石ころ

「あなたの決めておられるように、私を生かしてください」 


  

 以前主人が悪性リンパ腫の宣告を受けて、病気の検査や治療が続いた時から私はよく眠れなくなっていた。
昔、私自身が膵臓癌の検査で入院した時は、早朝に病院の屋上で涙を流したことはあったけれど、これほど揺れることも心に葛藤もなく、信仰によって検査途中でさっさと退院してしまったが・・。

当然のことに主人のことは私の信仰によって・・というわけには行かず、いつかお酒で無理やり眠るようになって行った。
主人が召されてもその習慣が残った。また、医院で睡眠薬をもらうようにもなった。
もはや自然な眠りはなくなり、それらに支配されている自分自身に忸怩たる思いでいた。

 昨年末、主にひれ伏した。「どうにかしてこれらから解放してください。私にはどうすることも出来ないのです。」
自分で自分を躾けることも、責めることにも疲れ果ててギブアップした。
それから・・、ふと気づくといつの間にかお酒という手段を忘れてしまっていた。そうしてお酒は一切不要になった。

 お正月を過ぎに睡眠薬が無くなった。そのとき、以前お医者さんが
「眠れへんかったら起きときなはれ。寝られんで死んだ人は無いよ」その言葉があざやかに思い出された。
「今日は、眠れなくてもいいから・・薬を貰いに行くのは止めよう。」そんな日が続いた。

2~3時間しか寝られなかった翌日はよく眠れることを知った。布団の中で寝返りを繰り返し、1時になり2時になりはしたけれど・・朝方は眠っていた。そこで、眠くなるまで起きていることにした。

今までの常識を捨てて此処はひとり身の気楽さ、徹底的に自分の体に合わせてみようと思った。
2時頃に眠って朝9時前に起きることも許しているうちに、少しずつ眠る苦痛から解放され、今ではコトンと寝付くこともある。

 お日様を浴びて一時間ほど歩くから、体が適当に疲れるのも良い事なのだろう。目に入る太陽の光が睡眠に良いとか聞いたことがあるけれど、青い空は心も晴れる。キリッとした風にさらされることもそれはそれで気持ちいい。

目の前で突然小鳥に出くわすことも、オオイノヌフグリが空の色を映して咲いていたことも心を弾ませる。
時々すれ違う人とだんだん親しくなって、自然に言葉が増えて行く事もちょっと楽しく、通りの家の方に声を掛けられてお話しすることも、自分の世界が少しずつ広がって行くようで楽しい。

あなたの恵みによって、私の声を聞いてください。
主よ。あなたの決めておられるように、私を生かしてください。(詩編119:149)

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コメント一覧

ムベ
お心遣いありがとうございます
大丈夫です。ただ、この詩を読んで直ぐに「朝を待つ・・」ということは
「思ってもいなかったなあ・・」と気づいたのです。

とても、動けない障害にある方とは思えない詩ですね。
主にあって彼は自由だったんだと感じます。
私も最後までこの自由を主に願います。

はい。今日も良い日です。
主にうっとりと過ごさせて頂いています。
電気屋
別にムベさんが何か間違った訳でもないですし、そんなつもりでコメントもしてませんので、どうか気になさらず、、

「心地よい眠り」はレビ26章や詩編4編、箴言5章など沢山あって、この時代に供えられた大切な場所なのでしょうが、どうしてなんでしょ、目覚めて「夢だったんだ、、」って時が減ったな~って思いますが、天国では眠る必要ないのかなと考えているので、今の特権なのかと時間になったら床に入っております。

もう一つ源三さんの誌を送りますね。

今日一日も

「新聞のにおいに朝を感じ
冷たい水のうまさに夏を感じ
風鈴の音の涼しさに夕暮れを感じ
かえるの声はっきりして夜を感じ
今日一日も終わりぬ
一つの事一つの事に
神様の恵みと愛を信じて」


どうぞ今日が主に在って良き日でありますように
ムベ
春のような・・コメントをありがとうございます。

朝を待つ・・私間違っていました。私は眠りを待っていました・・。
でも、床に入って「夢で主に会いたい」といつも思います。

今朝は7時前に目覚めたのですが、「あれ、まだ夜が明けてない」と不思議に思いました。雲が垂れ込めてなかなか明るくならなかったのです。
この詩の朝は光に満ちてまったく、御国で出会う夜明けのようですね。

体の不自由さによってより恵みがわかることは素晴らしいことだと思います。
やがて天にて完全な霊の体を喜ぶ時の喜びは、より深い感動だろうと思います。このことが神様の平等なのだと思います。
電気屋
こちらでは福寿草が一番早く咲きますが、それは春が近づいている事を知らせてくれるだけ
対して、オオイヌノフグリは、春が来たんだと感じさせてくれます。
春先は白系、黄色系の花が多い中で、空の様な青が小さいけれども映えますね。

家から小一時間ほどのところに
水野源三さんと言う方が住んでいらっしゃって
こんな誌を残してます。

「夜明けを待つ」



「歯が痛む夜

咳が出る夜

けいれんが起こる夜は

夜明けが待ち遠しい

あと五時間

あと四時間

あと三時間と

夜明けを待っている

主よと呼びながら

朝の光

雀の声を待つ」

そして森下辰衛という人が、水野源三の待つことについてこう書かれているのを読みました。



『「待つこと」は、訪れを待つことです。春の訪れであったり、人の訪れであったり、知らせの訪れであったり。いずれも、そこには確かにして良きものへの期待(ある時には恐れであったとしても)と信頼があります。神という最もよき人格が、計画された秩序の通りに訪れを与えてくださること。それを摂理といいましょう。だから「待つこと」は、摂理の伴った楽しみです。」



「源三さんは、苦しみからの解放ではなく、眠りの平安でもなく、朝の光を待ちました。その方にささげる詩と、その方が来てくださることだけを待ちながら、あの信州の片田舎の夜の布団のなかで、待つことそのものになってゆくとき、彼の中に、朝の光といのちの声を受けるにふさわしい心の耳が整えられてゆくのです。それは単なる朝以上の、人間そのものの夜明け、また再臨の希望でもあるような朝。そんな朝の光が見え始めるようです。」

春が楽しみですね。
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