散らす」
という挿話も、つまりは男性原理への批判そのものじゃないの?と勘ぐりたくなっちゃいます。

ストレートな冒険活劇にしてはなんだか息が詰まるし、かといって作中に鋭い風刺や問題提起も
感じられないので、このままだとつかみどころのないまま読み進めることになりそう。
この先、息子探し以外のテーマが話の中心に据えられる展開になれば、また印象が変わる可能性も
ありますけどねぇ。

Shan Jiang氏の描いた表紙は、文句なしにカッコいいんですが・・・。
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沖浦啓之監督作品『ももへの手紙』感想

2012年05月06日 | アニメ
こどもの日にちなんだわけでもないけど、5月5日に『ももへの手紙』を見てきました。



映画館は丸の内ルーブルをチョイス。
初日舞台挨拶が行われた会場だから・・・というわけではなく、いま自分が足を運べる中で、
ここが一番大きなスクリーンだろうと判断したからです。
結局、この読みは大あたり。当代最高ともいえる顔ぶれが手がけた最高レベルの映像を、
大スクリーンで細部まで堪能することができました。

背景美術はむやみに細かく描かず、むしろ明暗や空間の広がり、奥行きや空気感を重視した感じ。
舞台装置や小道具も細部にこだわるより、人が見たときの印象や質感を重視したかのように見えました。
こういう描き方はアニメを見慣れない人にも、絵としての“くどさ”を感じさせず、むしろ人の実感に沿った
「既視感」をかきたてるのに効果を上げていると思います。
まあ実際に映像を見てどう感じるかは人それぞれですが、私にとってはこれで正解でした。

そして一番の見どころは、ヒロインのもも本人が見せる、多彩な表情と動きです。

非常識なアクションや極端にデフォルメされた表情はありませんが、小さなしぐさから
いかにもアニメっぽいポーズまで、ひとつひとつの動きが実に魅力的に描かれています。
移動時の動きにしても、とぼとぼ歩きから全力疾走まで実にさまざま。
そしてその動きから、ヒロインの心理状態が見る側へとダイレクトに伝わってきます。

これだけ雄弁な絵を描けたのも、沖浦啓之監督自身が優れたアニメーターであり、
その意志を完璧に表現できるだけのスタッフに恵まれたからでしょう。
極端な話、この作画技術の高さを見るためだけでも、映画館まで足を運ぶ価値は
十分にあると思います。

さて、絵と動きという狭義に限っての「アニメーション」としては、抜群の完成度を誇る
『ももへの手紙』ですが、シナリオも含めた広い意味で見たときには、物語の掘り下げ方や
語り口などについて、いくつか不満を感じるところもあります。

例えば、ももが精神的に辛い状況とはいえ、地元の人々との交流がストーリー上にあまり盛り込まれず、
人情や風土性といった部分を生かしきれていないように見えること。
ももの語尾に地元の方言が混ざるラストも、それまでの布石が弱いせいで、ちょっと説得力が不足気味。
あと、これは尺の都合かもしれませんが、一番のクライマックスで動きのある場面を重視するあまり、
最後にはどうなったかをきちんと見せなかったのもすっきりしませんでした。
あそこはやっぱり、ちゃんとゴールまでさせるべきですよ。子ども向け作品ならなおさらです。

そして本作に対する最大の疑問は、ももという少女が自分の中に抱えている「こどもの世界」を、
はたしてどこまで表現できていたのか?ということ。

この年頃の女の子の仕草は見ているだけでおもしろく、また絵にもなるというのはよくわかったけど、
一面ではその目線が少女本人のものではなく“少女を観察する側”のものに感じられてしまうのです。

娘を温かく見守りつつ、その動きをおもしろがる目線は、むしろ“父親の目”に近いのではないでしょうか。

つまりこの物語にいないはずの父の思いこそ、この映画全体を常に支配する雰囲気であり、
結局は子どもが抱える深い部分にまでは踏み込んでいないように見えたのが、私にとって
“アニメとしては抜群、でも物語としては物足りない”と思った、最大の理由です。

特にこの映画で「宮浦」って名字を聞くたび、いつも監督の名前が思い浮かぶんですよー。
・・・実は沖浦監督にも娘さんがいて、彼女を見ているうちにこの作品のアイデアを思いついたとか?

仮にこの推測が当たってるなら、この映画こそ沖浦監督から娘さんにあてた「手紙」といえそうです・・・。

ともかく、『ももへの手紙』が、沖浦監督が本当に撮りたかった作品、そして自分の思いを
前面に押し出した作品だろうということは、まず間違いないと思います。
押井守脚本の『人狼』では、独特や世界観と強烈なテーマを見事に映像化して高く評価されましたが、
あれはあくまで“押井さんの世界”を撮ったものなのでしょうね。

見守り組の妖怪3人組については、それぞれに役者さんの個性をよく反映していたと思う反面、
もっと見せ場があってもよかったなと思いました。
その中でも控えめな“マメ”が一番印象に残ったのは、チョーさんの名演が大きいと思います。

期待値が高すぎたぶんだけ厳しい意見も書きましたが、総評としては、素朴な物語を高レベルの作画で
手堅くまとめた、一般向けアニメの秀作だと思います。
家族を失うという重いテーマを扱っても、極端に暗い話にはならず、むしろ瀬戸内の自然と懐かしい街並みが
見る人の気持ちをほぐしてくれます。
ちょっと小旅行に行くつもりで映画館に足を運び、家族の大切さを再確認するには最適な作品でしょう。

さらに現地へ旅行したくなったら、映画のモデルとなった場所などを案内する特設サイト「もも旅」や、
広島県作成の「瀬戸内もも旅ガイドマップ」もありますので、参考にしてください。

こちらは丸の内ルーブルに掲げられた、宣伝用の懸垂幕です。


あと、ももや見守り組と一緒に記念写真が撮れるパネルも設置されてましたが、
チケットもぎりのお姉さんの視線が怖かったので、撮影は断念しました(^^;。
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『宇宙の戦士』原作小説の表紙をリボルテックで再現してみた

2012年05月03日 | ホビー・フィギュア・プライズなど
SF小説好きの人にとって、「機動歩兵」と聞いてまず思い浮かべるのは、なんといっても
ハヤカワ文庫SF『宇宙の戦士』と、その表紙を飾った加藤直之先生のイラストでしょう。

左が最初に出版されたときの表紙、右が新装版になったときの表紙です。

昔からのファンにとっては、左の破壊されたスーツに思い入れがあると思いますが、
最近は新装版のイラストしか見たことのない人も多いでしょうねー。

さて、この機動歩兵のデザインの原点とも言えるハヤカワ文庫SF版の表紙を、
特撮リボルテックの機動歩兵で再現してみました。
(さすがに旧版のダメージスーツを再現するのはツライので、新装版のほう。)

平手がついてないので手は内側に曲げてますが、あとの部分はだいたい同じポーズがとれます。
上半身とキャノン砲の角度が微妙なので、そこはイラストを見ながら適宜調整が必要。
あとはヒジを張り気味にするのと、ヒザから下がべたっと接地するように注意すればOKです。

さて、ハヤカワ文庫SFは最近になってトールサイズという新しい版型に変更され、
文庫本のサイズが縦に長くなりました。
これにあわせて加藤先生が表紙に加筆修正を行い、機動歩兵の数も増えています。


ちょうど通販で注文しておいた2つ目の機動歩兵が届いたので、2個を組み合わせて
トールサイズ版の表紙も再現してみました。

後ろの機動歩兵をもう少し右に寄せたほうがよかったけど、後はだいたいこんなもんでしょう。
さらに腕とやる気のある人は、ジオラマ用の砂や背景を用意して本格的な再現に挑んでも
楽しめると思います。

最後に、ちょっとだけ不満を。
2個目の機動歩兵は、ワンフェスカフェで買った1個目よりも塗りが雑でした。

スミ入れがはみ出してべちゃべちゃになってます。
こういうのに当たっちゃうと、以後の購入についてのモチベーションががくっと落ちるんですよね。

完全な検品は難しいでしょうけど、特撮リボルテック全体の評判を落とさないためにも、
メーカーにはなるべくきちんとした品質管理をして欲しいと思います。
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特撮リボルテック「機動歩兵」(スタジオぬえデザイン『宇宙の戦士』版)発売!

2012年04月29日 | ホビー・フィギュア・プライズなど
「特撮リボルテック」シリーズの開始当初に製作が発表されたにもかかわらず、
いつまでたっても商品化されずにファンの不安を募らせてきた「機動歩兵」。

ハインラインの戦争SF『宇宙の戦士』に登場し、以後『機動戦士ガンダム』のモビルスーツや、
『トップをねらえ!』のRX−7などに多大な影響を与えた、強化外骨格兵装の元祖ともいえる
この傑作メカのアクションフィギュアが、ようやく完成・発売されました!

これを記念して4月28日に開催された「機動歩兵TALKING NIGHT」では、ハヤカワSF文庫で
機動歩兵を最初に描き、そして今も大切に描き続けている名イラストレーター・加藤直之氏から、
デザイン秘話や立体化への思いなど、機動歩兵に関する貴重なお話を聞かせていただきました。
この様子はUSTREAMでも配信されており、この記事を書いてる時点では録画も見られますので、
ロボットデザインに興味のある方はぜひご覧いただきたいと思います。

さて、会場のワンフェスカフェでは、機動歩兵リボの先行販売も行われてました。
私は既に通販で予約済みですが「イベント入場は無料にするから、そのぶんもう一個買ってね」という
加藤先生の熱い思いにこたえるべく購入したのが、本日ご紹介するアイテムです。

さて、こちらのパッケージをよーく見てください。

なんと加藤先生のサインと、イベントの日付を入れてもらっちゃいました!
まさに記念イベントならではの大サービス!

デザインや全体のバランスは、加藤先生の厳密な監修を経てOKされたもの。
機動歩兵ならではの独特な体型が、忠実に再現されています。

頭のてっぺんまでで10センチ弱とサイズは小さいですが、とてもよくまとまっており
こうして写真で見ると迫力十分です。
なお、手持ち武装の携帯式火焔放射器(ハンド・フレーマー)は、左手だけに装備できます。

背面にはYラックと電磁式噴進弾発射筒(いわゆるレールキャノン)を装備。

腕部と脚部だけでなく、胴体の側面にもジャバラがデザインされています。
このジャバラをきちんと再現することが、加藤先生によるデザイン上の絶対条件のひとつだとか。
また、腰にはちゃんと火炎手榴弾も装備されています(取り外しはできません)。

ちなみに背中の大砲は核弾頭をぶっ放すという剣呑な兵器ですが、この設定を引き継いだのが
『トップをねらえ!』でRX−7が装備していたカリホルニウム核弾頭だと思います。
(弾頭のデザインは『謎の円盤UFO』からの引用でしたが・・・。)

機動歩兵の性能を表現する有名なイラストに「卵を割らずに拾いあげる」というのがあります。
今回のリボルテックでは、その名場面(だけ)を再現するパーツも付属。

この「卵拾い手」も、加藤先生のこだわりポイントだとか。
原作ファンにとってはうれしいパーツですが、できれば左手同様に銃が持てる右手もつけて欲しかった・・・。

できれば中に人が入れる仕様にしたかったそうですが、さすがにそれは無理なので
代わりにパイロットのフィギュアがついています。

原作終盤で主人公がタガログ語をしゃべることから、パイロットの顔はフィリピン系を想定。
加藤先生は「カッコいい西欧系の顔にしたかった」そうですが、今回は原作に準拠しています。

頭部を開けると、中にはパイロットの頭部が収納されています。

上から見ると、肩の位置が搭乗者の体つきと一致しているのがわかります。
この「搭乗者とスーツの関節が一致すること」というのは、いま加藤先生が機動歩兵を描くとき
特にこだわる点であり、立体化を監修する際にも一番重視する部分だそうです。

イベント参加者100名にプレゼントされた、加藤先生描きおろしの機動歩兵イラストと並べてみました。

イラストに合わせて右手に持たせたハンド・フレーマーは、両面テープで強引にくっつけたものです。

こちらのイラスト、実はリボルテックのパッケージ用にと加藤先生が描きおろして海洋堂へ持っていったら
「特撮リボのパッケージは写真を使うことになってるんです」と、あえなく不採用になってしまったもの。
トークの会場には、このイラストを引き伸ばしたポスターも飾られていました。

この絵の縮小版がパッケージ内側の説明文に小さく添えられていますが、あまりにもったいない。
今回だけはルールを曲げてでも、このイラストをパッケージにするべきだったんじゃないかな・・・。

さて、機動歩兵NIGHTで加藤先生から、このような趣旨のお話がありました。
「基本となる形が決まったものは、以後のアレンジにも耐えられる。例えばモナリザがそう。
 機動歩兵も基本の形が確立されているから、リボルテックの特徴であるパーツの組み換えなどで
 いろいろなアレンジを楽しんでもらえばいいと思う。ただし下半身はいじらないでね(笑)。」

ではどんなパーツやオプションを使おうか・・・と考えて思い出したのが、以前に買ったコレ。

リボルテックヤマグチのレーバテイン最終決戦仕様。どデカイパッケージにオプションがてんこ盛りです。

ここから緊急展開ブースターとガトリング砲、さらにデモリッション・ガンを持ってきて
こんな作例を組んでみました。



あんがい違和感なく組めたと思いますが、どうでしょう?
用途としては大気圏下で断崖や高地等の侵入困難な敵拠点に高速度で侵攻・打撃を加え、
一気に制圧するための特殊装備という感じでしょうか。

近接格闘戦を想定して、ナイフ二刀流にも挑戦。

これはこれで強そうに見えます。というか、ナイフとか普通に持ってそう。

デモリッション・ガンを展開して、ガン・ハウザーモードにしてみました。

バスター・ランチャーっぽさを狙ってみたのですが、これはさすがに無理があったかも。

フィギュア王での作例にあったという、ウォーマシンのガトリングガン装備。

武装自体はちょっと貧弱な感じですが、エフェクトパーツが効いてます。

形状が独特なので、自立させたりポーズをつけるのはちょっと難儀ですが、
リアル系メカの装備なら大抵のものは流用できそうな汎用性は魅力的。
各種パーツやオプションを活用すれば、バリエーションはそれこそ無限大です。
また、数を揃えることでより軍隊っぽさを協調することもできます。
サイズの小ささは、飾るとき邪魔にならないというメリットとも言えるでしょう。

メカ好きなら少なくともひとつ、機動歩兵好きなら二つ以上は購入するべき傑作です!
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蜂窩織炎になっちゃいました

2012年04月23日 | その他の雑記・メモなど
いきなり、足の感染症に罹ってしまいました。

なんだか左足のほうがヒリヒリ痛いなーと気づいてから約半日後には、
くるぶしから足の甲にかけて熱を持った赤い腫れが広がってしまい、
歩くのも難しい状態まで悪化。
夜遅くだったので医者にも行けず、症状からインターネットで検索してみたところ、
どうやら菌による炎症である蜂窩織炎(蜂巣炎)の疑いが強そうです。

氷で冷やしながら、痛みでまんじりともできない夜を明かした翌日、
すぐに病院の皮膚科に行ったところ、やはり足の蜂窩織炎とのこと。
幸いにもまだ症状がひどいほうではないため、即入院という事態はならず、
抗生剤を服用しながら自宅で安静にして、経過を見ると言われました。

今はようやく腫れと赤みがひき始めたところですが、足首を曲げると
まだ痛みが強くて、立ったり歩いたりが難儀です。
まあ無理に歩き回ると、感染が広がって膝までパンパンに腫れるそうなので、
むしろ歩けないほうがまだマシかも。
医師からは、悪いほうの足を挙げておとなしく寝てるように命じられました。

そのままでは退屈だし、かといって痛みで本を読む集中力もないので、
こうしてブログの記事を書きながら気をまぎらわせているところです(^^;。

しかし、早めに診察を受けてよかった。
もっと悪化してたら入院して、抗生剤入りの点滴を受けるところでした。
それと今は患部が硬く腫れてますが、この腫れがさらにひどくなってきて、
押すとぶよぶよしたきたら、内部に膿が溜まってしまっているとのこと。
抗生剤は膿の中までは入っていかないので、こうなったら患部を切開して
膿を出し、切った箇所を洗浄しなきゃいけないそうです。
さらに重症化すると関節や全身にまで感染が広がって高熱を発したり、
脚の壊疽にまで至ることもあるとか・・・。

今は抗生剤のおかげで、この病気も比較的早く治せるようになりましたが、
抗生剤のなかった時代にも、細菌で皮膚が腫れる病気は多かったはず。
例えば本草綱目にも、この病気の一種である「丹毒」の処方が載っていますが、
その内容はなんと「人糞と甘草を調合したもの」だそうです。
解熱・解毒の作用があるとのことですが、それを塗られるのはいやだなぁ・・・。

昔は全身感染で亡くなったり、壊死で脚を切る例も多かったんじゃないでしょうか。
・・・そう考えると、『JIN -仁-』で、江戸時代にペニシリンを作るという設定がいかに画期的であり、
かつ大きな歴史改変だったのかということを、わが身をもって実感した思いです(^^;。
ホント、現代に生まれてつくづくよかった。

蜂窩織炎の原因菌は小さな傷からでも感染するそうですが、
特に傷がなくても発症することもあるとか。
もしや先日、大友克洋GENGA展を見たときに張り切りすぎたせいで、
足首に余計な負担をかけちゃったせいなのか?とも思いましたが、
それからちょっと間も空いてますしね・・・。
結局のところ、詳しい原因についてはわかりません。
まあちょっとしたきっかけで、誰でもなり得る病気ってことらしいです。

皆さんもあまり無茶はせず、痛いとか調子がおかしいと感じたら、
すぐお医者さんへ行ってくださいね。
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雑誌レビュー:BRUTUS「大友克洋、再起動。」/芸術新潮「大友克洋の衝撃」

2012年04月18日 | マンガ・コミック
5/30まで開催中の「大友克洋GENGA展」に関連して、大友特集を組んだ雑誌が
続けて2誌発売されました。

 

それぞれになかなか個性的な内容でおもしろかったので、両誌の比較なども交えながら
紹介させていただきます。

まずは「BRUTUS」の2012年4/15号「大友克洋、再起動。」から。
既に週刊少年サンデーの新連載や新作アニメの詳細情報といった記事が話題になってますが、
ここで注目したいのはその図版の量と、多数の著名人から寄せられた大友作品への感想です。

大友氏は同誌のクール・ジャパン特集や「Tarzan」の自転車特集の表紙などを手がけており、
マガジンハウスとは長い付き合いの間柄。
その深い関係は誌面にもはっきりと表れており、『AKIRA』の縮小原稿112ページを初めとする
多数の図版と、大友氏のアトリエや本棚といった写真に加え、各界著名人の声や大友作品の年譜、
さらにアメリカの大友フリーク取材や、『AKIRA』の担当編集者による連載当時の秘話等をまとめた
綴じ込み別冊「大友克洋、再入門。」、おまけにステッカーまで付属するという充実ぶり。
特集記事の端々に至るまで、大友氏への絶大なリスペクトが感じられます。



特に松岡正剛氏やギレルモ・デル・トロが『AKIRA』を語り、会田誠氏と名和晃平氏らが
大友体験を振り返る「大友克洋、再入門」は、他では読めないほど豪華な内容です。
今は亡きメビウスが、かつて大友氏について語ったインタビューも再録されてますし、
これは「大友以後」のサブカルチャーを振り返る上でも、重要な資料といえるでしょう。

ただし、登場する語り手の数や図版の量があまりに多すぎるせいで、逆に読むほうが
その圧倒的な物量と多彩な視点に翻弄されてしまうのでは・・・というのが、本誌に感じる
唯一の不安でしょうか。

さて、この特集の目玉のひとつだと思われる、大友克洋氏と井上雄彦氏の対談記事について。

一連の動作の中の瞬間を切り取って、まるで報道写真のように見せる大友氏の描写は、
マンガの世界に「説得力」と「臨場感」を与えました。
そして、この表現をスポーツマンガに応用することで、ベタフラッシュと集中線の多用から
抜け出すことに成功し、選手の動きと試合の展開に「説得力」と「臨場感」をもたらしたのが、
井上氏の代表作『SLAM DUNK』という作品ではないだろうか・・・と、私は考えています。

その意味で、今回の顔合わせは単なる人気作家同士の対談以上に大きな意味があると思い、
どんなすごい話が出るだろうかと期待したのですが・・・。
実際には正味6ページ、文字部分だけ見れば3ページ弱という構成は、他の記事に比べて
さすがに分量が足りませんでした。
できれば互いの作品について、もっと深く突っ込んだやりとりを交わして欲しかった。

・・・実はここに載っているよりも多くの話が交わされていて、後ほど書籍化される予定が
すでに決まっている、というオチがつくのかもしれませんが(笑)。


さて、とにかく大友克洋に関する情報を網羅しようとがんばった感じの「BRUTUS」に対して、
「芸術新潮」2012年4月号の「大友克洋の衝撃」は、美術雑誌らしい切り口によって、
大友克洋という創作者とその作品を、じっくり「解読」しようと試みています。



登場人数や図版の数では「BRUTUS」に及びませんが、アップや見開きによる大きな図版によって
原稿の細部までを見せ、中条省平氏によるロングインタビューでは「クリエイター・大友克洋」が
誕生するまでの背景に肉迫。
少年期から青年時代の大友氏に影響を与え、その個性を形作ってきた映画、音楽、文学、美術、
そしてマンガについて、本人がたっぷり語っています。
また、大友氏からうまく話を引き出す中条氏の巧みな会話と、その会話を支える膨大な知識量も
このインタビューの密かな読みどころですね。

さらに村上知彦氏によるマンガ論、柳下毅一郎氏による映像論、椹木野衣氏による絵画論は、
3つの異なる切り口によって大友克洋という作家を全方位から捉えようとする、それぞれに
読み応えのある内容です。
特に椹木氏の、『AKIRA』を戦争画の系譜から捉えなおそうとする視点は、日本人の戦争体験と
美術表現との関わりから、近年大きく進んでいるマンガと現代美術の融合にまで及ぶものであり、
非常に興味深いものでした。



読者によってはそれぞれの評論に違和感を感じるところもあると思いますが、その違和感を
手がかりとして、自分なりの作品イメージ・作家イメージを新たに構築することもできるはず。
いま改めて大友作品を考えるなら、まずはこれらを読んでおくべきだと思います。

GENGA展に行く前の予習としても、GENGA展を見終わった後の副読本としても秀逸な2誌。
書店の他に、GENGA展のグッズショップでも販売してますよ。
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大友克洋GENGA展

2012年04月14日 | 美術鑑賞・展覧会
3331 Arts Chiyodaで開催されている、大友克洋GENGA展を見てきました。



大友氏は省略・パターン化が当たり前だったマンガというジャンルに、それまでになかった
「質・量ともに圧倒的な描き込み」という表現を持ち込むことで、手塚治虫から続いた
マンガにおける既成概念を打ち破ると共に、後続のマンガや映像作品に多大な影響を与えました。
その作風はマンガという領域を超えて、むしろSFXに近い視覚表現の方向へと踏み出し、
やがて特撮技術の発達と共に映画へと逆導入されたのではないか、とも思えるほど。

そして何より「ビジュアルで圧倒する」という方法論は、言語の壁を越える手段としても有効で、
これが日本マンガの海外における評価のきっかけとなった事もよく知られています。

さて、本展最大の目玉は、なんといっても代表作『AKIRA』の全原稿展示でしょう。
1982年から1990年までの約9年間に渡って連載された、80年代の日本コミックにおける
金字塔であり、後に続く多くのマンガや映像作品に現在も大きな影響を及ぼし続けている、
『AKIRA』という傑作。
その唯一無二のオリジナル原稿が、この会場で全て見られるのです!

・・・と熱くなって会場入りしたところ、中には1mほどの高さのガラスケースが何個も置かれ、
その中に『AKIRA』の原稿が何段も平置きされてました。

うっ、事前情報を調べてなかったとはいえ、このスタイルは予想してなかった・・・!

実際の展示の様子は公式ブログ内のレポート写真で確認してもらうとして、
この形式はさすがに見づらいわ〜。
平置きは普通でも見づらいものですが、今回の展示方式では上の原稿が邪魔して
下に置かれた原稿ほど見るのが大変です。

それでもしゃがんで斜め方向から見れば、何とか見えなくもないんだけど・・・。

さすがに有名な場面や印象的な絵の原稿はケース最上段に置かれてるんだけど、
そのせいで展示の順番がページの並びと変わっちゃってるんですよね。
だから原作で好きだった「手前も往っちまえェェ!」とか、大佐がSOLの照準器を
渡されるコマを探しても、なかなか見つからなかったりして。

せっかく人数限定のチケットなんだし、できれば全話の原稿を舐めるように見たいと
期待していた私としては、ちょっとキツかった。
まあそれでも、立ったりしゃがんだりを繰り返しながら全部の原稿を見てきたのですが
最後は足腰がへろへろになっちゃいました。

まあ展示方法にはいろいろ思うところもありますが、この物量を一挙展示してくれた
快挙については、素直にありがたいと思います。

あと、いくつも並んだ透明なケースに入れられた大量の原稿を俯瞰したとき、ふと
「まるで『AKIRA』という巨獣を、まるごとスライド標本にしたかのようだ」
という思いが、ふと頭に浮かびました。
ひとつの時代を制覇し、いまなお畏れられる巨大な怪物の、途方もない標本・・・。

描かれた中身のすばらしさについては、いまさら言うまでもないでしょう。
とにかく緻密な描写、一瞬の動きを切り取ったような場面、そして強烈な崩壊感と、
その中を猥雑かつたくましく生きるキャラクター。
これらが各ページをぎっしりと埋め、絵というよりは映像に近い感触で見るものに
ぐいぐい迫ってきます。
しかも今回は、大友氏による肉筆の原稿。見ていて奮い立たずにはいられません。

20年以上前のものとは思えないほど状態のいい原稿を見ながら、『AKIRA』が
連載されていた当時を振り返ると、同じ時期にアメリカでは『WATCHMEN』や
『バットマン:ダークナイト・リターンズ』が描かれていたのを思い出しました。
洋の東西を問わず、マンガ界にとってはとてつもない時代だったんだなぁ・・・。

あ、そのバットマンを大友氏が描いた『The Third Mask』も、別室に展示されてました。
そちらの部屋には、『AKIRA』のカラー原画と、『AKIRA』以外の作品が集められており、
初期のマンガや自転車雑誌のイラストエッセイから、「芸術新潮」に描き下ろした最新のマンガに
至るまでが展示され、大友氏の画業を振り返るものになっています。

こちらは普通に壁貼りの展示となっていますが、上の方にある絵はさすがに見るのが大変。
もし単眼鏡があれば、一応は持って行ったほうがいいと思います。

個人的には、なんといっても『童夢』の原稿が圧巻でした。
巨大な団地の威圧感と無機質さ、人がめり込む壁、天地をさかさまに描く手法・・・。
テクニック的なわかりやすさでは、この頃が一番すごかったかもしれません。

カラー原稿は色使いのうまさ、特にPANTONEシートを生かした配色の妙に目を奪われました。
ポップアートの要素もうまく取り込み、目をひきつけるセンスの高さが感じられます。
その一方で、『彼女の想いで・・・』の表紙は、明らかに印象派を意識したもの。
かと思えば、ブリューゲルの「大きな魚は小さな魚を食う」をカバで描いた絵もあり、
様々な表現への挑戦と遊び心に思わずニヤリとさせられます。

意外な展示に大喜びしたのは『大砲の街』(MEMORIES)のセルと背景画ですね。
縦や横に長くつなげられた背景と、その上に重ねられたセルの膨大な枚数を見ると、
完成した映像のすばらしい長回しと共に、撮影現場の苦労が思い浮かびます。
・・・特に技術設計を担当された片渕須直監督、めちゃくちゃ大変だったろうなぁ。

そして会場の最後には、『童夢』でチョウさんがめりこんだ壁と、『AKIRA』に登場した
金田のバイクが展示され、撮影も自由となっていました。

へこんだ壁は、人が寄りかかっての撮影もOK。


近寄ってみると絵ではなく、本当にコンクリートが割れた感じに作ってあります。

これはアイデア賞ものだけど、作るのは大変だったろうな〜。

まあ作るのが大変といえば、金田のバイクも同じですが・・・。

成田山のステッカーは、後に攻殻機動隊S.A.C.でもオマージュとして使われました。
・・・そういえば多脚戦車の原型も、『AKIRA』のセキュリティボールですよね。

ディスプレイが壊れた路面を模しているのも、なかなか凝ってます。


おっと、バイクのコンソールもマンガと同じ!


このバイクの製作者が支援する自閉症児の団体に500円以上募金すれば、KADOYA製の
「金田のジャンパー」を着用して、実際にまたがることができます。

また、壁の一面は巨大な寄せ描きスペースになっていて、内覧会などで来場した
作家さんたちが、思い思いの絵を描いてました。



これを見るだけでも、会場に足を運ぶ価値があります。
特に寺田克也氏の「さんをつけろよ、デコスケ野郎!」と、犬友克洋こと
田中達之氏の鉄雄は必見ですよ!

内覧会では寄せ描きできなかったというすしおさんの絵も、後日ちゃんと追加されてました。

吉田戦車氏のかわうそ君と、まさかの競演(^^;
今後もいろんな人の絵が増えていくと思いますので、お楽しみに。

物販は会場の外にあります。いったん外に出ると、再入場は不可とのこと。

別の係員さんに聞いたときはOKと言われたのに・・・このへんは徹底してもらいたい。

で、このショップに入るにはまた別の長い行列に並ばないといけません。
展示を見なくても買えるので、こちらだけが目当ての人もいる感じ。

1時間ほどで店内に入ると、缶バッジやTシャツの一部サイズは既に品切れでした。
特にXLサイズのTシャツは軒並み全滅でしたね。

とりあえず「KANEDA×Manifold」のTシャツとクリアファイル、カタログを購入。
1万名限定のショッピングバッグも、無事もらうことができました。


こちらがGENGA展のカタログ。Amazon等でも販売予定あり。

ショッピングバッグと同じくらいのサイズ。
でかいです。厚いです。重いです。

でも重さの分だけ、中身もたっぷり詰まってます。






クリアファイルは『大砲の街』が入ったセットを購入しました。

これを逃すと、まずグッズにならない作品。ここで押さえない手はありません。

「大友克洋GENGA展」は5月30日まで開催。
事前予約券はローソンチケットのみの販売でしたが、余裕がある場合のみ
会場で当日券の取り扱いも行うようです。
詳細につきましては、公式サイトの情報を確認してください。
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