『信長考記』

織田信長について考える。

長宗我部氏は運命共同体か 第五章(p113~126)

2014-02-22 12:39:08 | 本能寺の変 431年目の真実
本能寺の変はなぜ起きたのか。光秀の謀反の理由を「土岐氏再興」だとする明智憲三郎氏も、結局はその動機に「四国問題」を挙げています。

 「四国問題」は、かつて高柳光寿氏がその著書『明智光秀』・吉川弘文館(1958年)で指摘され、数々の変遷を経て再び注目を浴びるようになった謀反の理由のひとつですが、憲三郎氏は従来のそれを「三面記事史観」と批判しています。
 その言い分は、他の研究者のがそれを「光秀の面子を潰す」問題であったとしているがその実態は一族郎党にまで及ぶ問題であり、「一族が滅亡する」とまで思いつめるような危機であったと述べています。はたしてその指摘は妥当でしょうか。

 確かに高柳氏のそれは「四国問題」を単純に光秀の出世に関わる問題として採り上げていますが、最近のそれは家臣である斎藤利三やその兄・石谷頼辰と長宗我部氏とその家臣である蜷川親長らの重層的な姻戚関係に注目し、彼らの反発があったであろうことを指摘しています。単純に光秀の「面子云々」を問題としている訳ではありません。憲三郎氏の批判は、そうした事実を隠蔽した不適切なものだと言わざるを得ません。
 その上で憲三郎氏が主張されるのは、光秀に長宗我部氏を運命共同体とまでみなす意識があったということです。

 憲三郎氏はそれを畿内・四国同盟と呼び、石谷氏を介して「長宗我部氏も土岐一族」という意識を持っていたとし、織田家中での脆弱な立場を支えるものと期待していたと言われています。しかし、それには疑問があります。
 はたして家中でそのような一大勢力を築くことを信長が良しとしたでしょうか。またそのことに光秀が思い及ばなかったと言われるのでしょうか。おそらく光秀も、信長が長宗我部氏に「四国の儀」を許したのが当時、敵対していた三好氏への対症的なものであり、いつ覆されるか分からないことを理解していたはずです。
 ただ実際に姻戚関係にある斎藤利三や石谷頼辰にしてみれば、やるかたない思いであったであろうことは想像に難くなく、光秀の決意に賛同する要因にもなったのではないでしょうか。

 実は憲三郎氏も、「四国問題」は切欠でしかなかったことを次章で認めています。

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