『信長考記』

織田信長について考える。

信長と秀吉は同一人格か 第六章(p127~140)

2014-03-10 06:37:55 | 本能寺の変 431年目の真実
  本章で、明智憲三郎氏の考えられている謀反の真の理由が “やがて一族が海外へと追われ滅亡する” との危機感からであることが明らかになった訳ですが、その論拠とも言うべき「唐入り」については、憲三郎氏の認識に根本的な誤りがあると言わざるを得ません。
 なぜなら、憲三郎氏の考えられている信長の「唐入り」は秀吉の「唐入り」からの類推ですが、信長と秀吉ではその生い立ちからして異なれば全国平定への経緯も異なり、家族構成も異なります。当然、人格も異なっていました。
 だとすれば、「唐入り」に対する理念も自ずと異なっていたと考えるべきであり、秀吉のそれをそのまま信長に当てはめて考えるのは極めて問題があると言わざるを得ません。

 そもそも信長の「唐入り」も、信長がそうした構想を持っていたことは確かでしょう。しかし、それがどこまで実行性をもっていたかは疑問でかあり、単なる願望であったとも考えられます。当時、信長と接触していたイエズス会は中国での布教を目論んでいましたから、信長もそれを念頭にそうした発言をした可能性もあります。

 その肝心の信長の発言内容ですが、ルイス・フロイスの『日本年報追信』(1582/11/5付)には
  毛利(氏)を征服し終えて日本の全六十六ヶ国の絶対領主となったならば、シナに渡って武力でこれを奪うため
  一大艦隊を準備させること、および彼の息子たちに諸国を分け与えることに意を決していた

とあります。後者については、それを日本の国土と見るか明の国土と見るか議論の余地はありますが、結局、語られているのはそれだけのことであり、それ以上の何者でもありません。
 それを憲三郎氏の言われるような「織田家の長期政権構想」として見るのは、信長と秀吉を同一人格と見做した解釈である言わざるを得ません。

 そしてそれ以上に、憲三郎氏は秀吉の「唐入り」ですら正しく理解していないのではないかと思われます。

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