『信長考記』

織田信長について考える。

光秀は「土岐氏の盟主氏」か 第四章(p93~)

2014-02-02 07:24:15 | 本能寺の変 431年目の真実
 光秀の子孫を称する著者の明智憲三郎氏にとって最大の命題は「祖先の汚名を晴らすこと」
 そのことが最も端的に表されているのがこの章です。

 光秀が謀反に踏み切った理由として憲三郎氏は、
   光秀には、間違いなく守らなければならない多くの生命や幸せがありそれを守り抜こうとして悩み、
   考えた末に決断したのだ。それが戦国の世の氏族長の誰しもが背負っていた責任だった。

と述べています。その理論はある意味では正しいものの、はたして「氏族長」とは何でしょうか。「家長」とは何が違うのでしょうか。
 そのうえで憲三郎氏によれば、光秀は「土岐氏の盟主」として見られていたとのことですが、はたして何を根拠にそう言えるのでしょうか。

 そもそも、光秀と土岐氏の関係を示す同時代の史料には『立入左京亮入道隆佐記』があり、
  美濃國住人ときの隨分衆也。明智十兵衛尉。
と記されています。そして「隨分衆」とあることから、土岐氏の中でも有力な家柄の出であると考えられてきました。
 しかし筆者の立入宗継がどこまで確証を持っていたかには疑問があります。※

 と言うのも、実際に光秀自身が土岐氏を主張したとする史料はなく、同時代の他の証言※がことごとく「細川藤孝の家臣」であったとしているからです。その点からすれば宗継のそれも「美濃の土岐氏の一族である明智を称する男」程度の認識とみるべきではないでしょうか。※
 なおかつ、当時、土岐氏には美濃を追われ放浪していた土岐頼芸という歴とした宗家筋の人物がおり、その彼に何ら手を差し伸べることのなかった光秀に、人々が「土岐氏の盟主」のような目を向けていたとは到底考えられません

 憲三郎氏は、『惟任退治記』が「愛宕百韻」の光秀の句に対し土岐氏云々の説明をしていないのは、「当時の人々にはそれで十分意味が通じると判断したからである。」と説明されていますが、その傍証としているのがまさに頼芸の境遇と「愛宕百韻」の解釈なのですから、まったく以ってまともな論証にはなっていないと言わざるを得ません。
 そしてなにより『信長(公)記』には、変の前日である六月一日の夜、光秀が謀反を企て重臣たちと談合したとして
  信長を討ち果し、天下の主となるべき調儀を究め、
と記されていることからも、当時の人々が光秀の謀反をそうした目で見ていたことが窺えます。

 しかも、元禄九年(1696)に平戸藩主の松浦鎮信が編纂した『武功雑記』からは、「光秀が細川藤孝の家臣であった」ということが本能寺の変から百年後にまで伝わっていたことが窺え※、そうした事実こそが『惟任退治記』が最も隠蔽したい事であったと考えられます。
 すなわち、如何に藤孝が光秀の謀反とは無関係であったかを喧伝する為に著されたのが『惟任退治記』であったと言えます。


※「明智氏一族宮城家相伝系図書」の正式表題も「清和源姓土岐家随一之連枝明智一族宮城家相伝系図書」であり、
  「明智」という苗字自体が土岐氏の「隨分衆」であることを物語っています。
※『多聞院日記』『フロイス日本史』『老人雑話』
※幕末に編纂された『校合雑記』にも同様なことが記されており、知識人の間においてはなおも連綿として伝わり続けていたと見られます。

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