本堂脇の寺務所には、その腰越状が展示してありました。鎌倉入りを許されなかった義経が、頼朝に向けて書いた書状です。当時、鎌倉の手前にあたる腰越までやって来た義経が、身の潔白を証明するため、満福寺で書いたとされています。展示されているのは、弁慶が書いたとされる草稿です。
建長6年(1254年)箱根金剛王院(現箱根神社)から下向した一人の僧により創建された『満福寺』。総本山は京都東寺です。
義経は頼朝に鎌倉に入ることを許されなかったため、このあたりには義経ゆかりの地がほとんどありません。鎌倉で義経が唯一足跡を残したのが、腰越にある満福寺という事です。
義経は頼朝に鎌倉に入ることを許されなかったため、このあたりには義経ゆかりの地がほとんどありません。鎌倉で義経が唯一足跡を残したのが、腰越にある満福寺という事です。
舞殿の奥には立派な大銀杏が祭られている。三代将軍実朝公を殺めるために公暁が隠れていたところ(隠れ銀杏ともいう)といわれ、800年の長い歴史を見つめてきた御神木なのです。その幹の太さは半端ではありません。
大河ドラマ『義経』が佳境に入り、腰越が舞台となった頃に鎌倉を訪れた。まずは日本三大八幡宮のひとつ『鶴岡八幡宮』へ。
写真は静御前が義経を慕い、心を込めて舞ったところ『舞殿』です。この日は休日という事もあってか、婚礼の儀が行われていました。
写真は静御前が義経を慕い、心を込めて舞ったところ『舞殿』です。この日は休日という事もあってか、婚礼の儀が行われていました。