nam amita-yusu(ナムアミターユス)
nam amita-bha(ナムアミターバ)
このふたつのサンスクリット語を合わせた日本語を
ご存じでしょうか?
はい。たいっへんポピュラーな『南無阿弥陀仏』です。
Namは「深く信じる」「頭をさげる」「帰命」
(命の根源に命を帰すということでしょうか)
Amitaは「無限の」
(Aは「無」mitaは「計量する」つまり量ることができない)
yusuは「時間」bhaは「空間」です。
ナムアミダブツとは時間も空間もはかりしれぬほどの
大きないのちの根源に頭をさげるということでしょうか。
般若心経を一言で言い表すと、南無阿弥陀仏となるそうです。
わたしはいま
『南無阿弥陀仏』と『超ひも理論』に興味があります。
なんじゃ?と思われるでしょう。
ちょっとお待ちください。
わたしはあるきっかけからnenbutsuをするようになりました。
日本語では?ハイ、念仏。
『南無阿弥陀仏』を繰り返す、アレです。
( いわゆる宗教じゃありません。無宗教です。ネンブツだけするひとけっこういるんです。写経だけするひとがいるように。入り口としてはいわゆるジブンを修正するプラクティスのようなものでした。今は目的が違いますケド。)
はじめはただなんとなくやっていたのですが
ある頃からnenbutsuをすると
異次元とつながるような感覚になるようになりました。
と書いてもたいそうなことではありません。
昔の人もそうだったろうし、今もよくあることですし、
それにこれからはひとの感覚はひらいてくるので
こういうことは案外とフツウのことになるでしょう。
ありがたいことに昔からの智慧なんでしょうか、
阿弥陀如来の額にある百豪(びゃくごう)というところは
ある“スイッチ”のようです。
その1点をイメージし、そこに触れ、
その中に入り続けるというnenbutsuをし続けると
わたしはそのひらく感覚が顕われます。
ただし、これは自分の業も感じてのことで
それに目をつむるならそれなりです。
むしろ業があるから手招きされるといったほうがいいのかも。
業こそがチケット。
不思議ですね。
仏教に生まれたこの作業は、
なんとかそことつながろうというニンゲンの切なさと
“そこ”からの智慧や慈悲が結びついた賜物なのでしょうか?
ところで『超ひも理論』というのをご存じでしょうか?
物理科学の最先端の理論です。
もう、科学の世界では11次元までないと説明がつかないそうです。
ひとの感覚がひらいてくるのと、
科学がすすむのとがまさにシンクロしています。面白いものです。
別次元というのはたしかにあるようです。
そして、nenbutsuをすると
例えば慈悲だとかそういった仏性というのは
まさに薄皮1枚の次元で重なり合い、触れあい、直結し、
どこでもない、まさに“いまここに”
あるのだと実感させられるのです。
まったく距離はありません。
『南無阿弥陀仏』はとてつもなく深く広大な6文字という結晶ですが
nenbutsuをしていると
ナムアミダブツのココロは般若心経だとも思われるときもあります。
般若心経の最後のことばをご存じでしょうか?
この真言以外はそのことばの説明書きだそうです。
ギャアテイギャアテイハラギャアテイ
ハラソウギャアテイ ボウジイソワカ
原音「ガテー ガテー パーラガテー
パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
訳「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。」(中村元博士の訳)
進化というのは“しつづける”というそれ自体が
素直な宇宙の法則なのだということを象徴しているようです。
それに抗うことで苦しみが生まれてくる。
つまりこれは
いのちのもとめるほんとうのところへと進みつづけることへの祝福。
まさに<説明書き>にあるとおり、
これ以上の真言はないかもしれません。
南無 阿弥陀仏というのはまるで
「これをもとめつづけるこころと、ここへと帰りつづけるすべての
行ないに帰命します(したがいます)」
とも言っているようにも感じます。
いろいろな手垢がついて
イメージが出来上がってしまっているかのような
『南無阿弥陀仏』ですが
これはジツは時間も空間も
それこそ“次元”をも超えた超最先端であり
生も死も時代も距離も超えたいきとしいけるもののつながりを
実感として感じさせられるようになる、広大な6文字だと
いやマッタク毎回新鮮なオドロキとカンドウを覚えるのです。
nenbutsuにかぎらず
“自分のためだけ”にする研鑽は
やがてどこかで行き詰まりがやってきます。
それは進化の約束にのっとっていないからなんでしょうね。
なにを目指して世界が進化してるかっていう1点なんでしょうね。
“ひとりは世界のために世界はひとりのために”
ぽつんとさとったひとりがあるのでなく・・
誤解を招きたくないのは
異次元を感じたいからするのではありません。
結果的にそうでも。
もっとシンプルでソボクでピュアで切々たるものだ
と予感しています。
一切のために。Let's nenbutsu !
nam amita-bha(ナムアミターバ)
このふたつのサンスクリット語を合わせた日本語を
ご存じでしょうか?
はい。たいっへんポピュラーな『南無阿弥陀仏』です。
Namは「深く信じる」「頭をさげる」「帰命」
(命の根源に命を帰すということでしょうか)
Amitaは「無限の」
(Aは「無」mitaは「計量する」つまり量ることができない)
yusuは「時間」bhaは「空間」です。
ナムアミダブツとは時間も空間もはかりしれぬほどの
大きないのちの根源に頭をさげるということでしょうか。
般若心経を一言で言い表すと、南無阿弥陀仏となるそうです。
わたしはいま
『南無阿弥陀仏』と『超ひも理論』に興味があります。
なんじゃ?と思われるでしょう。
ちょっとお待ちください。
わたしはあるきっかけからnenbutsuをするようになりました。
日本語では?ハイ、念仏。
『南無阿弥陀仏』を繰り返す、アレです。
( いわゆる宗教じゃありません。無宗教です。ネンブツだけするひとけっこういるんです。写経だけするひとがいるように。入り口としてはいわゆるジブンを修正するプラクティスのようなものでした。今は目的が違いますケド。)
はじめはただなんとなくやっていたのですが
ある頃からnenbutsuをすると
異次元とつながるような感覚になるようになりました。
と書いてもたいそうなことではありません。
昔の人もそうだったろうし、今もよくあることですし、
それにこれからはひとの感覚はひらいてくるので
こういうことは案外とフツウのことになるでしょう。
ありがたいことに昔からの智慧なんでしょうか、
阿弥陀如来の額にある百豪(びゃくごう)というところは
ある“スイッチ”のようです。
その1点をイメージし、そこに触れ、
その中に入り続けるというnenbutsuをし続けると
わたしはそのひらく感覚が顕われます。
ただし、これは自分の業も感じてのことで
それに目をつむるならそれなりです。
むしろ業があるから手招きされるといったほうがいいのかも。
業こそがチケット。
不思議ですね。
仏教に生まれたこの作業は、
なんとかそことつながろうというニンゲンの切なさと
“そこ”からの智慧や慈悲が結びついた賜物なのでしょうか?
ところで『超ひも理論』というのをご存じでしょうか?
物理科学の最先端の理論です。
もう、科学の世界では11次元までないと説明がつかないそうです。
ひとの感覚がひらいてくるのと、
科学がすすむのとがまさにシンクロしています。面白いものです。
別次元というのはたしかにあるようです。
そして、nenbutsuをすると
例えば慈悲だとかそういった仏性というのは
まさに薄皮1枚の次元で重なり合い、触れあい、直結し、
どこでもない、まさに“いまここに”
あるのだと実感させられるのです。
まったく距離はありません。
『南無阿弥陀仏』はとてつもなく深く広大な6文字という結晶ですが
nenbutsuをしていると
ナムアミダブツのココロは般若心経だとも思われるときもあります。
般若心経の最後のことばをご存じでしょうか?
この真言以外はそのことばの説明書きだそうです。
ギャアテイギャアテイハラギャアテイ
ハラソウギャアテイ ボウジイソワカ
原音「ガテー ガテー パーラガテー
パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
訳「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。」(中村元博士の訳)
進化というのは“しつづける”というそれ自体が
素直な宇宙の法則なのだということを象徴しているようです。
それに抗うことで苦しみが生まれてくる。
つまりこれは
いのちのもとめるほんとうのところへと進みつづけることへの祝福。
まさに<説明書き>にあるとおり、
これ以上の真言はないかもしれません。
南無 阿弥陀仏というのはまるで
「これをもとめつづけるこころと、ここへと帰りつづけるすべての
行ないに帰命します(したがいます)」
とも言っているようにも感じます。
いろいろな手垢がついて
イメージが出来上がってしまっているかのような
『南無阿弥陀仏』ですが
これはジツは時間も空間も
それこそ“次元”をも超えた超最先端であり
生も死も時代も距離も超えたいきとしいけるもののつながりを
実感として感じさせられるようになる、広大な6文字だと
いやマッタク毎回新鮮なオドロキとカンドウを覚えるのです。
nenbutsuにかぎらず
“自分のためだけ”にする研鑽は
やがてどこかで行き詰まりがやってきます。
それは進化の約束にのっとっていないからなんでしょうね。
なにを目指して世界が進化してるかっていう1点なんでしょうね。
“ひとりは世界のために世界はひとりのために”
ぽつんとさとったひとりがあるのでなく・・
誤解を招きたくないのは
異次元を感じたいからするのではありません。
結果的にそうでも。
もっとシンプルでソボクでピュアで切々たるものだ
と予感しています。
一切のために。Let's nenbutsu !