デモは社会を変革するか?について少し考えました。
開沼博さんは、デモでは社会は変わらないといいます。http://school-market.net/lecture/1356430906/
(本文引用)゛しかし「デモがある社会がいい」という方は、デモには共同性があるだけでなく、結果的に目的性もあるとおっしゃられる方が多いんですね。
つまり、デモをやることが、脱原発などにつながるということです。
ここで私は立場を異にします。そして、デモは無効だと言い続けています。「意味はあるけど、効果はない。デモで原発は止まらない」と。
そして、この無効性こそ、功罪の罪の部分だと思います。
目的性があると言いたいがために「警備している警察官が、実は僕も脱原発なんですと、耳打ちしてくれました」とか、「政府筋によれば、デモがあること、政治家がすごく嫌がっていて…」だとかいう人がいます。
でも、そんなこといっていても仕方ないんです。実際、脱原発は閣議決定されていないし、原発立地地域にいけば、脱原発派が勝った例はないですね。相変わらず推進派が勝ってしまう状況が続いています。
それは、米国や経済産業省をはじめとする官庁、財界、政治家も含めて根強く原発の必要性を求めていく構造が、結局1ミクロンたりとも動いていないからです。
他方で、原発立地地域やその周辺の政治権力の構造もまったく変わっていません。
結局、デモの共同性が目的性にフィードバックされるというのは、幻想だったわけです。
では、なぜ脱原発デモは、僕が二つの原子力モデルと呼ぶ、地方の原子力ムラと中央の原子力ムラを1ミクロンも崩し切ることができないのでしょうか。
脱原発デモ参加者は、自分は社会の「下」や「外」であるとか、自分は東京にいたけど、この事故の当事者で、デモに参加する政治的正当性をもっているといいます。
しかし、さらなる「下」や「外」があり、そこには難しい問題があることを彼らは理解していません。
これが、脱原発デモが無効となった大きな要因であると私は考えます。゛
デモをして、ある政治的主張(脱原発)を唱える。しかし、現実の例えば原発がないと生活ができない地元の人たち、中央の原発を求める権力構造を知り、そこをどうしていくかについて考えないことには、脱原発は達成されないということでしょうか。
一方で、今回の安保法制に反対する学生たち(SEALs)への評価は高いです。
内田樹さんもブログに掲載しています。http://blog.tatsuru.com/
「8月23日SEALDsKANSAI京都でのスピーチ」
内田さんは、「戦争をしたがる人たち、戦争をするためには、平和憲法が最大の妨害であり、立憲デモクラシーという政体が非効率だと思っている人たち」が政権トップにおり、それに相対していること。
借り物ではない、自分たちの言葉で、政治的意見を述べていることを評価しています。
そして、現在は、安倍政権による平和主義、立憲デモクラシーの死、SEALDsの
運動による平和主義、立憲デモクラシーの再生劇に立ち会っているといいます。
少し、私が不安に思うことは、このように持ち上げられていますが、法案が通過して
しまった後で、学生たちが挫折と受け取り、政治的に過激な方向へ向かってしまう、
または、無気力となってしまうことです。
安保法制も、安保村、対米従属の政治機構が変化しない限りは、法制化されてしまう
と予測もできます。
だからといって、デモは不必要とは私は、思いません。
関心のなかった人を報道を通じて興味を喚起させる。同じ思いを持つ人を勇気づける。
政権としても、広くデモが共有されれば、ダメージとなるのではないでしょうか。
デモで、表現しながらも、安保法制の土台となっている歴史、機構に目を向けて考える。
議論をして、問題を提示、共有する。そして働きかける。
そういった両輪が必要なのかなと思いました。
そして、結果をすぐ求めない。すこし前進したときに、これでも可とする技量を持つことかとも思いました。
開沼博さんは、デモでは社会は変わらないといいます。http://school-market.net/lecture/1356430906/
(本文引用)゛しかし「デモがある社会がいい」という方は、デモには共同性があるだけでなく、結果的に目的性もあるとおっしゃられる方が多いんですね。
つまり、デモをやることが、脱原発などにつながるということです。
ここで私は立場を異にします。そして、デモは無効だと言い続けています。「意味はあるけど、効果はない。デモで原発は止まらない」と。
そして、この無効性こそ、功罪の罪の部分だと思います。
目的性があると言いたいがために「警備している警察官が、実は僕も脱原発なんですと、耳打ちしてくれました」とか、「政府筋によれば、デモがあること、政治家がすごく嫌がっていて…」だとかいう人がいます。
でも、そんなこといっていても仕方ないんです。実際、脱原発は閣議決定されていないし、原発立地地域にいけば、脱原発派が勝った例はないですね。相変わらず推進派が勝ってしまう状況が続いています。
それは、米国や経済産業省をはじめとする官庁、財界、政治家も含めて根強く原発の必要性を求めていく構造が、結局1ミクロンたりとも動いていないからです。
他方で、原発立地地域やその周辺の政治権力の構造もまったく変わっていません。
結局、デモの共同性が目的性にフィードバックされるというのは、幻想だったわけです。
では、なぜ脱原発デモは、僕が二つの原子力モデルと呼ぶ、地方の原子力ムラと中央の原子力ムラを1ミクロンも崩し切ることができないのでしょうか。
脱原発デモ参加者は、自分は社会の「下」や「外」であるとか、自分は東京にいたけど、この事故の当事者で、デモに参加する政治的正当性をもっているといいます。
しかし、さらなる「下」や「外」があり、そこには難しい問題があることを彼らは理解していません。
これが、脱原発デモが無効となった大きな要因であると私は考えます。゛
デモをして、ある政治的主張(脱原発)を唱える。しかし、現実の例えば原発がないと生活ができない地元の人たち、中央の原発を求める権力構造を知り、そこをどうしていくかについて考えないことには、脱原発は達成されないということでしょうか。
一方で、今回の安保法制に反対する学生たち(SEALs)への評価は高いです。
内田樹さんもブログに掲載しています。http://blog.tatsuru.com/
「8月23日SEALDsKANSAI京都でのスピーチ」
内田さんは、「戦争をしたがる人たち、戦争をするためには、平和憲法が最大の妨害であり、立憲デモクラシーという政体が非効率だと思っている人たち」が政権トップにおり、それに相対していること。
借り物ではない、自分たちの言葉で、政治的意見を述べていることを評価しています。
そして、現在は、安倍政権による平和主義、立憲デモクラシーの死、SEALDsの
運動による平和主義、立憲デモクラシーの再生劇に立ち会っているといいます。
少し、私が不安に思うことは、このように持ち上げられていますが、法案が通過して
しまった後で、学生たちが挫折と受け取り、政治的に過激な方向へ向かってしまう、
または、無気力となってしまうことです。
安保法制も、安保村、対米従属の政治機構が変化しない限りは、法制化されてしまう
と予測もできます。
だからといって、デモは不必要とは私は、思いません。
関心のなかった人を報道を通じて興味を喚起させる。同じ思いを持つ人を勇気づける。
政権としても、広くデモが共有されれば、ダメージとなるのではないでしょうか。
デモで、表現しながらも、安保法制の土台となっている歴史、機構に目を向けて考える。
議論をして、問題を提示、共有する。そして働きかける。
そういった両輪が必要なのかなと思いました。
そして、結果をすぐ求めない。すこし前進したときに、これでも可とする技量を持つことかとも思いました。