ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

窯変かえうた地獄 その4 よろしく買収

2016-01-31 21:57:22 | 窯変かえうた地獄
よろしく買収(元歌:「よろしく哀愁」)

もっと素直に僕の 頼みを聞いて欲しい
一緒にやりましょうよ あのダム工事を
君がもうけりゃ僕が 僕がもうけりゃ君が
世の中相身互い うまくできている
合えない時間は 秘書と会ってるのさ
もしバレても 秘書がいる
献金とワイロとの 境は決めたけれど
 バレなければ平気 よろしく買収



 このかえうたは、数年前に作ったものですが、元歌の歌詞がうまく生きているので、作った当事者としてはわりとお気に入りのうたです。
 これを作ったときは、お役人や政治家の贈収賄系の汚職は一段落していた時期だと思います。ですから、まさか今のご時世に、大臣の執務室で現金のやりとりをしていたり、権力を笠に着た秘書が好き放題やっているなんてことが起こるとは思っていませんでした。「我が世の春」は、実は「冥土への一里塚」なのかも知れないなあ、などとしみじみ思う今日このごろです。
  もしなんでしたら、出典さえ明らかにしてくれれば(私の自己顕示欲を満足させるためですとも)、このかえうたを、今のご時世に会わせてアレンジしてうたってくださっても結構です。そのときは、「こんなふうにしたよ」とお教えいただければ、私もそれをいろんなところでうたいたいと思いますので、よろしくお願いしますm(_ _)m。

ブログでトグロ巻きR その3 GPIFの年金資産運用とギャンブル

2016-01-28 18:31:13 | Weblog
 もう今は昔の話ですが、私、パチンコにどハマリしていた時期があります。パチンコ好きの同僚に誘われたのがきっかけで、そのとき、いわゆる「ビギナーズラック」で大当たりしてしまったのが運の尽き(機種は、忘れもしない「綱取物語」でした。スーパーリーチで「ノコッタノコッタ」のかけ声とともに軍配うちわがクルクル回るのがとても興奮しました)。仕事が終わればパチンコ屋、休みは朝からパチンコ屋、仕事をしても遊んでいても、頭に浮かぶは銀玉のことばかり。いやもう一時は生活そのものがパチンコ中心に回っていたことさえあるくらいのハマりようでした。
 あるとき、自分はどうもパチンコというかあらゆるギャンブルに深くはまりやすい性格なのではないか、ということに遅まきながら気づき、ぷっつりとパチンコからは足を洗ったわけですが、結局、ン十万円を「パチンコ銀行」に預金したまま、今日に至ります(残念ですが、もうそれを取り返そうとは思いません。貴重な「勉強代」だったと思うことにしています。とほほ)。

ギャンブルで勝つのは胴元と一握りの「プロ」だけ

 今から考えれば、貴重な時間とお金を浪費してしまったわけで、まったく愚かしい振る舞いだったと反省しています。そもそも、ギャンブルというのは競馬やパチンコなど合法なものでも非合法なものでも、いわゆる「胴元」と一握りの「プロ」以外はみんな負けてしまうのが前提だ、という趣旨のことを、ギャンブラー作家の森巣博さんもいくつかのご著書の中で書いています。シロウトがもうけることができるようなものではないわけです。遊びの範囲内で済ませられるならよいのですが、私のような「ハマりやすい」人間にとっては、人生を棒に振るほどの危険性を持っているのがギャンブルなのですね。

株式の売買は立派な「ギャンブル」

 と考えると、株式の売買というのも、相当なギャンブルだ、と私は思います。
 自分のかかわっている、あるいは好きな会社の株を買って、会社の経営を下支えし、配当や優待を得る、というのは別に問題はありません。そもそも株式というのはそのようなものだと思います。
 しかし、株式市場における株価の変動を見ながら、将来の値上がり・値下がりを予測して短期的に株を売買するというのは、まさにバクチそのものですよね。競馬やパチンコのように「胴元」がいるわけではありませんが、株価は人間の心理に大きく左右されるもので、基本的に将来予測は困難だ、というのは、バブル崩壊やリーマンショックなどを経験してきた経済人にとってはもはや常識のはずです。

「そのうち勝てる」で泥沼にハマるギャンブラー

 パチンコにハマっていたとき、私の心理状態はこんな感じでした。
(1)初めに大当たりして、しばらく連チャンが続き、その後出玉が止まったとき。
 さっきまで出てたんだから、またアタリが来るだろう、と思い、せっかく得た銀玉をどんどんつぎ込み、気がつくと玉はすっからかん、持ち金もみんななくなっていました。
(2)いくらつぎ込んでもアタリがさっぱり来なかったとき。
 そのうちきっと流れが変わってアタリが来るさ、だってこんなにつぎ込んでるんだもん、などと思い、どんどん金を突っ込んだり、「台が悪いんだ台が」と言いながら次々台を変えて打ち続けても、とうとう全く当たらず、ン万円を呑まれておしまい、ということになりました。
 早い話、「今は負けていても、きっとそのうち大当たりが来て大逆転するのさ」と思いながら泥沼にズブズブとはまり込んで抜け出せなくなる、というのが、多くのシロウトギャンブラーの典型的なパターンであると言えるでしょう。

大切な年金資金をギャンブルにつぎ込んではいけない

 だから、私たちの積み立てている年金資産を運用するGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人。なんて長い組織名だ)が、利率は低いが安全性が高い国債等の国内債券から、国内外の株式への投資を増やして運用し、しかもそれが大変な含み損となっている(一説によると10兆円の損が出ているとか)というニュースを見たときは、「そりゃそうだろう」と思ってしまったわけです。
 株式を、その時々の相場で短期的な売り買いを行うというのは、これは「投資」ではなく「投機=ギャンブル」そのものです。前述したとおり、ギャンブルは胴元と一部の「プロ」以外は勝てない前提になっていますから、少なくとも国民の将来生活安定のための大切な年金資金をそういう「ギャンブル」につぎ込むのはやっぱりまずいでしょう。
 おそらく、お役人である担当者は、かつての私と同様の「シロウトギャンブラー」なのだろうと思います。「今はとりあえず負けてるけど、そのうち流れが変わって大勝ちするのさ」などと根拠なく考えて、それでもいちおうは証券会社の担当者かコンサルタントかの「アドバイス」を受けながら(それも結構な金額の指南料を払いながら)、貴重な年金資金を株式市場につぎ込んでいる姿が目に浮かびます。それで含み損をどんどん積み上げてるわけですから、目も当てられない話です。
 そういうこと、もうやめませんか。日本社会の維持・発展のために堅実かつ懸命に生きてきた人々の老後資金は、やはり堅実に扱うべきです。ひょっとすると、一発大逆転のような株価上昇の可能性は皆無というわけではないのかもしれませんが、やはり限りなく少ない確率でしょう。10兆円とも言われる含み損ですが、「負けた分を倍にしてやるぜ」などと考えてさらに金を突っ込むのは、典型的なダメダメギャンブラーです。年金資金は総額で135兆円あるそうです。手を引くなら今です。


 と言いながら、とても重要なことを忘れていました。GPIFの年金資産運用の方針変更を主導したのは、何と我らが総理大臣閣下チームだというではありませんか。ということは、シロウトギャンブラーの背後には総理大臣閣下がいらっしゃった、ということになり、そういうことなら、年金資金に大穴を空けた最終的な責任も、総理大臣閣下ということになります。
 そういえば総理大臣閣下は、就任以来、自らの権力のあり方を規定している憲法や、戦後日本の政治社会システムの大本であるポツダム宣言もよくご存じでない、ということが明らかになっています。 
 もう、この際、いろいろシロウトである総理大臣閣下は、ご自身の理解できる範囲でお仕事をしていただき、ご自分でもよく分かっていらっしゃらないらしい年金運用や政治・外交からは、手を引いていただくのが、ご本人のためにもよいのでは、と思う今日このごろです。

窯変かえうた地獄 その3 酒飲みが止まらない

2016-01-26 18:52:42 | 窯変かえうた地獄
酒飲みがとまらない(元歌:悲しみが止まらない)

I can’t stop the drinking
どうしてなの 酒飲みが
止まらない

あなたにお酒 飲ませたことを
わたし今も 悔やんでいる
あなた指先 震えてた
真夜中の 居酒屋で
あの日電話が 急に鳴ったの
あの酒を 飲ませてと
彼女から

I can’t stop the drinking
こらえきれず 酒飲みが
 止まらない



 このかえうたは、今から20年以上前、職場の同僚と呑みながらマヌケな話をしているときにできたものです。
 もう、発想が基本ヨッパライ。
 可能なら、2番まで作りたいと思う今日このごろです。

シロウト考え休むに似たり(8)「農業立県・新潟」を考えちゃったりする

2016-01-24 17:37:09 | Weblog
 先日の晩はツマがお友だちとの会食だったので、私も一人居酒屋を楽しみました。古町や万代などに、いくつかのお気に入りの居酒屋がありまして、どこも大変おいしい。友人のヤマガくんが以前、「新潟の居酒屋の料理を東京でいただくとしたら値段は倍になるだろう」と言っていました。それはやや大げさな褒め言葉なのかもしれませんが、それでもその言葉は、新潟の「食」の豊かさをわかりやすく表現していると思います。

今のままでは食文化は滅びる

 ところが、その「食」を支える農業従事者は、減少の一途をたどっています。耕作放棄地も2010年で9452ヘクタールあるそうです。大変な面積ですね。理由は、農業従事者の高齢化と後継者不足、農業そのものの将来性への不安がある、ということです。これでは、食文化を次世代に引き継ぎ豊かにしていくなどということは不可能と言わざるを得ません。それどころか、私たちの生命の基本たる食料が地元では調達できなくなり、どこか遠くの、誰がどのように作っているのかよくわからないような食料で食いつなぐしかなくなる、ということになりかねません(というか、もうほとんどそうなってるか)。同様のことは、漁業でも林業でも言えるでしょう。

この際「農業職公務員」を

 前もこのブログで、TPPについて考えちゃったときに同様のシロウト考えを示してしまいましたが、この際、どうせシロウト考えなので、さらに極端なことを提案しようと思います。
 それは、農業従事者を、いわゆる農家が代々受け継いでいくというだけでなく、広く一般から募集する、ということです。すでに一部の農業生産法人はそうしていると思いますが、この際、他県に先駆けて新潟県で、農協が自ら「農業職職員」を募集するとか、県庁もしくは市町村が「農業職公務員」を採用するのです。そして、耕作放棄地や遊休農地をそういう職員によって耕作してもらう。いわゆる「農家」の場合は、コメを中心に、これまで取り組んできた、生活維持のための「儲かる」農作物を栽培することがメインとなるでしょうが、農協や役所の農業職職員が取り組むのは、目先の儲けをとりあえず度外視した、地球温暖化などの環境変化に対応する農業のあり方の研究や、安全・安心な農作物を効率的に生産する方法の研究といった実験的・先駆的な農業とし、その成果を県内農家に還元していく、というのはどうでしょう。全国に誇る農業県である新潟なら、それくらいなことをしてもよいと思うのです(そもそも、遊休農地や耕作放棄地を再生することは、里山再生と同じく、環境保全という観点からも重要です)。
 新潟には、農業高校や農業系専門学校・大学で農業を学んでいる学生さんも大勢います。近い将来、あのNSGグループは「新潟食料農業大学」を開学するそうです。その学生さんたちは皆、新潟の食文化発展のための貴重な人材です。そういう人びとの活躍の「場」として、「農協の農業職職員」や「農業職公務員」は、たいへん意義あるものとなるのではないでしょうか。

新潟を「食」の独立国に

 私は、リウマチで手足に障害がある身で、自分で農業ができるわけではないので、たいへん無責任なことを言っている、という自覚はもちろんあります。「農業職公務員」を実現するにはそもそもカネがない。ということもわかっています。それでも、あえて提案したいのです。
 実は私は隠れもない飲み食い道楽、おいしいものが大好きです。ついでに新潟もとても好きです。自分の飲み食いするものが地元産なら、それだけで何かうれしくなる、というパトリオティストです。農業は(そして漁業・林業も)、新潟の魅力を高めるための、重要な産業です。極端な話、新潟を、「食」に関しての独立経済圏にすることはできないか、などとも考えちゃったりします。それは、県民のためにもなり、また、新潟を外から訪れる観光客のためにもなるのではないかと思います。
「食」の独立国・新潟。おもしろいと思いません?

「窯変かえうた地獄」その2 神田川新潟弁

2016-01-17 14:03:06 | 窯変かえうた地獄
新潟弁神田川

おめさんは へえ 忘れたろかね
ああけ 手ぬぐい 首巻きにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ろれって ゆうったてがに
いつもおれが 待たさった
洗い髪が 芯まではっこなって
ちっこて 石けん カタカタ鳴った
おめさんは おれの体こと抱いて
「はっけねっかてぇ」って ゆうたんだて
わあけかった あのころ
なんにも おっかのねかった
ただ おめさんの優しさが おっかねかった

おめさんは へえ べちゃったんだろかね
二十四いろの クレパス買おて
おめさんが描いた おれの似顔絵
「上手に描けて」って ゆうたてがに
いつも なんでも 似てねんだて
窓の下には 信濃川
三畳一間の ちっこて下宿
おめさんは おれの 指先こと見つめ
「さびしぃんか?」って 聞いたんだて
わあけかった あのこと
なんにも おっかのねかった
 ただ おめさんの優しさが おっかねかった


 このかえうたは、今から36、7年前、私が高校生のときに作り、今日までうたいつないでいるものです。
 ちなみに、私の新潟弁は、父親と祖母の北蒲原(紫雲寺)弁をメインに、母親の長岡弁、生まれ育った東区上木戸の人々のことば、牡丹山小学校・木戸中学校での同級生たちの話しことばなどによってできあがっていますので、他の地域で言語形成をしてきた人からみると、「違うよ」というところもあることでしょう。その場合は、ぜひ「自分流」でうたってみてください。
 たとえば、ここでは、「捨てる」を「べちゃる」としていますが、「ぶちゃる」とか「びちゃる」と言うところもあるようです。また、一人称の「おれ」は。北蒲原から北では「おら」となることもあるようです。
  ……しかしまあ、「窓の下には信濃川」って、それ、今となってはどう考えても高層マンションだよなあ。信濃川沿いの「三畳一間の下宿」ってどこなんだいったい。

シロウト考え休むに似たり(7)自然エネルギーと原発ゼロを考えちゃったりする

2016-01-15 16:36:18 | Weblog
 東日本大震災と福島第一原発メルトダウン事故から、もう5年が経とうとしています。事故後しばらくは原発の持つ重大な危険性について世間で語られていましたし、大規模な集会も催されたりしていましたが、いつの間にやらそういう声は(実際は根強く継続しているにしても、メディアでは)小さくなり、その間に九州・川内原発が再稼働しちゃったり、愛媛や福井の原発も再稼働しそうな様子です。メディアやウェブでも、「自然エネルギーは不安定で、バックアップの火力発電所が欠かせないため省エネルギーや温暖化防止にはつながらない、原発再稼働こそエネルギーの安定供給につながる最良の方法だ」などという言説が力を増しているようです。政府のエネルギー政策も当然のごとく原発再稼働が前提になっています。福島原発事故などまるでなかったかのようですね。

工業技術は、たえず更新されていくもの

 社会を回していくエネルギーとしての電気の歴史は19世紀初頭から始まりました。日本初の火力発電所は1887(明治20年)、水力発電所は1892年(明治25年)ですから、日本でも約130年の歴史があります。原子力発電所も、1966年(昭和41年)に茨城県東海村に初めて作られてから今年でまる50年となります。発電自体は、けっこう古いというか、成熟した技術であるとも言えそうです。
 古い技術は、新しい技術に取って代わられる、というのが歴史の流れでもあります。私が愛好しているカメラ・写真などは典型的な例ですが、200年近く続いてきた「感光材」を使用するアナログ写真は、20世紀に隆盛を誇ったものの、21世紀に入ったところであっという間にデジタル写真に席巻されました。テレビ受像器も、ブラウン管から液晶画面のものに移り変わりました。自動車は、未だ内燃機関が主流ではあるものの、電気自動車や燃料電池車へと移行する動きも進んでいます。
 だったら、発電システムもそういう流れの中にあると考えるべきなのではないか、と私は思っています。

発電だけが、なぜか旧技術を墨守

 そもそも、ほかの工業技術はどんどん技術革新が進んでいるにもかかわらず、発電だけは旧来のシステムのまま(もちろんそれなりの改良は行われているにしても)というのは、何かおかしいのでは、と私でなくても思っている方々は多いと思います。太陽光発電や風力発電は、技術的にはかなり成熟した「使える」ものとなっており、ベース電源として十分使える、という趣旨のお話を、環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也さんの講演でお聞きしました。それに対して原発は、燃料のウラン採掘や建設・廃炉過程で多大なエネルギーを消費するうえ、アメリカのスリーマイル島、旧ソ連のチェルノブイリ、そして日本のフクシマのように、いったん事故を起こしたら、その地域は半永久的に汚染され、取り返しのつかないことになります。たとえ事故がなくても、放射性廃棄物の処理・廃棄、廃炉となった原発の決定的かつ安全な処分方法は未だにありません。しかし、原発を再稼働・維持すべきという方々は、とにかく自然エネルギーは使えない、という論に凝り固まっているように見えます。これは、発電以外の工業技術・科学技術ではありえない、驚くべき硬直性です。

電力会社には、自然エネルギー発電を推進する力があるはずだが

 これはもう完全なシロウト考えですが、太陽光や風力による発電が不安定で使えない、というなら、そこから生まれる電気を「ナマ」の電力として送電するのではなく、例えば、海水などから水素を生産するために使用し、その水素をベースエネルギーとしてあらためて使用する、という考え方だってあると思うのです。飯田さんがおっしゃっている「ヒートポンプ」なども使えます。そもそも、「技術立国」を標榜するわが日本の工業技術の水準は国際的にもトップクラスだそうです。それなら、電力会社が持っている技術力も相当高いことでしょう。その技術を、危険きわまりない原発の維持などに用いるよりも、安全で環境負荷も低く持続可能な自然エネルギーによる発電へ振り向けることは、当然可能なはずです。新たな技術を生み出し、社会に還元することは、技術者の本懐だと私は思います。電力会社がそれをあえて行わないのは、技術の問題とは全く別の理由があるからだ、と疑われても仕方がないのではないでしょうか。

「カネのためなら死んでもいい」人と心中するのはゴメンだ

 はっきり言えば、原発は、一部の権力者や経済人にとって多大な利益をもたらしてくれる、とても「おいしい」物件である、というのはもう常識です。ですが、「今の自分がよければ、未来なんかどうなってもいい→カネのためなら死んでもいい」と言わんばかりの原発推進者の言い分は、古来からの日本人の美徳からはかなり遠いところにあると言わざるを得ません。そういう人たちが「保守」を自称していることの不思議さも、同時に感じてしまう今日このごろです。

新シリーズ「窯変かえうた地獄」その1 よこはま・たそがれ

2016-01-11 12:26:34 | 窯変かえうた地獄
新シリーズ「窯変かえうた地獄」その1

ニッポン・たそがれ(元歌「よこはま・たそがれ」)

ヒミツを ばらせば だれでもタイホ
攻撃なくても 海外派兵
改憲できなきゃ 解釈曲げる
アベ首相はやってやってしまった
アベ首相はやってやってしまった
 もう帰らない


 このかえうたは、2014年の特定ヒミツ保護法が成立するという時期に作りました。同年7月2日に、新潟日報の「日報抄」のネタとしても使っていただいたものです。
 サビの「アベ首相はやってやってしまった」がまず思い浮かび、それから全体を作ったので、元歌の歌詞がサビ以外あまり効いていないのが、ちょっと残念ではあります。
 出典を明らかにしていただきさえすれば(私の自己顕示欲を満足させるためです)、どなたにもお使いいただいてOKです。
 いちばん最後の「もう帰らない」は、元歌と同じですが、この部分はもっと元気や怒りを表すフレーズに変えてもらった方がよいかも。それはお使いになる方にお任せします。

ブログでトグロ巻きR その2 2015気になることば(2)

2016-01-04 14:09:01 | Weblog
 あけましておめでとうございます。今年も、「ばらくてブログ」をよろしくお願いいたします。なるべく週1回程度のペースで更新していきたいと思っております。

安全に暮らしたい/清潔な暮らしを送りたい/美味しいものが食べたい/自由に遊びに行きたい/おしゃれがしたい/贅沢がしたい/
何の苦労もなく生きたいように生きていきたい/他人の金で。そうだ、難民しよう。


 これは、ある漫画家さんが昨年9月、フェイスブックにイラストとともにアップした文章です。この方は、いわゆる「ネット右翼」と言われる方々から絶大な人気のある漫画家さんだそうで、先日ジュンク堂新潟店に行ったところ、地下1階の「社会新刊」コーナーで、この方がFBでアップした難民少女のイラストが表紙の本が平積みになっていました(当方、漫画ファンにもかかわらず、この方は不覚にも存じ上げませんでした)。
 まあ、このコメントは、そうした「ネット右翼」の方々がおっしゃる典型的なコメントの一つなわけですが、ここには、「知らない」物事に対して私たちがどのように考えるのか、ということを考えさせてくれるヒントがあるような気がします。

会ったことのある・つきあいのある人への悪口は言いづらい

 私たちは誰でも、つきあいがある、あるいは直接会って話したことがある人のことを話題に出すときは、褒め言葉にしろ悪口にしろ、その人に関しての具体的な言動等の事実に即して話します。したがって、その話は一定程度の「事実」による裏づけがあることになります(ためにする悪口のときは、あえてあることないこと吹きまくる、という場合もあるでしょうが、それはまた別の問題)。
 それに対して、自分が直接会ったことが全くない人のことを話題にするときはどうでしょう。その場合、私などは、「知らない人についていいかげんなことを言っちゃったら、後で事実誤認を厳しく指摘されて批判されちゃうかもしれないから、あんまり無責任なことは言わないようにしよう」と思います(長年の学習というかいろんな反省の成果ですとも)。
 ただ、現在社会問題になっているような事案については、たとえ直接かかわりあいがなくても、話題にしなければならないときもあります。そういうとき私は、なけなしの想像力を駆使して、なるべく当該事案の当事者の立場や状況を考えながら話さなければならない、と思います(これも学習の成果)。
 劇作家の鴻上尚史さんは著書の中で「中国や韓国・北朝鮮、在日韓国・朝鮮人を悪くいう人びとは、そういう人とかかわったことがない人だ。会って話して、友だちになれば、そういうことは言わなくなるはずだ」という趣旨のことを述べていました。なるほどな、と思います。多少なりとも面識のあり、一定程度の人間関係ができている人を、一方的に勝手な決めつけで攻撃する、というのはなかなかできることではありませんから。

「知らないこと」を語るとき、そこには語り手の人間性が表れるのでは

 だから、この漫画家さんがこのようなコメントを公にする、というのはなかなかビックリしました。
 何しろ、日本にはそういった「難民」はほとんど受け入れていないので、私たちの身近に「難民」の方々はほとんどいらっしゃいません。だから、おそらく、この漫画家さんも、「難民」の方々とはお会いになったことがないままこのコメントを書いていると思われます。
 「知らない人・こと」について、「知らないまま」に語るとき、何しろ「知らない」わけですから、その話は、それを語る人の持っている情報のみがベースになります。したがって、そこには、その人の「人間性」や「知性」・「思想」といったものがもろに表れることがあるのではないか、と私は思うのです。
 つまり、この漫画家さんの言葉は、そのままこの漫画家さんの人生観や人間性を示している、といってもよいのではないか、と思います。自分自身がそういうふうに思っているのでなければ、こういう「安全に暮らしたい/清潔な暮らしを送りたい/美味しいものが食べたい/自由に遊びに行きたい/おしゃれがしたい/贅沢がしたい/何の苦労もなく生きたいように生きていきたい/他人の金で」という「うまい」言い回しはなかなか出てこないでしょう。
 この漫画家さんはおそらく、難民の人びとは、本当に冒頭に掲げた文章のようなことを思っている、と考えているのでしょう。しかし、それは、難民の人びとがそう考えている、ということではなく、この漫画家さん自身の内面そのものが表れている、と言うべきなのではないでしょうか。

「知らないこと」を語るのはやめたほうがよいが

 「知らない」ことを語るのは、本当に難しい、できればやめたほうがよい、と私はしみじみ思います。ともすると自分でも、本当は何もわかっちゃいないことについて、もっともらしい話をしちゃっている場合がよくあるような気もします(冷汗)。だからこそ、「知らない」ことについては正直に「知らない」と言うべきですし、それでもそのことについて語らなければならない場合は、前述したとおり、「なけなしの想像力を駆使して、なるべく当該事案の当事者の立場や状況を考えながら話さなければならない」と思います。そのうえで、きちんと「知る」努力を怠ってはいけない、と改めて思うのです。

好きで「難民」になる人っているのか?

 ちなみに、「難民」については、私も報道以外の情報がないので、よくわからない、というのが正直なところです。だから、私自身の「思い」から類推するしかないのですが、自分の生まれ育った土地、そこで得た言葉や文化、そこで培った人間関係を捨てて異国に出て行く人びとは、それはとてもつらかろう、と思います。だって、私自身、そんなことになるのはとてもイヤですから。そういう人々に対して、ただ単に「今より楽な暮らしがしたい・他人の金で遊んで暮らしたい」から難民になっている、と指弾するのはどうなのかな、と個人的には思います。
 ついでなのですが、「安全に暮らしたい/清潔な暮らしを送りたい/美味しいものが食べたい/自由に遊びに行きたい/おしゃれがしたい/贅沢がしたい/何の苦労もなく生きたいように生きていきたい/他人の金で」ということばを、この漫画家さんは、「難民の人々はこう思っているに違いない。そして、その思いはまことにろくでもないことである」という確信を持って書いているのでしょうが、何度読んでも、どこが問題なのかよくわかりません。正直、私だってこのように思いますよ。誰だってそうではないですか? 最後の「他人の金で」というところがちょっとアレかもしれませんが、実際自分のお金がないのだったら仕方ないですよね。このように思うことが悪いというのなら、私たちみんな同罪だと思うのですが、いかがでしょう。

 というわけで、このことばを読み、私もいろいろなことを考えることができました。そして、私自身の浅はかさや軽率さなどを再確認させていただきました。そういう意味で、この漫画家さんには感謝したいと思います。いやマジで。