石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

逢魔時

2017-07-21 10:43:14 | Weblog



 ふっと不安になることがある。
キリスト者にとっては、キリストではなく人に従っている場合に不安になって当然だと思うのだが、みことばのみを頼りに生きていて「お前は間違っている」と言うささやきを聞く瞬間がある。

私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。(ダニエル3:17~18)


私はこの啖呵が大好きだ。この告白から力を得ることが出来る。そう、たとえ間違っていても、それを許されたのが主であるなら「上等だ!」ってこと。

実に問題はいつも大仰にやってくるけれど、主に在ってはただのこけおどし。
だから脅す声を聞いたら、みことばのホームポジションに駆け戻り、主の砦に飛び込む。

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブル13:8)新共同訳

決して心変わりなされないお方に、何時でも逃げ込める者の幸いである。
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(Ⅱテモテ2:13)新改訳

 私の悩みも結局は火の粉一つ浴びることはなく、覚悟したものが傷つくことはなかった。
そう、捧げものイサクは傷付けられることなど無かったのだ。捧げられて主のものとなったものは主が守られるのだ。

火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。(ダニエル3:27)新改訳

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花のいのち

2017-07-20 11:37:00 | Weblog


花のいのちは、
灼熱のうちに燃え尽きて

ハレルヤ、ハレルヤと色あせてゆく
美しや

もう充分
私はとても満足です。
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世の悩み

2017-07-18 15:15:59 | Weblog


キリスト者も世に生きているかぎり、世で発生した問題の火の粉を浴びることになる。
今そのことに直面している。

「思い煩うな。駆け引きするな。権利をすべて主に委任せよ。
そうして、それを主への捧げものとせよ。」と教えられた。

聖霊が導いてくださった平安の根拠は、「問題は捧げものとして昇華させることができる。」ということであった。

世に生きる世の悩みは、キリスト者には祈りによって神様への捧げものとなる。
世に尽きる事のない悩みがあることは、神様への捧げものが尽きないことでもあり、それはすばらしいことであった。
捧げものに事欠くようでは、神のための祭司も何もできないのだから・・。

蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。(Ⅱコリント9:10)
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贅沢

2017-07-11 21:15:04 | Weblog


 我慢強く待っていたグラジオラスが咲いた。純白や黄緑、濃淡のピンクのフリルも可愛く、ビロードのような深紅の大輪・・色とりどりに咲いてくれた。
鉢植えなのに背がドンドン伸びて、倒れないようにって付きっきりで世話をした。

今日、夕立の後ばっさりと切って花瓶に入れた。わ~お豪華!
カメラマン不在のため写真は無い。目で見た限りの贅沢・・ふふふ
部屋に居ながらにして美しいものを見ている。長い間待った花の短いいのちの贅沢。

 食べ歩きに興味はない。もう、最近は何でも残してしまうので無駄だ。
買い物も欲しい物は無い・・。
「この老いぼれに何の楽しみがありましょう」みたいだけれど、ハラハラと自分で育てた分の美しい報酬を楽しんでいる。

もうすぐ、色とりどりに朝顔が咲くだろう・・それは夏休みの花。
今はチョコレートコスモスの苗を、夕立にハラハラしながら見守っている。
ヒグラシが鳴いていた。
炎熱の陽が落ちて、ひんやりとした風は部屋にクチナシの香りを連れて来た。
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神の選びによって

2017-07-05 15:45:58 | Weblog


 人が初めて聖書に出会って祈るようになった時には、神様はその祈りを通して誰にでも、平等にご自身を現してくださる。
このことは、イエスさまを伝えた時に経験したことである。祈りは聞き入れられて悩みは取り去られ祝福されるのを見た来た。

ただ、人はその願いが叶った事に満足すると、神頼みの必要が無くなってしまうのである。その人々の神とは、目の前の悩みを解決するためにだけ必要だったのだ。

イエスさまに願って十人の病人が癒されても、感謝をするために戻って来たのは一人であった。しかし、癒された事だけで終わったら、何百回癒されても死という滅びが待っている。
それは、その人の内に癒し主なる神さまに繋ぐ、キリストの信仰が備えられていないからである。

 しかし神のわざを通して、イエスさまのお言葉が真実であることに気付いた者は、叶えられた出来事よりも、願いを叶えてくださった方、また生きて働くみことばに対して目が開かれて行くようになる。
それは内におられる聖霊の導によることである。

その人は、良い事も悪い事もすべてを通して主を見上げるようになり、すべてのことに置いてみことばの保証を求めるようになる。
つまり神様とのコミュニケーションを求めるようになるのだ。

神様に選ばれた者は目の付けどころが違うのである。故もなく賜る祝福に驚き、感謝をもって主を見上げるようになり、すべてを内に居られる三位一体の神様との交わりとするようになる。

それによって、平安が持ち去られることのない神の神殿として堅く建てられて行くのだ。
最上のたまわりものは平安である。証しするものは世には無い平安である。

 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなた方を任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなた方の実が残るためであり、また、あなた方がわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなた方にお与えになるためです。(ヨハネ15:16)
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日本人なんだなぁ・・

2017-07-03 15:10:45 | Weblog



 昨日は、二階座敷での尺八と三味線の風流な時間を楽しませて頂いた。
閉じこもりの私は、申し込み期限の直前までためらった末に、勇気をふるって申し込んだのだ。バイクで行ける距離は願ってもないチャンスだったから・・。

初めて生で聞く尺八は、知っていると思っていたものとはまったく違った。
それは飄々と心の中を通り抜けてゆくような心地よい音色で、思わず目を閉じてゆったりと受け入れて、ああ・・私はこの音をずっと昔に聞いていた・・と思っていた。

三味線はなんと強い楽器なのだろうと感じた。その音色は情感が豊かで、人の苦悩や喜びが宿っているように思えた。
それは、猫や犬の皮がつかわれていることと繋がっているのではないか・・と後で気付いた。

アダムが罪を犯してエデンを追放されるときに、神様が着せてくださった毛皮の衣を思い出させる。命という代価を支払われなければならないものは、木や竹で作られているものとは確かに違っているのだと・・。

でも、なんとも魅力的な音であった。きっと大きなホールで聴くと違ってしまうだろう・・、これはとても贅沢だけれど、お座敷で近しく強い響きを聴くものなのだろう。

 トルコのめずらしい楽器や歌も聴かせてくださった。たぶん・・その家のご夫婦と思うけれど忙しくもてなしつつ、ふっと楽器を持ってきて豊かに歌い奏でておられた。その自然体が感じ良くて・・、心に鍬がいれらてちょっとやわらかくされたみたいだ。
ふふふ・・勇気を出して出掛けて良かった!
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パウロが捨てたもの

2017-07-02 20:26:44 | Weblog



パウロには、捨てなければならないものが沢山あった。
サマリヤの女は、捨てるべきものなど何もなかった。

パウロが塵芥として捨てるべきものを、捨てていなかったら土台を間違っていただろう。
そうして、すべては彼の罠となっただろう。
捨てるべきものを捨てたから、「私を見習え」と言えたのだ。

何ものもサマリヤの女に罠をかけることはできない。彼女には罠の足がかりが無いから・・。
それゆえ、安心してイエスさまは彼女に奥義を語られたのだ。

誇るべきものを何も持たないことは幸いだ。それは守りだ。だから、パウロは進んで貧しさを手に入れた。
天の御国があれば何も要らない。それは永遠の無限の豊かさだから。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)
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夢の中まで

2017-06-29 13:24:18 | Weblog



 昨日こんな話しもしていた。
夫婦って・・時には呉越同舟のようなもので、その長い年月を互いに忍耐も積み重ね、目を瞑っては許し合っているうちに、いつしか掛け替えのない人になるのねと・・。
彼女は、自分の苦労を細々話すことなど無いけれど、ご主人には忍耐が要ったろうことは容易に想像できる方であった。

昨夜夢の中で、主人と角砂糖一個のことで目が覚めるほどの喧嘩をしたことを話すと、死んでなを「夢にまで出て来て喧嘩をする相手となる」と爆笑した。

「キリスト教ではなんと・・」チラッと彼女に問われた。夫婦の信仰のことかな・・と思ったので教会へ行き初めた時、
「信仰の無い主人に対してどう接したらよいのですか」と青い眼の女性宣教師さんに質問したことを話した。

「『妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻も無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。』(ペテロ3:1)
はい。帰ったらこのみことばの通りにしてください。」

一言で教えられた時、私が思い込んでいたキリスト教とはずいぶん違うことに驚いたけれど、それからは主人の意志と思える言葉には、私の賢いと思う判断を捨てても従い、いつの間にかみことば通りに、イエスさまのものとされて天国に帰って行ったことなどを話していた。

人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。
草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。(Ⅰペテロ1:24~25)

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ツーカーもつかの間

2017-06-28 23:56:32 | Weblog


 「ムベちゃん!近くまで来たから寄ったよ」玄関に飛び込んできた懐かしいお客さん。「上がって上がって・・」手を取るようにして招き入れ互いに気楽な寡婦さん同士。日が暮れるまでしゃべっていた。
「ツーカーで通じる人が欲しかった・・」と言われた。同じだけの年輪を重ねておればこそ何年も会っていなくても、昨日に続く今日のように通じ合える。

 彼女は嫁いだ村の婦人会などでご一緒した方、その後も尋ねてくださったことはあるけれど、私は村を離れて4~50年になる。「ちゃん」付けで呼んでもらえるのは、あの頃の知り合いだけである。
しかし・・最も親しくしていた友人は年下なのに先に逝ってしまわれて、村のことを思い出すと彼女のことがとても悲しいと話す。

名家と言われた家が彼女の亡き後、一気に没落してしまったことを聞くことになって、想像も出来なかった無残さに胸が塞ぐ。
華やかだった彼女を懐かしみ、ふたり一緒だから思い出に浸ることができた。一人で思い出すのは切な過ぎるから・・。

長生きをすることは、それだけ多くの悲しみを味わうことでもある。沢山の友人と行き来をすることは楽しいけれど、親しければなをさらに一転辛い目を見ることになる。
私はそれをとても恐れて、つい孤独に逃げ込んでしまう・・。

 「今は、ホームドラマとかないでしょ、そもそも昔のようなホームがないからね。あの頃よりも住まいも、着物も、食べ物も豊かになっているのに、なぜか余裕が無くなったね」
「まあ、昔は世間体という箍があったから、そこで忍耐もしたり頑張ったりしたけれど、今はてんでに生きているから、離婚でもなんでもありになってしまって・・」

「色々な意味で社会が貧しくなってしまったね。」
「貧困、貧困と言っている。昔はもっともっと貧しかったけれど、お互いさまでそんなことは言わなかった」
「子供の頃、たまに食べさせてもらったアンパンは嬉しかったわ。今の人はあの味は知らないから可哀想よ」
「そうそう、あのアンパンの味は知らないやろうね・・」
胸に溜まっている日頃の思いを・・まだまだ口は達者。世の移り変わりに老人はストレス感じていたのだ。

 暗くなって来た山道を運転する彼女に「気を付けてよ。夜走ったことはあるの。」
目も衰えているのだからと気がかりなのである。彼女は車の窓から
「今度はうちに来て。帰るのが面倒なら泊まったら良いよ」
「その手があったね」

再会を約束するようなしないような別れ方には、これっきりということも含まれている。
先立った友の時も・・、笑顔で賑やかに別れてそれっきりになってしまった。
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堅くて脆いアンチモニー

2017-06-27 17:47:42 | Weblog



 イザヤ54章による深い御交わり・・、
でも、あまりに個人的なことなので・・。
紫陽花をアップします。


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