『信長考記』

織田信長について考える。

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信長はいつ長宗我部氏に「阿波南郡半国の領有」を言い渡したのか①

2015-10-19 10:05:05 | 再考・織田権力と長宗我部氏 
話題を呼んだ「石谷家文書」の発見で注目されるのは、『元親記』を始めとする後代の編纂物いわゆる二次史料の記述が、まんざらデタラメではなかったということです。
とはいえ、そこには関係者の記憶違いや主観が混ざっていることも事実です。今回、改めてその点を指摘、検討してみたいと思います。

「石谷家文書」でまず注目されるはのは、天正10年1月11日付「空然(石谷光政)宛 斎藤利三書状」(「石」№32)であり、信長からの朱印状に従わせるべく明智光秀が長宗我部氏へ使者を遣わしたという『元親記』他の記述を裏付けるものとなっています。

問題はその信長の朱印状の内容であり、『元親記』他では長宗我部氏に対し「伊予、讃岐(そして阿波北郡)を召し上げ、土佐本国に加え阿波南郡半国の領有を認める」というものでしたが、同年5月21日付「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」(「石」№19)からは、その阿波南郡半国からの退出を命じるという一段と厳しい内容であったことが判明しています。

そのうえで、従来そうした信長の朱印状が発せられた背景として、『元親記』他には信長への讒言・中傷があったと記されていましたが、天正11年2月20日付「石兵部(石谷頼辰) 空然宛 近衛前久書状」(「石」№1)からはそれが事実であったことも判明しています。
そうなると、「(土佐本国に加え)阿波南郡半国の領有を認める」という信長からの朱印状が、別途にあったのかどうなのかという点が疑問になります。

それについては藤田達夫氏が、6月12日付「香宗我部親泰宛 信長朱印状」、6月14日付「同 三好康長添状」を天正9年のものとし、このときに信長が長宗我部氏、三好氏による阿波の分割支配を命じ、結果として双方に不満を残すものであったの見解を示されているのは、その後の流れを考えるに傾聴に値するものといえます。

しかしながら、信長が長宗我部氏に「阿波南郡半国の領有」を認めた可能性のある年次は、他にもあるのではないでしょうか。
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仕切りなおし。

2015-10-03 12:13:29 | 信長
結局、更新しないまま半年以上が過ぎてしまいました。
その間に待望していた「石谷家文書」が出版されましたが、当初の注目からすると然したる話題に上がることがなく、拍子抜けの感が否めません。

しかしながら、改めて同文書に目を通してみると注目すべき書状が多々あり、これまで述べてきたことにも補足、訂正すべき点が生じましたので、仕切り直しとして新たに述べていきたいと思います。

なお、取り上げる書状については「石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世」吉川弘文館・刊に従い、(「石」№)と表記します。
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お詫び

2015-02-23 06:16:35 | 信長
またまた長期放棄してしまいました。内容的にも冗漫になりつつあり、多忙も重なり興味も薄れてしまい、毎度のごとく中倒れになってしまいました。
その間に入手した資(史)料もありますが、いま少し新情報の公開を待って仕切り直したいと思います。

変わって新たに、持(自)論である信長・信忠父子の喧嘩について述べたいと思います。
自分はそこにこそ本能寺の変の真相が垣間見られるのではないかと考えています。

また中倒れにならぬよう、よく々熟考のうえ投稿したいと思いますので期待せずお待ちください(笑
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「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」からの考察⑤

2014-10-07 06:31:56 | 信長
(承前)
しかし、従来、織田方と長宗我部氏の関係悪化を示す根拠とされた史料にはその年次比定に異論もあり、それ自体を前提とした年次比定であるとの感が否めません。

今回発見された天正10年(1582)5月21日付の「斎藤利三宛書状」からは、元親が信長からの要求に条件を付け、それが原因となってか両者の間が疎遠になっていた状況は窺えるものの、従来、言われているような特段の緊張関係にあったとも思われません。
それらは、のちの秀吉の四国攻めに関わる史料※とみなすべきでしょう。

そうした従来の観念(両者の関係が悪化していたとする)は、偏に『元親記』や『南海通記』といった後代の編纂物により形成されたものでしたが、前者は「ある人」とするものの後者は康長の名を挙げ、四国での長宗我部氏の勢力拡大が天下の仇になることを信長に訴えたと記されています。
天正9年6月の三好式部少輔の件で長宗我部氏の阿波南郡半国の支配を認めざるを得なかったことは、三好氏の長老たる康長にとって忸怩たる思いであったであろうことは想像に難くありません。

天正10年(1582)の四国攻めに際して信長の三男・信孝がその康長の養子とされていたのは、康長の「巻き返し」工作によるものではないでしょうか。

※例えば、『阿波國徴古雑抄』収録「生駒親正宛秀吉書状」に対する三鬼清一郎氏の年次比定(『豊臣秀吉文書目録』)
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「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」からの考察④

2014-09-20 14:05:00 | 本能寺の変 431年目の真実
(承前)
天正9年(1581)6月、元親の実弟・香曽我部親康に対し信長は、阿波での三好式部少輔との協力(降伏?)を認め、引き続きその平定に当たることを命じており(同12日付朱印状「香曽我部家伝証文」・『信長文書』928号)、三好康長からもそれに対する添状(同14日「古証文・七」・前同)が送られています。
康長が副状を添えているのは、先述の松井友閑の書状にもあるように、信長より命じられた阿波・讃岐平定の担当者であったからです。

元親とすれば式部少輔を介しての阿波支配を認めてほしかった処でしょうが、康長の書状には、
  随って同名式部少輔の事、一円若輩に候、殊更近年忩劇に就きて、無力の仕立て候条、諸事御指南希う所に候、
  弥御肝煎我等においても珍重たるべく候、

  (同族の式部少輔は全くもって若輩者であり、ことさら近年は騒動の渦中にあり、力を発揮できていませんので、
  諸事にご指南を願います。ますますのお世話を頂き私も嬉しく思います。)
とあり、あえて式部少輔の後見を求めることで元親の阿波進出に釘を刺したものと見られます。

とは言え、阿波における長宗我部氏の影響力が認められたであろうことも確かであり、このときに実質的な支配下にあった南郡半国の領有が黙認されたと考えられるのではないでしょうか。

しかしながら先に元親は阿波・讃岐平定の意欲を示しており(天正8年11月24日付「羽柴秀吉宛書状」)、不満の残る通達であったであろうことは想像に難くありません。
そしてその後、何らかの齟齬が生じ、その阿波南郡半国からも退去せよとの命が下ったのではないでしょうか。

通説ではそのころより長宗我部氏が毛利氏との接近を図り、織田方との関係が急速に悪化していったと考えられています。
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