(写真:会津若松城天守を南東側の本丸御殿跡側から望む。<福島県>)
<<会津若松城>>
別名:鶴ヶ城(つるがじょう)
所在地:福島県会津若松市
築城者:葦名直盛(築城年:至徳元年=1384年)が東黒川館を造る
蒲生氏郷(改築年:文禄2年=1593年)黒川城を改築し鶴ヶ城と命名
形状:平城
備考:
戊辰戦争において藩主松平容保らは政府軍に対し1ヶ月にもおよぶ籠城戦を行ったが、あえなく降伏した。そして、明治7年に廃城令により天守が取り壊された。
今の天守は、昭和40年9月に復元されたもの。コンクリート造りだが、古写真にもとづき外観復元されている。
<<麟閣(りんかく)>>
当時の城主であった蒲生氏郷は、利休七哲に挙げられるほどの文化人であり、天正19(1591)年に千利休が切腹を命じられた際には、その息子である小庵(しょうあん)を会津の地に匿った。その際に、小庵によって鶴ヶ城内に建てられたと云われる。そして、戊辰戦争の戦火を免れ、現在も姿を保っている(鶴ヶ城パンフレットより抜粋)。
麟閣の寄付(よりつき)。
麟閣の腰掛待合(こしかけまちあい)。
茶室麟閣のにじり口。
茶室麟閣の床の間。
麟閣の庭。左手奥が茶室麟閣。
御三階跡(ごさんかいあと)。
御三階は、数奇屋風の楼閣状の建物であり、戊辰戦争後の鶴ヶ城の取り壊しが行われる前に、七日町の阿弥陀寺に移築され、現存している(案内看板より)。
本丸から空を望む。
雲間に青空がぽっかりと見ることが出来た。
鉄門(くろがねもん)。
本丸の表門で、帯郭から本丸内の奥御殿に通じる。
北向きの多聞櫓城門である。
扉や柱が鉄で覆われていたことから鉄門の名が付けられた。
<<会津若松城>>
別名:鶴ヶ城(つるがじょう)
所在地:福島県会津若松市
築城者:葦名直盛(築城年:至徳元年=1384年)が東黒川館を造る
蒲生氏郷(改築年:文禄2年=1593年)黒川城を改築し鶴ヶ城と命名
形状:平城
備考:
戊辰戦争において藩主松平容保らは政府軍に対し1ヶ月にもおよぶ籠城戦を行ったが、あえなく降伏した。そして、明治7年に廃城令により天守が取り壊された。
今の天守は、昭和40年9月に復元されたもの。コンクリート造りだが、古写真にもとづき外観復元されている。
<<麟閣(りんかく)>>
当時の城主であった蒲生氏郷は、利休七哲に挙げられるほどの文化人であり、天正19(1591)年に千利休が切腹を命じられた際には、その息子である小庵(しょうあん)を会津の地に匿った。その際に、小庵によって鶴ヶ城内に建てられたと云われる。そして、戊辰戦争の戦火を免れ、現在も姿を保っている(鶴ヶ城パンフレットより抜粋)。
麟閣の寄付(よりつき)。
麟閣の腰掛待合(こしかけまちあい)。
茶室麟閣のにじり口。
茶室麟閣の床の間。
麟閣の庭。左手奥が茶室麟閣。
御三階跡(ごさんかいあと)。
御三階は、数奇屋風の楼閣状の建物であり、戊辰戦争後の鶴ヶ城の取り壊しが行われる前に、七日町の阿弥陀寺に移築され、現存している(案内看板より)。
本丸から空を望む。
雲間に青空がぽっかりと見ることが出来た。
鉄門(くろがねもん)。
本丸の表門で、帯郭から本丸内の奥御殿に通じる。
北向きの多聞櫓城門である。
扉や柱が鉄で覆われていたことから鉄門の名が付けられた。
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