順風ESSAYS

日々の生活で感じたことを綴っていきます

世界報道写真展2010

2010年06月20日 | 紹介
公式サイト昨年の感想

忘れることは人間の強みである。一日の体験の中で重要なものとそうでないものを自然に振り分け、一昨日の夕食といった情報を記憶の隅へ追いやっていく。しかし、忘れすぎるのも困りものである。時々「おいおい数年前の流れは何だったんだ」みたいなことがある。日々ニュース等の情報を浴びていても、長く記憶にとどまっているものは少ない。話を合わせる・大人としての義務感を果たすといった個人的な必要性はなくなっても、国民という政治の当事者として記憶しておくべきことがあるだろう。週休二日のうち、土曜日は一週間を振り返り、日曜日は一年前・三年前・五年前といった少し前の普通のニュースを振り返り、時代の空気を思い出すことに使う。そういう番組があったらいいな、なんて話をする。

世界報道写真展は、昨年一年間に撮影された報道写真のコンテストの入賞作品を集めたもので、世界で何があったかを思い出す機会になるだろう。また、単に思い出すだけではなく、文字だけでしか知らなかったことに現実味を与える、あるいは見落としていたことを知る機会としてもよい体験ができる。例えば、「ジンバブエでは経済が破綻している」ことはよく知られている。「仕方ないので人々は自給自足生活をしている」という情報は少し興味がある人は見たことがあるだろう。今回の写真展では、ジンバブエの人たちが大きなゾウを狩って群がり、解体をして食べて残りの骨が残っているという様子が描かれている作品があった。「自給自足」とはこういうことなのか、文字だけでは到底想像できないものである。


全体について

今年は政治暴動・紛争・戦争といった、人と人との間で生じる流血事が多く取り上げられている印象を受けた。昨年は金融危機や地震といった人外の災難に立ち向かうものや比較的スケールの小さい国内の治安問題といった「争い」から離れたものが多かった。これと比べると様変わりという感じで、たった一年違うだけで注視される問題が大きく変わることに驚いた。

そうした入賞作品の中で、現在ではもう行われなくなったと思うことが未だに行われているんだ、といった現代の常識を覆されるような感覚を抱くものが多かった。パレスチナ紛争の写真では、学校の校舎・バスケットゴールのある運動場に爆弾が降り注いでいて一般市民が逃げる光景を写したものがあり、市民生活の真っ只中で戦争が行われていることは衝撃だった。また、ソマリアの「石打ちの刑」の始まりから最後まで写した写真も、現代とは思えない出来事が起こっていることをリアルに認識させられた。

今回はカタログは購入しなかったのだが、「作品リスト」なる紙を受付でもうらうことができ、後で思い出すことが容易になり有難かった。他にも、冒頭で大賞の選考や写真展についての審査員のコメントがあるなど、鑑賞者にとって助けになる工夫が凝らされていてよかった。カタログについては、東京都写真美術館の1階のショップで立ち読みすれば、無料でどんな作品が入賞したのか全部わかっちゃうなあ、なんてことを思った。もちろん、大きなパネルでじっくり見るほうが十分に鑑賞できる。


大賞について

大賞は公式サイトのトップにも出されているように、イランの大統領選挙後の抗議の様子として、夜の屋上で叫ぶ女性たちを写した写真である。高感度カメラの撮影のようで、空は薄暗いといった程度の暗さなので一瞬撮影の時間帯がいつなのか戸惑う。下の窓の明かりが煌々と灯っているところから、夜ということがわかる。カメラの目は人間の目とは違うものも写し、時には肉眼では見えない様子も写すということを認識させられる。

次に意識が向くのは、技術的にはよくわからないが、中央の3人の人にピントが合わせられていないようだ、ということである。特に会場の大きなパネルで見ると人物はぼやけて見える。特定されないための配慮なのか。同一の撮影者で同じテーマの写真が他にも2枚あるのだが、それも人物の顔が見えないようになっていた。しかし、人物がぼやけるかわりに引き立つのが、建物とその上にある機器類である。建物としてはそこまで新しくない、数十年はあるだろうという感じのものである。その上には、エアコンの室外機が数台置かれている。そして、背後の建物群では、テレビのUHFアンテナが何個も立っているのがわかる。

このアンテナが声をあげる人たちとの対比となっていて、これは他の2枚と合わせると一層鮮明になる。パラボラアンテナに左右囲まれて叫ぶ男性の姿を写した写真があるのだ。アンテナと人の対比は、情報の受信力と発信力の格差を思い起こさせる。法学でも「表現の送り手と受け手の分離」ということが議論される。イランに住む人は情報を受ける分には宇宙を経由して受信が可能な機器を持っているが、いざ自らが発そうとすると夕闇に紛れて届かぬ声をあげるくらいしか手段がないのである。今回はイタリア人カメラマンの高感度カメラの目によって世界に届けることができたが、偶然が重なる上に1年の時間がかかることとなった。

日本ではインターネットも発達して多くの人が情報発信できるようになったが、発信力の格差は依然として残っている。今回の写真展でスポットニュースの部組写真1位となったマダガスカルの暴動は、世界で十分に知られなかった問題に目を向ける意味があると審査員のコメントが入っていた。このマダガスカルの事件は、検索してみると日本のニュースでもブログでもリアルタイムにいくつか取り上げられていたものの、多くの人に知られるには至っていなかっただろう。「届く力をもって発する」というのが今後表現を考える上で課題になるだろう。このブログも実生活の顔を隠す「夜の闇」の中で、届かぬ生身の声をあげているようなものである。しかし、痴漢冤罪で息子を亡くした母親が地道な活動により多くの人に認知されるに至った先日のニュースをみると(参照・毎日jp)、生身の声で発し続けることは大切なことだと考えさせられる。


その他印象に残った写真について

一般ニュースの部単写真第1位の「砲弾で天井に穴」は唸らされるものがあった。パレスチナ紛争を取り上げた写真である。写真内には人物は一人も写っていない。飾りっ気のない部屋に、おそらくガラスもない大きな窓と、天井の真上に大きな丸い穴とむき出しになった鉄筋コンクリートの鉄筋が曲がっている様子が写されている。この部屋の主は砲弾を受けて亡くなったそうである。戦争の悲惨さを残虐で目も当てられないシーンではなく静かな喪失感のあるシーンで表現する、素晴らしいものだと思う。

今回の報道写真展では、日本を撮影したものがひとつ入賞している。それは、東京の通勤電車で窓に顔を押し付け浮かぬ顔をしている女性を写した写真である。東京在住の方には世界デビューするチャンスがあったのだ。こんな何十年前からある日常的な風景が入賞するというのはやるせない気分になる。というのも、アメリカからはオバマ大統領の就任式を写したモノクロでエピック的な組写真が入賞しているのだ。昨年は日本も政権交代で大きな一歩を踏み出した・・・はずである。そんな年に通勤電車の疲れた表情が選ばれるというのは皮肉なことだ。昨年でも金融危機の象徴的な写真が日本にはないという話をしたが、今回の政治の転換点でも、名演説もなければ象徴的なシーンもなければ国民の熱狂もない。静かな日常が続いていく日本。「実感のない社会」というのが似合っているだろう。

"The English At Leisure"という題の2枚の写真も興味深かった。日本語タイトルでは「英国流余暇の過ごし方」とあった。1枚は海水浴、1枚は競馬場。その様子はイギリスらしい皮肉たっぷりである。海水浴は人はまばら、空は曇り、楽しさいっぱいという感じからはかけ離れているのである。昨年ポーランドのバルト海沿岸の海水浴場を空撮した組写真が入賞していたが、そこでは人はたくさん、色はカラフルで思い思いの楽しい時間を過ごしていることが伝わってくるものであった。それへの対抗と考えると実に面白い。競馬場については、レディースデーで女性たちが多く楽しんでいる様子なのだが、足元がひどい。捨てられたゴミの山なのである。他人に犠牲や苦しみを強いて汚れた地面の上に成り立ってる楽しみですよ、という感じである。こういうのをイギリス人カメラマン自ら撮影するところも、皮肉がきいている。

一連のニュース現場で腕立伏せをする様子を自ら写した中国の写真家は、何だよこの発想!という感じである。昨年も人形で名シーンを再現する中国の写真家がいたが、中国の発想の奇抜さはものすごい。最後は、家畜の場の写真も目を引いた。世界に出て行って知られていない現実を明らかにする!というのもいいが、実はほんの身近に「見ないこととされている」ものがあるということに気づかされた。


写真展は8月8日まで恵比寿の東京都写真美術館で開催され、その後大阪・京都・大分・滋賀でも開催される。感想を共有したいといったことがあれば、コメントやtwitterでお気軽にコンタクトをしていただけたら、と思う。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。