わからないことを知ろう

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オウムについて高橋源一郎さんの文

2018-07-22 08:35:44 | 日記
 麻原彰晃とオウム真理教幹部が処刑されたとき、「オウムっていったい何だったんだろう?」
という疑問がまたぐるぐる頭をまわりました。
 事件があってから、報道などがあるたびにその疑問は空回りしていきました。

 今回、高橋源一郎さんの文を読んで、とても腑に落ちました。
 彼らは、私であったかもしれない。
 でも、そこを分けるのは、自分の弱々しいけど、小さな気持ち、考えを大切にしたいという思い
なのかもしれません。
 大きな「正しさ」に従おうという風潮のなかで、それでも、「私」の気持ち、考えを捨てない
事が大切。



 高橋源一郎の「歩きながら、考える」断言・断言・断言、身の回りに今も 7月14日朝日新聞より
  
オウム真理教事件の幹部7人の死刑が執行されました。オウムとは何だったのか。教団の施設「サティアン」が集中していた山梨県・旧上九一色(かみくいしき)村(富士河口湖町)などを、作家・高橋源一郎さんが訪ねました。寄稿を掲載します。


 麻原彰晃らオウム真理教事件の死刑囚7人の刑が執行された。これほど大量の死刑が、日本の裁判制度の下で一度に執行された例を見つけるには、明治44(1911)年の「大逆事件」死刑囚12人の執行にまで遡(さかのぼ)らねばならない。

 明治政府は、この「社会主義者・無政府主義者」たちの「天皇暗殺未遂」を重大視し、摘発後8カ月で24人に死刑判決を下した。執行はその僅(わず)か6日後(管野スガの処刑は翌日)である。この一連の「政治ショー」は、国家に反逆しようとする者がどのような運命をたどるかを見せつけるものであった。

 数カ月前、オウムの死刑囚たちが一斉に拘置所を移送され、処刑の可能性が高まった。しばらくしてわたしは、オウムの拠点があった山梨県の旧上九一色村を歩いた。もうそこにはオウムを思い起こすものは何もなかった。そして、麻原のいる東京拘置所の周りも歩いた。どちらも、歩きながら様々な思いが浮かびあがったが、それを正確に書き記すことは難しいような気がする。

 地下鉄サリン事件があってオウムの施設に警察が入った頃、わたしは、麻原の著作を何冊もまとめて読んでいた。メディアから伝わってくる人物像ではなく、自分の手と頭で、彼がどんな人間なのかを知りたいと思ったのだ。

 その時も、23年たったいまも、印象はほとんど変わらない。彼の言葉はひどく単純に思えた。

 「人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。死は避けられない。その避けられない死に対して、どのようにアプローチするのか……それがわたしたちの課題です……最後に、何をなせば天界へ行くのかと。それは簡単です。まず真理を学び、布施をなし、奉仕をなし、そして天界へ行くぞという思念をすると。わたしは来世、天へ行くぞと……そのためには少しぐらいの苦痛は落とさなければならないと」(「麻原彰晃の世界」第一巻)

 どの本もぜんぶ同じだった。自信たっぷり。断言、断言、断言。おれは正しい。言うことを聞け。

 バカみたいだ。そんなもの読む必要なんかまるでない……とは、思わなかった。なぜなら、「麻原の言葉」に似たものは、実はわたしたちの周りに溢(あふ)れているように思えたからだ。

 どうして、そんな愚かな言葉にひっかかったのか。いや、いまも多くの人たちがひっかかるのか。

 オウム真理教・元「科学技術省」次官の豊田亨は、自分がどんなふうに麻原の言葉にからめとられていったか上申書にこう書いた。「(麻原の指示に従わないのは自分の煩悩であり心のけがれであると村井秀夫幹部に言われた後)自分はこの答えを聞いて完全に納得した訳ではありませんでしたが、結局、村井さんの言うように、『自分の考え』というもの自体が自己の煩悩であり、けがれである、として自分の疑問を封じ込めるようになりました」(降幡賢一「オウム裁判と日本人」)

オウム真理教に集った者たちの多くは、元々は現代社会の矛盾に悩む善男善女たちだったろう。だが、彼らに送った麻原の回答は、ひとことでいうなら「自分の考え」を持つな、ということだった。豊田は、そのことについて別の言い方をしている。「簡単に言えば、教祖という存在を絶対とし、その指示に対しては疑問を持たず、ひたすら実行することが修行であると考えていた」(同)

     *

 だが、この国では、70年以上前には、国民全体が、ある存在を「絶対とし、その指示に対しては疑問を持たず、ひたすら実行」していたのではなかったか。この国に戦争を仕掛けた、オウムという小さな「国」は、実は相手にそっくりでもあったのだ。

 公判の途中から、麻原は精神を病んだとも、そのふりをするようになったとも言われている。その真偽を判別する能力はわたしにはない。けれども、麻原は、自分が何者であるかを「自覚」していたように思う。初公判から1年後、麻原は初めて意見陳述を行った。その、長大で奇怪な陳述の最後に、麻原は、こう発言している。

 「(第3次世界大戦で『敗れて』しまった結果)もう日本がないというのは非常に残念です……これを(米軍の)エンタープライズのような原子力空母の上で行うということは、非常にうれしいというか、悲しいというか、特別な気持ちで今あります」(同)

 幻想(妄想?)の中で、麻原は、戦いに敗れた虚構の国家の代表として、想像上の「敵国」アメリカの軍艦の艦上にいた。ちょうど、第2次世界大戦で敗れ、戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書に調印した日本国の代表のように。

 その言葉は、麻原の「思惑」を超え、わたしたちの喉(のど)に小骨のように突き刺さる。こう聞こえるからだ……あの「戦争」で、わたしの「国」の十万倍もの日本人を死に追いやった日本国よ、おまえたちの責任はどうなったのか?

 地下鉄サリン事件の二十数年前、連合赤軍と呼ばれる急進的な武装組織が世間を騒がせた。夢想に近い「社会主義革命」理論を掲げた彼らは、テロと内ゲバの死者十数人を残し、自滅していった。

 唯一の「正しい」理論がすべてを支配する組織、という点では、オウムに酷似していたように思う。そして、彼らも社会から激しく糾弾された。その頃、20歳そこそこだったわたしは、その様子を複雑な思いで眺めていた。メンバーの中には、知人がいたからだ。いや、わたしもまた、その周囲にいた若者のひとりとして、誘われていたからでもあった。

 なぜ、あのとき、わたしは彼らの誘いに乗らなかったのだろう。

 この社会にはおかしなところがあった。彼らは、「正しい」(と彼らが考える)理論で、わたしにそれを説明した。確かに、彼らの主張は「正しい」ように見えた。だが、その「正しさ」は、わたしには少々息苦しかった。社会も、その社会を否定する彼らも、どちらも、わたしが大切にしたい「自分の考え」を気にしてはくれないように思えた。

頼りなく、弱々しいかもしれないが、わたしは「自分の考え」で判断したかったのだ。仮に、その判断が間違っていたとしても。

 わたしには、連合赤軍事件を、即座に否定することができなかった。「総括」と称し、些細(ささい)な理由で、彼らは、同じ組織の人間たちを次々と殺していった。もしかしたら、わたしも、殺す側か殺される側かどちらかの人間になっていたかもしれないからだ。

 オウム事件はどうだろうか。彼らは、わたしたちとは無縁な、想像を絶する悪人たちで、彼らを処罰すれば、解決するのだろうか。

 戦前は、天皇に忠誠を誓うのが「正しい」ことだった。戦後はそれが否定され、高度経済成長期には、豊かになることが「正しい」とされた。きっと、いまも、なにか「正しい」ことがあって、それに、みんな従うのだろう。

 「正しい」ことは時代によって異なるが、弱々しい「自分の考え」より、みんなが支持する「正しい」考えが優先される社会のあり方は変わらない。だとするなら、麻原を処刑しても社会は、自分とそっくりな、自分を絶対正しいと主張する別の麻原を生み続けるような気がするのである。