牀前看月光 (しょうぜん げっこうをみる)
疑是地上霜 (うたごうらくはこれ ちじょうのしもかと)
擧頭望山月 (こうべをあげて さんげつをのぞみ)
低頭思故 (こうべをたれて こきょうをおもう)
――――<李 白>
静夜思 【せいやし】
霜割れの音色を聞いた気がして、真田幸村は眼を開けた。
何時の間にか眠りについていたらしく、辺りはとうに墨を流した暗色(くらいろ)で
燈(あかり)の一つと灯(とも)らぬ部屋を浸すのは、今や寝息と静寂と、それに凍えた空気だけ。
呼吸(いき)をする都度(たび)、深(しん)と沈んだ凍て哭く様に鋭い冷気が鼻の奥へと染み渡り
つんと僅かな痛みと共に、水香(みずか)にも似た夜の香りが漂った。
(・・・何処だ、此処は・・・)
朦朧(ぼんやり)したまま半眼のままで、頸(くび)を動かし寝返りを試してみたものの
どうやら固い床の上に直(じか)に転がって居たらしく、肩の辺りがぎしりと鈍い悲鳴をあげた。
横向きに転がっていた所為であろう、下へと向いた右半身はほんの僅かに力を入れてみるだけで、氷のような激痛ばかりを生み出して
其の痛みでほんの僅かに暈(ぼ)やけた思考が醒めたのか、此処は己の部屋ではないと、漠然乍(ながら)に理解する。
肩の悲鳴に薄く眉を顰(ひそ)めたまま、ころんと返りを打って見遣れば、其処も此又闇世に広がる暗(くら)天井。
部屋に致せば広すぎの、座敷に致せばやや狭い。
そんな中途半端に区切れた天を暫く眺め、
嗚呼。此処は己(おの)が屋敷の一室か、と。
そう言えば、客人用の広い部屋があったかな、と寝惚けた頭で思い至ってみたのだが
なれば今度は何故に斯様な処で眠っていたのだろうか、と新たな疑問が沸いてきて。
こてん、と再び首を動かし、周囲(あた)りの様子を窺い見る。
眠気が未だに残っている為、どうにも瞼(まぶた)が重いのだが、それでも耳を傾けたなら其処には確かに多数の寝息と床に転がる気配が幾つか存在して
はてさて何があっただろうかと、氷の如くに染み透(い)る夜気(やき)を吸い込み乍(ながら)記憶の糸を辿ってみた。
今何時(なんどき)かは判らないが、あれはそう、確か夕暮れ灯点(ひとも)し頃。
赤光(しゃっこう)ほの差す夕色(ゆういろ)に、映えて靡くは天(あま)が紅(べに)。
彩(いろ)美しくも艶(あや)しい入相(いりあい)、空火照(そらほでり)の夕焼け刻(どき)に、彼方(あちら)の皆が見えた事から始まった。
とは言っても向こうの皆を誘ったのは此方側。曰く「久方ぶりに皆で集(つど)って雪見月見と洒落込まないか」、と何処ぞの呑助(のみすけ)飲兵衛みたいな理由をこさえて招いたのが発端で。
月の出間近に迫る頃、固い挨拶会話などは二の次に。先(ま)ずは一献、笑酒(えぐし)でも・・・と杯(はい)を向けたは酒(ささ)の好きな海野であったか、それとも堅苦しい事が嫌いな十蔵だったか。
取り敢えず、その一杯を皮切りに宴と称した酒呑み会が始まって、月は雪はどうしたと、考える暇も隙も無いまま彼(あれ)や此れやと其の場の雰囲気、状況言葉に流された末に己も酒を飲まされて。
其の辺りから記憶が途切れ、気がついたのが先の事。
嗚呼、ならば俺は酔い潰れて仕舞っていたのか。
鼻の奥や耳が凛と痛い事から、それだけ周囲(まわ)りの空気が冷えているのが理解(わか)る。
確か火鉢や火桶も在った筈なのだが、どうやら火種は全て消えているようで炎の息吹は聞こえて来(こ)ず。
代わりに耳へと這入(はい)って来るのは彼方と此方の十勇士達の寝息吐息に呼吸の気。
果扠(はてさて)鼾を立てて寝入っているのは彼方の晴海なのだろうか。
そんな事を朦朧(ぼんやり)頭で考え乍(ながら)肩の痛みを解(ほぐ)すべく、二転、三転身体を転がし
嗚呼もうこれは一回起きた方が楽だろうと、睡魔に負けて殆ど力が入らぬ腹へと力を込めた。
(・・・ん?)
どうやら自分が酔い潰れた後誰かが掛けてくれたのだろう、布団代わりの綿の入った上掛けが、起きるという動きに合わせてぱさりと落ちる。
其の瞬間に上体(からだ)を突つく痛い冷気が纏わりついて、無意識ながらに身体が震え、ついでにふるりと吐息も漏れた。
夜の帳の中でも判る白い靄(もや)が一瞬浮かび、次いで散と蕩(と)ける様子を眺めつつ、
どれだけ今が冷えているのか、また其の冷気に体温がどれだけの速さで奪われるのかを実感しながら、緩慢(ゆっくり)辺りを見まわした。
これ程の寒さに晒されても尚、頭の芯は暈(ぼ)やけたままではあるけれど
其れでも目を凝らして見れば、確かに彼方此方(あちこち)人の姿が転がっている。
己と同じく上掛けの中に収まっている者、この冷え込みの中だと言うのに上掛けすらも被らずに大の字なんぞで寝転ぶ者。
三の字、川の字、ぽつんと独りで転がってれば、ごちゃごちゃ集まり寄り添いながら重なるように寝ている者。
縦横無尽に皆それぞればたばた倒れて、けれども口から零れているのは心地の良さ気な寝息だけ。
どうやら俺が倒れた後(のち)も、随分盛り上がっていたようだ。
この様子では明日は全員二日酔いではあるまいか。
痛む肩を解(ほぐ)す動作も忘れずに、苦笑しながらそんな事を思うてみた。
そんな折。
視界にふとありえぬ物が入った気がして、さっと思考が僅かに覚める。
(・・・・霜、だと?)
そう。霜。
真っ暗な闇の丁度真中(まんなか)辺りにて、細かに輝く純白色が確かに其処に在ったのだ。
部分にしてはほんの一抹(いちまつ)、一畳の半分程も無いだろう。
木張りの床に降りた青白色(せっぱくいろ)の其れは、淡く冷たく煌きながら夜の中にぽかりと浮かびあがっていて。
確かにこの寒さならば、霜が降りても不思議などでは無いだろう。
然(しか)して此処は部屋の内(うち)。しかも部屋には二十近くの人間がごろごろ転がっているのである。
如何に寒い冷たいとは言え、流石に外に比べれば此処は暖かい筈だろう。
こうも見事に真白(ましろ)に霜花(そうか)が張るなどと、有ろう筈が無い訳で。
ならば先程、夢半(なか)ばの己が聞いた霜割れ声は夢の内事(うちごと)空耳事では無かったのか
有り得ぬ霜の産声を己は耳にしたのかと、そう思えばぞっとして。
真実(まこと)あれは霜なのか、と確かめるべくに膝を立てる。
矢張り部屋にああも見事に霜が降るなど怪訝(おか)しいだろう。
皮膚(はだ)を突き刺す暴力的な冷気から、そんな事もあるのでは・・・と納得しかけはするものの
矢っ張り、変だ。
此の寒さも冷たさも、宴の記憶も今の記憶も全てが夢であるならば納得出来る事だろう。
夢から覚める夢としてこの状況を夢見ているなら、床に霜が降りていようと氷柱(つらら)が下がっていようとも別段不思議などではない。
けれども、だ。
暗(くら)の中で煌く顕(しろ)へと一歩を踏み出す。
彼(か)の其れは己が動き歩く都度(たび)、細光(ささめびかり)を瞬(またた)かせ
まるで冬夜(ふゆよ)の星々を其の一箇所に集めたようにきらきら揺らめくばかりである。
其の色は、朝の陽(ひかり)を浴びた雪色。泡立つ滝の飛沫色(しぶきいろ)。
布団代わりの上掛けを、肩に羽織れば重みを知り。
一歩を霜へと踏み行けば、足袋をはいていないが為に、とうに冷えていた足が更に氷の痛さに成る。
此が夢であるならば、こうも一挙一動を確(しか)りと感じるものであろうか。
其の霜は、一人の寝台(ねだい)の枕元へと降りていた。
否。皆々床に雑魚寝の状態であるならば、寝台も枕も無いのだろうけど。
夜目遠目であった所為か、近づき顔を確認するまで其れが誰かは判らなかった。
霜の発する仄かな燈(あかり)に照らされて、霜の寝台(ねだい)で眠っていたのは
(――――俺?)
そう、自分。
佐助でも小助でもない、まさしく己であったのだ。
(・・・嗚呼、そうか。彼方側の俺の方か)
何だこれは矢張り夢かそれとも心霊体験か、と暫し首を捻った後(のち)に、漸(ようよ)う其処に気がついて
「どうやら未だに頭が寝惚けているらしい」、と己の額を押さえ乍(ながら)に首を振る。
其のまま暫く佇(た)ったまま、矢張り上掛けに包(くる)まっている別の世界の己自身を呆(ほう)けて凝視(みつ)めていたのだが
そうだ霜はどうしたと、はっと思って慌てて視線をずらしてみた。
褥枕(しとねまくら)に広がった、雪白色(せっぱくいろ)の幻氷(まぼろしごおり)
其れは矢張り霜では無く
(・・・月の明かり、だったか)
天(そら)から垂(お)りた月光だった。
ほっと白露(はくろ)の吐息をつきつつ、次いで壁へと視線を遣れば
どうやら閉め忘れたのだろう、明かり取りの窓が一つ開いていて。
よくよく見れば月下青銀(げっかせいぎん)の絃かても、幽(かす)かに差し込んでいるでは無いか。
此の異様な寒さも又、此れが原因だったのかと再度安堵の其れを吐(つ)く。
「疑うらくは是(これ)、地上の霜・・・か。」
静夜に降りる月の霜。
暗(やみ)に途切れた紗(しゃ)の糸を、掬うように手を差せば
忽(たちま)ち彼方の自分が眠る枕の霜に冥(くら)い影が作られる。
寒くて冷たい己の手先は、特に指が赤く成っているであろうに
月の清(きよ)い雪白色(せっぱくいろ)を受け止めている掌(てのひら)は、今は薄く白いだけ。
時折吹(ひゅう)と凍て哭く風が窓から入り込む所為か、誰かが一つ、嚔(くしゃみ)をした。
そうであった。此のままでは誰かが風邪を引いてしまう。
只でさえも此方の望月は身体が弱いし、彼方の小助についても又、身体が弱い方だと聞く。
如何に酒の熱を借りていたとしても、火の気の一切が感じられない今の此の寒さでは、例え窓の一つだけでも体調(からだ)を壊す危険が有ろう。
未だに眠気が取れない所為か、それとも酒が残っているのか
どうにも明瞭(はっきり)と醒めない頭を二、三度振って、窓の方へと歩み寄る。
窓を支える棒へと手を掛けてみれば、自然と頭(こうべ)が上へと向いて其処に浮かんだ月夜が見えた。
星の無い宙(そら)、彩(いろ)の無い夜。
山の端にひっそり掛かる清月(せいげつ)だけが、唯一明かりを投げていて。
此れは見事と口の中で呟いて、窓を閉じるは少々勿体無くもあるなと悪い事も思ってみて
けれどもなるだけ音を立ててしまわぬよう、窓の蓋をかたんと降ろす。
途端に床へと降りていた霜も燈(あかり)も瞬時に消えて、後に残るは真っ暗闇。
夜目(よめ)にも少し慣れては来たが、其れでも灯りが一つと見えない深夜の中、
次に呆(ほう)けて考えるのは、扠(さて)これから如何するか。と言う事である。
未(いま)だに思考は眠りを求めているようで、ふらふら視界が覚束ないが
けれども身体は変に覚醒しているらしく、冷たい床に再び転がるのは一寸(ちょっと)・・・と拒否の其れを示していて。
ならばいっそ、此の侭(まま)朝まで起きてみるかと思ってみても、先程ちらりと垣間に見えた月の登り具合から、日の出迄にはまだまだ遠く。
軽く感覚が無くなっている指の先で肩に置いた上掛けを、胸の辺りで合わせておいて
うーんと辺りを眺めてみる。
元から火の気が無かった部屋に唯一なる光源だった窓を閉めてしまった今、部屋の中には全く燈(あかり)が無い状態。
彼方此方(あちらこちら)に散らばっている十勇士の寝姿かても、精精影で解る程に夜の色は深く濃い。
佐助の名でも呼んでみたら、全く動かぬ影山の何処か一部が動くだろうか?
そんな事を考えて、止めておこうと頭を振る。
用も無いのにわざわざ呼んで起こす意味などないだろう。
少し逡巡した末に、矢っ張り眠ってしまおうと先程己が転がって居た場所へと足を踏み出した。
けれども兎に角暗い部屋の中である。
大雑把に言ってしまえば先程己が寝ていた場所は、此方の壁から反対側の彼方の壁際付近であって
しかも其処に着くまでは、勿論彼方の自分も含めて、幾人かの眠人(ねむりびと)が処処(しょしょ)に転がっていた筈なのだ。
こうまで目先が見えないと、うっかり蹴ったり踏んでしまう畏れがあるのも確かであって。
扠困ったものだなと、殆ど足で探るように滑らせ乍(ながら)、夜闇の中を移動する。
(・・・唖(ああ)、もう、良いわ)
然(しか)し此の冷たい寒気の中なのだ。凍えきってる床の上を摺り足なんぞで歩いたら、忽ち足が痛くなるのはお決まりで。
少し歩いたそれだけで足から感覚が失せた事に何度目かの溜息(いき)を吐いて、億劫そうにその場に緩慢(ゆっくり)、屈み込む。
そろそろ眠気も限界なのだ、兎に角さっさと横になりたい。
ならばわざわざ元居た場所まで戻らずとも、此処で寝やれば良いではないか。
頭(こうべ)を垂れて「うぅ」と軽く唸った後、ほんの少しぺたぺた膝で這いずり回り
そうして辿りついた先は、先の某郷、彼方側の己の寝台(ねだい)の処である。
畳も枕もまるで無い、冷たく固い床の上にころりと転がる彼方の自分。
顔を此方に向けるように横向きに寝入っているらしいが、何分(なにぶん)非道く暗いが為に寝顔寝相は解らない。
唯一肩が規則正しく揺れている為、彼方の自分が熟睡している事が理解(わか)って。
ばさり、と。
肩に羽織った上掛けを、彼方の自分を覆うように上へと掛けた。
着物と言うのは基本が大きくゆったりしている物が故、二人で包(くる)まったとしてもまあまあ事は足りるだろう。
上掛け一枚、されども一枚。
途端に肩から背中にかけて冬の寒気が走った為に、慌てて先の上掛けの中へともぐり込む。
そしてそのまま床の冷たさ、這入(はい)り込んだ空気の痛さから逃げるように手足を縮め、頭の先まで掛け物の中に這入るように丸くなり
少しなりとも暖かさを求める為に、彼方の自分に擦り寄った。
「・・・・ん・・・?」
何とか寒さを紛らわそうともぞもぞ動いた所為であろうか、彼方の自分の寝惚けた声が頭の上から降ってきたけど
今はもう、眠いやら寒くて震えが止まらないやらで一々気にしていられない。
更には横に成った事により、改めて己の身体がどれだけ冷えきっていたのかという事態を思い知り、
意図に構わず身体が強張るばかりであって、頭も頸(くび)も上げられないのだ。
彼方の俺には悪いのだが、少し体温を分けて貰おう。
すり寄りながら、そんな事を考える。
静かな夜の事である。
ふと目を覚まし、寝台(ねだい)の前を見て遣れば、其処には霜かと間違うばかりに輝く白い光があった。
思わず顔を、頭(こうべ)を上げれば、其処に浮かぶは山の端に掛かった月。
其の見事な美しさに暫し見蕩(みと)れていたのだけれど、
其の見事な美しさを暫く眺めていた後(のち)に、段々頭(こうべ)が垂れてくる。
見事に過ぎる月光は、私に人の恋しさを唯々(ただただ)思い出させるばかりであったのだ。
霜割れの音色が聞こえた気がして、真田幸村は眼を閉じた。
願わくば、今宵の静夜(せいや)に再び霜が降りない事を。