石ころ

もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

賛美しよう

2017-04-30 16:21:35 | Weblog



 体がちょ~う重い。昨夜から眩暈も激しくてちょっと恐い・・。年と共に血圧は高くなるらしいので、もう今年あたりは大丈夫だろうと思っていたが残念。
楽になる薬はないから体が慣れるまで耐えるのみ。6月過ぎると慣れてくる。

あまりしんどいので計ってみたら上が80台まで下がっていた。こうなると何をするにも自分自身を叱咤激励しなければ動けないけれど、毎年のことに不安はなくしんどいだけ。
昨日、血圧が低い人は癌になりやすいと聞いたけれど、癌になるならとっくになっているだろう・・。


 それでも、からりとした上天気なので、羽毛布団を5枚出してきて干す。これはどうしてもしておかないと気が休まらないのだ。
紅葉の剪定もした。これも今すぐにしなければならない事。真っ赤な美しい新芽はあっという間に木を覆い尽くして、玄関を塞いで見通しを悪くする。

放っておいたら虫がわき蜂も巣をつくる、こうなったら恐くて近づけない。用心も悪くなるし、風通しと見通しの確保がとても大切なのだ。
たかが低血圧なので「どうしてもしなければならないこと」にお尻を叩かれることは、良い事なのだろう・・。


朝のデボーションは詩編。とても励まされる。近頃は詩編に拠って立っている。
わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。
わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。(詩編81:10.16)


口を大きく開けて、腹の底から賛美した。
主は、岩の上の蜜で私を満ちたらせてくださっている。
これこそ真実。私のすべての必要は満たされているから・・此処に居よう。
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「ごめんね」

2017-04-27 22:32:41 | Weblog


去年のインゲンの種が残っていたので、期限切れではあるけれど蒔いてみた。
期限切れだし駄目もとだけれど・・、
乏しい土を遊ばせておくのが勿体ない、駄目なら春菊でも蒔きたいのだ。

数日しても芽が出てこないので、とうとう誘惑に負けて掘り掘りしたら、りっぱな白い根を付けた豆がコロンと出て来た。
「ごめん」
慌てて土を被せて何もしなかったことにした。

でも・・掃除機を掛けている間、豆のブツブツ声が頭の中で続いている。
土をかけたらそれで良いということではなかろう・・なんて。
そもそも何も期待していなかったのか・・とか
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黙示録が見えない

2017-04-25 23:49:41 | Weblog



目の不自由な人がイエスさまの癒しを受けた。
イエスさまは「何か見えるか」と問われた。彼は「人が見えます。」と答えたが、その見え方は不完全だった。
イエスさまはもう一度彼の両眼に手を当てられて、彼ははっきり見えるようになった。

この聖書記事が今日浮かんできた。
私も最近知りたいみことばがはっきり見えない状態で、もう一度主に触れられるのを待っている。
聖書を読んでも、その内容が遠くにあってつかめない。いつものように主に尋ねたけれど、まだ・・待っている。

YouTubeで丁寧に語られるメッセージに出会って聴いている。難しい箇所は文字興しのようにメモをして読み返しても、私にはどこかぼんやりとしている。
信仰書やプリントもあるがどうしてもピントが合わない。

分からないのは、私にとってまだ開かれる時ではないからだろうか・・。
ただ、「年寄りだから・・、努力が足りないから・・、学がないから教えられない」と主が言われるわけはない。

私の造り主が、私に対して力不足で教えられないなんてことはない。人のわざなら教わる人の力次第であるけれど、主なら一瞬に悟りを与えることも出来る。だから私の問題ではないはず・・。

いや、今はまだ道すがらなのだろうか・・シロアムの池に向かって歩いているのか・・、この道は何時まで続くのだろう・・。
歩いていれば自動的に近付いていることは事実だと思うけれど・・。

主はご真実であることを知っている。主はご自身を否むことができないお方なのだ。
そうして、私は「見えるようになることです」と願っているのだから・・、必ずその日のことをはっきりと見るようになる。

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わたしの恵みはあなたに十分

2017-04-23 16:05:08 | Weblog




キュウリとトマトの苗を買って来た。生協で配達してもらった土を植木鉢に入れて植えるだけだが、それでも土や植木鉢を運び底石を集め、立ったりしゃがんだり、持ち上げたり下ろしたり・・結構力も要る。
その時、奥歯を食いしばっていることに気付いた。入れたばかりの歯・・。

私は詩編を朗読するのが好きだけれど、歯が揃っていない時はフガフガすることに気付いた。舌もなめらかに動かないので、注意深く読まなければなければならない。
その経験は初めてだったのでちょっとショックだった。部分入れ歯を入れたらまた練習が必要になるのだろうなぁ・・。
歳と共に不自由は増えて、それを受け入れて行く忍耐が必要になってゆく。

ブランドタッチでなめらかな入力を勝手に誇っていたけれど、今は時々指が曲がらなくなる。関節が痛み、こわばって打てないキーがあったりする。こうして・・歳と共に誇りは奪われて行く。色々な面で、生々しく自力が剥ぎ取られて行くのだ。

アブラハムやサラには老いがなかった。
老いなければ体の不自由を味合わうこともなく、ますます物事に熟練して、最期まで誇りを保ち続けて生きるだろう。
うっかり忘れたり、時間がかかってしまって迷惑をかけることもない。しかし・・今不自由をしていても、老いることがなくなったとしてそれが単純に素晴らしいとは思えないのも事実。

粧っていたもの、身を守ってきた鎧のようなものが剥ぎ取られ、有無を言わせず弱くされて行く事で、若い頃には気付かなかった優しさやき、許されていることの感謝を覚えるこが増えて来た。謙遜なんて自らは決して得られない私だから余計にそう思う。

また、迫って来ている終わりを感じた時、守りから解き放たれて打って出られる勝負もあり、そこに至ってもなを年齢に抗うばかりは、なぜかみすぼらしく感じることもある。

神様が許された弱さでもあるから、そこで是非経験したい「みことば」もある。どの様なときも、主の備えを経験する恵みが散りばめられているキリスト者の生涯、忍耐という訓練も通るけれど、そこにも新しく主に育てられる望みがあるのだ。


主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう(Ⅱコリント12:9)
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尽きない油

2017-04-21 17:59:31 | Weblog



 今日は、歯医者さんで口の中の大工事が行われた。
でも、「とっととやって貰うしかない」と思うから、ちょっと笑われるくらい我慢していたら「ちょっと麻酔しましょう」と言われた・・、助かった!
予定になかった歯まで昨日から痛み出して、せっかくスムーズに進んでいた治療が予定通りには行かなくなった。
まあ、この歯がお薬で治まってくれれば大丈夫とのことで、急かず治ると信じよう。


 満開のチューリップを数本切って部屋に挿した。ちょっと弱った心が明るくなるビタミン剤・・、でも、花を見ている内に切ないことを思い出した。
主人は誕生日に(多少のズレがあってアバウトだったけれど)よく花束を贈ってくれた。

濃い紫のチューリップを贈ってくれた時、沢山のチューリップを抱いて「勿体ないことして・・」なんて、責めるようなことを言ってしまった。
なぜ大喜びをしなかったのだろうと・・切なくて、取り返しのつかない思いがした。
私は家庭を守ろうとして、いつも必要以上に切り詰めてしまっていた。

 今、イエスさまがその日々をあがなってくださっていると感じる。今の方が収入は遙かに少ないのに、なぜかちっとも心配ではないから・・そう感じる。
神様に養われるときは、持ち物や収入が問題ではなく「尽きることはない」と教えてくださったから・・。

エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。(Ⅰ列王記17:16)

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造られたものよ、主をほめよ

2017-04-20 17:27:11 | Weblog



アスファルトからスミレの葉が覗いていたから、そっと見守っていた。
今、小柄だけれど沢山の花をつけて満開!

道路の隙間に事も無げに根を張って、
押しつぶされず、踏みつけられることのなかった幸せを咲かせている。

創造主に賜ったいのちのままに、ただ、それだけで、
喜びのうちに種はいのちを繋ぐもの。

峰の桜も、花壇のチューリップも、ナズナの細かな花も、
いのちは、造り主の栄光を現して、時が来たらソロモン王より美しくなる。
すべて神様のなさったこと。

初めに、神が天と地を創造した。(創世記1:1)
神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」
と仰せられると、そのようになった。(創世記1:11)
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山桜

2017-04-19 19:50:52 | Weblog


花は吉野の山桜
それは下から・・上から・・横から・・斜めから花ふぶく



淡い花色も重なれば、山を染めて花に閉じ込め
長々の年々に山を染め尽くし、地に散り敷いて・・
花は憐れか儚きか・・、
いや、山桜さえいのちの燃える時をもつ


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チューリップ

2017-04-16 18:18:18 | Weblog


堅いつぼみの先から ちらっと色づき
ゆっくりとのぞかせた赤・・ピンク・・たぶん黄色
生まれて初めて口紅を引いた少女のように
ちょっと恥じらい・・少しためらい

たった一度の舞台の袖で 押しくらまんじゅうをしながら
「あながたお先に・・」
「いいえ、あなたからどうぞ」
そんな声が聞こえて来そう



チューリップよ あなた達は何処にいても
なんといつも楽しげなことよ
喜びのお裾分けで 私も楽しい一日でした
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罪の債務証書

2017-04-14 19:10:01 | Weblog



 姦淫の罪を犯したダビデに、神様はナタンを遣わして悔い改めに導かれた。こうしてダビデは守られた。
今私たちにも聖霊によって、みことばを示して悔い改めを導いてくださる。だから主と共に居るならいつも平安である。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4:12)

 善悪の知識の木の実を食べて以来、人の善悪の基準は自己中心に揺れ動く。造り主の主権を認めず理屈を付けて、みことばのみが正義であることを認めない。
人が罪を考える時は神様を見上げずに人を見て判断する。それは、「赤信号みんなで渡れば恐くない」であり、それが基準になって滅びることは神様の悲しみである。

国民が喜び、また、喜び歌いますように。
それはあなたが公正を持って国々の民をさばかれ、
地の国民を導かれるからです。(詩編)67:4


善と悪を神の支配の下に置いて委ねるなら、神様はご自分の愛する者を守ってくださる。裁きも導きも主のなさることである。それを私たちはただ喜ぶのである。
聖霊によって罪を示されて十字架に導いてくださる時、そこで私たちは福音のみことばに出会うのだ。

いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。(コロサイ2:14)

私の過去、現在、未来の罪々を書き連ねられた罪の債務証書は十字架に釘づけられている。それがキリストと共に死んで完了されたものであることを、みことばによって確認するのである。
罪を思い出す度に十字架に戻るなら、その罪がすでに処罰を終えていることを知るのである。永遠の責めから解放されたことはなんと幸いなことだろう。

だから十字架の下で私は歓喜する。救いの神をほめたたえて心は喜びで震える。それは日常の良いこと、悪いことによって変わることはない喜び。
それはこの何の価値もない罪の者が、神様にどれほど愛されたかということであるから・・。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩編32:1~2)
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信仰書

2017-04-12 14:39:10 | Weblog



 押し入れをガサガサしていたらビニルに覆われた、本らしきものにぶつかった。重い包みをなんとか引きづり出して解いたら、どれこれもハードカバーの高価な本、子育ての中で決して余裕があったわけでもないのに、主を知ることには惜しまなかったのだ・・と、ちょっとしんみりとした。

私は消化したと思った本はどんどん処分して、何時も後悔しているバカなので、仕舞ってある本があとは思わなかった。
包みを解き表紙を見ただけで、読んでいた頃のドキドキを鮮明に思い出す本もあった。信仰の成長と平安に導かれた本たち。

その中にまったく心当たりのない本があった。スリップカバーから引き出そうとしてもなかなか出てこない真っ新な本。しかし著者を見た時なぜ新しいままなのかを思い出した。
頂き物であることは定価が消されていることでわかった。だから、捨てるに捨てられず押し入れに押し込めたのだろう。
贈ってくださった方のお気持ちにどれほど感謝しても、それでも読めなかった本。

 この方の本を教会で借りて読んだ事がある。
洗礼を授けてくださった先生に「この本で躓きました」なんて話して、「そんな話しは聞いたことがありません」と言われたことを思い出した。確かに高い評価は聞いても、批判は一度も目にもしなった。
たぶんその時から「誰も躓かないのか・・、私は変わっているのかも・・」と、自分の感じたままには話さなくなった。

ノンフィクションで涙ぐましいお働きが書かれていたのだけれど、「何か変だなぁ。私の知って居るイエスさまと違う・・」と感じていた。
その本からは、日常にキリストの喜びが見えてこないから楽しく無かったのである。あえてそれは書かなかったのかもしれないけれど、それこそ教会を幾つ建てたよりも大切な証しであると私は感じていたのだろう。

 今回、その真っ新な本を先入観を置いて心も新に開いて見た。うん・・正確に書かれている。でも・・読み進む内に心にざらっとしたものが残った。
それが、かなりのウエイトを置いて書かれている、「悔い改め」に対しての違和感であることに気づいた。

悔い改めは人が頑張って心を集中してするものではない。何が良い事で何が悪いことか、それを人が頑張って心を探っても真に知ることなど無い。それほどに人は罪に無知であると思う。もし、悔い改めに至ったと思っても、それは事実の何万分の一でしかないだろう・・。
悔い改めがそんなふうなら、生きている限りその泥沼から出られない。罪は後から後から追っかけてくるだろうから・・。

 悔い改めはただ、聖霊によって心を刺される時に教わるものである。その導きは上から来るのだ。そのとき素直であればキリストの十字架に伴ってくださり、御子の血潮に洗われた深い感謝に至らせてくださるのである。
救いを頂いた者には罪の恐れはなく、いつもキリストに依る平安で覆われている。すべてを十字架で完了してくださった主は、今も「平安があなたがたにあるように」と祝福してくださっている。

 最近はほとんど信仰書は読まない。聖書のほうがドキドキワクワクするし、わからないことは主に聴くことが常になっていて、その時に目を開かれるみことばは、何度繰り返し教わっていても新鮮なのである。
内に居てくださる方に、わざわざ人を通して聞くことは失礼なこと。まあ、愛してくださる方に一回でも多く会いたいだけのことだけれど・・。


 ちなみに本としての価値を調べてみたところ、5000円以上で売られていた。
「これは真っ新、売れるよ・・もう読む気がしないから売る?」
「いや、売ることには心が痛む。」
「贈ってくださった方に?」
「いや、それはもう充分感謝して来たし、すでにどなたかも分からなくなっている。ただ、5000円も出して買われる方に心が痛む。」
「じゃぁ・・押し入れに戻す?」
「いや、もし孫が奇麗な本に引かれて読むなら、それは私的には間違ったメッセージを残すことになってしまうし・・」
開けなかったら良かった玉手箱・・と消化できない本に悩んでいる。

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