前に、山田太一さんの「空也上人がいた」を読んだとき、
その中に出てくる、京都六波羅密寺の空也上人像に大変興味を覚えました。
「いつか私もその目を観てみたい!」と。
読書レビューはこちら
先日、京都に行く用があり、「これは是非叶えなければ・・」と、お寺を訪れて来ました。
小説の通り(若干、道筋を変えましたが)歩いていくと、
「わざわざ歩いて貰う道ではないけど、この寺はほら道行きがない。参道らしきものがない。ひょっこりある。きょっこり見えたろ」
の言葉通り、ひょっこりあります。
そして、門を入って、宝物館のチケットを買い、本堂横の回廊を回って宝物館に・・。
ドキドキしながら(大袈裟・・笑)入ると、
1米くらいの空也上人さんがいらっしゃいます。
「どこから見ればいいのかな?」
右へ左へしゃがみ込んで像を見ていると、
係りの人が、「もっと前、ここ」と教えてくれました。
まさに、
「正面からばっかり見ていないで、ここらへしゃがんで。しゃがんでお顔を見上げてみなさい。ここら、ほら、ここら、ほら」
です。
しゃがまなかったけれど、見えました。
目が光ってました。
照明が上手い具合に反射してるんでしょうが、目に光が入ると表情が出ます。
かつて、苦しむ人々を救って歩いたそのときのお顔に・・・。
私には、主人公のように自分の心情に直面するほどのことはありませんでしたが、それでも少しばかりの感動がありました。
仏像って、魂が入っているから見るものの心を反映するんでしょうね。
やさしく強くの慈悲の御心で。
京都から帰り、さっそく「空也上人がいた」を再読しました。
人間は、不老不死の苦しみからは逃れられないけれど、どう生き抜くかによって、生きている今やその後が変わってくるんでしょうね。
その中に出てくる、京都六波羅密寺の空也上人像に大変興味を覚えました。
「いつか私もその目を観てみたい!」と。
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先日、京都に行く用があり、「これは是非叶えなければ・・」と、お寺を訪れて来ました。
小説の通り(若干、道筋を変えましたが)歩いていくと、
「わざわざ歩いて貰う道ではないけど、この寺はほら道行きがない。参道らしきものがない。ひょっこりある。きょっこり見えたろ」
の言葉通り、ひょっこりあります。
そして、門を入って、宝物館のチケットを買い、本堂横の回廊を回って宝物館に・・。
ドキドキしながら(大袈裟・・笑)入ると、
1米くらいの空也上人さんがいらっしゃいます。
「どこから見ればいいのかな?」
右へ左へしゃがみ込んで像を見ていると、
係りの人が、「もっと前、ここ」と教えてくれました。
まさに、
「正面からばっかり見ていないで、ここらへしゃがんで。しゃがんでお顔を見上げてみなさい。ここら、ほら、ここら、ほら」
です。
しゃがまなかったけれど、見えました。
目が光ってました。
照明が上手い具合に反射してるんでしょうが、目に光が入ると表情が出ます。
かつて、苦しむ人々を救って歩いたそのときのお顔に・・・。
私には、主人公のように自分の心情に直面するほどのことはありませんでしたが、それでも少しばかりの感動がありました。
仏像って、魂が入っているから見るものの心を反映するんでしょうね。
やさしく強くの慈悲の御心で。
京都から帰り、さっそく「空也上人がいた」を再読しました。
人間は、不老不死の苦しみからは逃れられないけれど、どう生き抜くかによって、生きている今やその後が変わってくるんでしょうね。