エルサレムの王アドニ・ツェデクは、ヨシュアがアイを攻め取って、それを聖絶し、エリコとその王にしたようにアイとその王にもしたこと、またギブオンの住民がイスラエルと和を講じて、彼らのただ中にいることを聞いた。
彼とその民は非常に恐れた。ギブオンが王国の都の一つのように大きな町であり、またアイよりも大きく、そこの人々がみな勇士だったからである。(1~2)
此処でギブオンが、何処よりも弱くて戦いを避けたのではないことがわかる。彼らはイスラエルの神を悟り、自分たちの力を正しく計算をしたのである。
勇者は自分の力を知る者であり、自身の弱さを弁える者が全能の神を頼っていのちを救うのである。
神は、自分自身を救うことが出来ない弱さのうちに、御子キリストをおくってくださった。キリストが罪に病む者に来てくださったのは、神の愛に拠ることであり、永遠の滅びからの人類救出計画なのである。
聖い神に受け入れられる、罪を知らない聖さを回復することは誰にも出来ないので、すべての罪をきよめて健やかに癒やしてくださる医者が必要なのである。
「彼らは非常に恐れた」とある。しかし、その身の処し方をギブオンに学んで命を選び取らず、王たちは互いを頼みとして神に敵対するのである。
エルサレムの王アドニ・ツェデクはヘブロンの王ホハム、ヤルムテの王ピルアム、ラキシュの王ヤフィア、エグロンの王デビルに人を遣わして言った。
「私のところに上って来て、私を助けてください。ギブオンを討ちましょう。ギブオンがヨシュア、およびイスラエルの子らと和を講じたからです。」(3~4)
王たちは集まって来てギブオンに戦いを挑むが、もしギブオンが戦って敗北したのなら、違った結論を出していたかもしれない。彼らには戦いもせずに降参したギブオンの選択は、愚かに見えたのであろう。
人は力の限りガンバレと言う。自分の力を信じろという。戦いもせずに敵に身を寄せることは許し難いのである。
神に信頼しない者は人を頼りとする。そうして互いに人間を誇るバベルの塔を築いて神に立ち向かうのだ。
それは創造主を知らないゆえに、自分を弁えることが出来ないからである。
その人は真っ直ぐに主に従順することを嘲る。霊に導かれて聴いたことばをすぐに受け入れて従順するとき、盲目的と蔑むが一体神のことばを、人が何を持って量ることが出来るであろう。
福音は信じるか信じないか、キリストを信じていのちを受け取るか、拒絶して滅ぶかの二択である。
ただ、その導きは人の知識や知能に拠る事ではなく、聖霊によって「イエスは主です」と言うことにある。
このことが今イスラエルに成りますように。
だれでも御子を否定する者は御父を持たず、御子を告白する者は御父も持っているのです。(1ヨハネ2:23)