安土町商工会

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安土経済人塾(第10回-③)

2011-05-28 | 創業・経営革新情報

③㈲成和商事   牧村 隆史 (製紙原料回収販売業)

 

 

<事業内容>

  事業所や個人から排出された紙を回収し、プレス(一本1000kg前後)し、一日に15t車で2杯分出荷している。9割ぐらいは国内のメーカーに出荷している。主要取引先は王子板紙㈱等である。

  紙は、段ボール、新聞、雑誌に分類され、特殊な紙類はリサイクルできない。

 

<経歴>

  1975年9月21日に彦根市で生まれた。小中学校時代は普通だったが、高校の頃から少しおかしくなった。

  初めに入った大学は1年で辞めた。理由は、毎日自衛隊に勧誘されるのが嫌になったからである。二つ目の大学も1年留年したので5年かけて卒業した。留年の原因は、麻雀と競馬とパチスロに明け暮れていたからである。

  就職は、インターネットで調べて受けた店に受かったのでそこに決めた。その飲食店では、3~4ヶ月経つと副店長になるのだが、勤務時間が朝の6時から翌2時という大変きつい内容で、1年で退職した。

  店を辞めた頃(28歳)、父からの誘いがきっかけで家業に入った。入社して初めて仕事の内容を知った。当時は、経理や人件費その他事務的な面で不備が多く、改善を試みて、その結果取引先や従業員も増えた。

 

<方針>

  ①当たり前のことを当たり前にできるようにする(報告、連絡、相談)。…ベテラン社員でもなかなか出来ない。報告もやっと7割ぐらい。

  ②指示されたことには、必ず意味があるのでその意味を考えながら仕事をして欲しい。…どうでもいいような指示にみえても、いい加減にしてしまうと、その後大きな事態や損害に結びついてしまうことがある。

  ③1から10まで全ては言わない→選ぶべき道をいくつかと目指すゴールは設定するので、皆で考えながら結果を出して欲しい。

  ①~③全体としては、2割ぐらいの達成度だと感じている。

 

<問題点>

  ①効率を追うあまり周りが見なくなってしまう。…効率重視で考えると、視野が狭くなってしまう。

  ②お客さんの対応の仕方において、意見のすれ違いが生じる。お客さんの立場でみた場合の効率化を優先。…現場の最高効率を追求すると、顧客満足度が低下してしまう。基本的にはお客さんを待たせたくないが、現場の考えは違う。

  ③個人面談などを定期的に行い、各自の仕事に対する悩みなどを聞いてみても、なかなか本音が出ずに、何をどう改善していけばいいのかが分からない。…言いやすい環境がまだ作れていない。今後の課題である。

  ④人間関係の問題…9人の人間を割り振りしたり組み合わせたりするのは大変。どうしても相性が悪い人間が居る。会社には友達を作りに来ているのではないので、個人的な感情は抑えてほしいのだが、分かってもらえない。

  昨年から、再生可能な資源をの産廃と一緒に処理している企業に対し、分別して段ボール等を当社に出すとコストがどの程度下がるかというシュミレーションやアドバイスを試みている。提案すると反響があり、新規顧客が増えた。

 

<質疑応答>

 

Q:紙と原油の値段の連動はあるか?

A:取引先が3月ぐらいに値段を上げてくるだろうと予想していたが、結局国内では上がらず、輸出向けは上がった。本来、紙と原油の値段は連動するものだが、今年は値段は上がらないのではないか。

  

Q:従業員との面談はどのようにしているか?

A:飲み会などはしていない。社内で皆を集めて話す場合もあるし、個別に面談する場合もある。個別面談を重視している。

 

 

Q:異色の経歴に興味を持った。若い頃の経験がどのように生きているか。

A:浪人~学生時代は非常にヌルイ感じだったが、対照的に飲食店は非常に厳しかったので社会人として学んだことも多かった。今の会社に帰ってきたときも、ヌルイことが多いと感じたので、それをやり直すことから始めた。ギャップがある環境に身を置いたことで、気づいたことが多いと思う。


安土経済人塾(第10回-②)

2011-05-28 | 創業・経営革新情報

②写真店 中島 健太郎(写真業)

 

 

<略歴>

・1973年(昭和48年)5月17日に福岡で生まれた。10日前が誕生日なので、プレゼント受付中。

・1993年(平成5年)12月24日、クリスマス・イブの朝に父が亡くなった。

 それを機に日本写真映像専門学校に入学し、卒業後 ㈲モダンフォート谷本勇写真室に入社した。㈲モダンフォートは、朝日新聞の滋賀県版に2日に1回ぐらい広告が掲載されている県内では有名な店である。

・家の商売の都合で、㈲モダンフォートを1年で退社した。

・2000年(平成12年)に結婚し、2003年(平成15年)に平和堂(駅前店)に出店した。2006年(平成18年)、悪性リンパ腫と診断されるが、幸いにも誤診であったが、平和堂は2007年(平成19年)3月末で退店した。

  2007年(平成19年)10月、嫁が逃げ、2009年(平成21年)離婚が成立した。

 

<店暦>

・もともとは東印刷の家系で、造り酒屋を営んでいた時期もあった。

  祖父「鈴二(けんじ)」は、当時有名な三中井百貨店で働いていた。その祖父が趣味でしていた写真撮影を生業としたのが昭和28年で、以来、父が継ぎ、自分が継いで現在に至っている。

 

<子どもから見た家業~継ぐきっかけ>

・父が仕事をしていた頃は、時間も不規則で夜中までかかっていたし、当時の現像は暗室にこもってしていたので、大変だったと思う。その割には、お客さんには「指一本で儲けている」と皮肉られたり、「早くして」と怒られたりする仕事であった。

・父は、自分に対しては「お前には写真屋は無理や」と言っていたし、自分も写真屋になろうと強く思っていたわけではない。

・父の匂い…京都に住んでいた頃は、父はNCR㈱(レジスターの会社)に勤めていたので、機械油の匂いが父の匂いであった。写真屋を始めてからは、現像液の酢酸の匂いが父の匂いであった。

  父がしていた頃は同業者も居て、売上を伸ばすのは困難だと考えていた。従って、自分は家を継がずに普段は別の仕事をして、繁忙期だけ写真屋を手伝おうと思っていたが、結局進学せず、家業を継ぐことになった。

  父の葬式にはたくさんの人が来てくれて、「こんなにたくさんの人にお世話になったのだなあ」とか「みんなから支えてもらってたんだなあ」と感じたし、また子どものころから知っている人が来てくれていたので、自分も写真屋をやろうかと思った。

 

<写真を始めて~修行時代>

・専門学校に入った頃は写真撮影については素人だったが、専門的な機材や材料の名前は自然と知っていたし、撮影機材も家に揃っていたので、他の生徒に比べれば恵まれていた。

・専門学校時代、降雪で電車が動かなかったという嘘をついて遅れたことがあったが、先生が守山から通っている人で「下手な嘘はつくな」と叱られた。また、大阪駅に着いた時、降りるのが少し遅れて乗り越してしまい、わずか30秒の遅れが30分の遅刻につながってしまったことがある。

  大阪に通っている頃、コンクリートの建物や人混みを見て、生まれ育った安土の良さを再認識した。しかし子どもの頃は、近所の人が自分を知っていて、顔を合わしたら何時でも挨拶をしないといけないなど、窮屈に感じることもあった。

  ㈲モダンフォート谷本勇写真室では、社長が朝日放送の報道カメラマンを兼務していて、静止画から動画まで幅広く習うことができた。また、夜中に誘拐事件の現場撮影に付い て行ったこともあった。

 

<なかじま写真にて~現在の商売>

  写真は同じ場所で同じ方向から撮影しても、撮る人によって出来上がりが違う奥が深いもので、今後もずっと勉強して上達していきたいと思っている。しかし、七五三の時など、家族が撮るときに見せる子どもの良い表情はなかなか引き出せない。

  平和堂は、写真館というよりもプリントショップだったので、すぐに現像できる写真現像機を手に入れることが出来た。現在も写真現像機は経営における武器となっている。

  現像のときに少し工夫するだけで、仕上がりの色が変わってくるので、良い色を出すために頑張っている。同じ桜でも、ボタン桜とソメイヨシノでは色を変える。お客さんが喜んでくれる。また、撮影する人の腕前で色が悪くなるわけではなく、プリントする側の技術の問題である。

  平和堂を退店する少し前ぐらいから、デジタル写真が急速に普及し始め、プリント需要が落ち込んだ。幸い、自分はデジタル写真を扱っていたし、城郭調査研究所が早くからデジタル機器を導入していて、そことの繋がりもあって、対応できた。

  (色の違いや錯覚を説明するため、サンプルを提示)

  現在は、現像がきれいで早いということで、写真館からの現像を請け負っている。現像が大半で、残り1割~2割は、集合写真の撮影である。

  今では、カメラは精密機器というよりも電化製品に変わってきて、電気屋で安く売っている。メーカー自体が、写真屋よりも電気屋を頼って卸している。

  デジタル時代になると、無茶な注文をされるときがあり、数年前、建設現場の写真のH鋼を太く修正してくれという依頼が来たことがある(断った)。モラルを守る商売を続けていきたい。

 

<今後の写真業>

  中越地震や東日本大震災のとき、一時帰宅が認められた人が家から持ち出した物は、位牌とアルバムであった。その様子を見ると、身の引き締まる思いがする。

またそのような震災に遭うと、ハードディスクやCDで保存している画像は消滅してしまったと思われる。従って、一度写真にしておくとか、データを他で預かってもらうとか、写真屋として新たな提案することも含めて真価が問われるところだと考えている。

  日本で最初に写真撮影をした上野彦馬の時代から、まだ150年ほどしか経っていない。写真撮影の仕事は、このまま衰退してしまうと、200年経たずに消えてしまう職業ということになってしまうが、そんなことにならないように頑張っていきたい。

  高いデジカメはいいのか?…高いほど良いわけではなく、3万円程度で販売しているカメラでも、充分な機能を備えている。値段よりも、新しい方が機能が充実していて良い。

 

<質疑応答>

 

Q:大手会社への対抗策は? 

A:大手販売店ではしないカメラの修理にも対応する。また現像では色の違いを出している。


安土経済人塾(第10回-①)

2011-05-28 | 創業・経営革新情報

第10回 安土経済人塾 (2011527日(金) 20002200 安土町商工会館)

 

◇開会

◇あいさつ

 安土町商工会 法人部長  岡田彦士 (新栄商事㈲)

 

◇セミナー 

講師 ①北林製畳所   北林 政久 (畳・畳床製造販売業)

   ②なかじま写真店 中島 健太郎(写真業)

   ③㈲成和商事   牧村 隆史 (製紙原料回収販売業)

 

 

 


①北林製畳所 北林 政久 (畳・畳床製造販売業) 

 

 

<事業と自分の歩み>

・昭和34年12月に、父が創業した。元々は畳床の製造をしていて、創業後5年目ぐらいから畳の製造も始めた。

・私(政久)は昭和44年2月18日生まれ(現在42歳)で、生まれた頃は畳製造の仕事もほとんど機械化されていて、忙しい時期であった。

・学卒後、父の知り合いの畳店で3年ほど修行し、22歳で家業に従事し始めた。

その頃から、生活様式が変わり、住宅における畳の需要も減少し始めた。

・自分が30歳になる前後から、父が地域の用事(消防や議員)で外に出ることが増え、実質的に仕事を任されるようになった。

・仕入や販売をする中で、材料の変化に気付いた。それ以前は、国産のワラ作った畳床に国産のイグサで作った畳表を張るのが一般的であったが、この頃から、ワラを使わない畳床(建材)や外国からの畳表(特に中国産)が現れた。

・10年ほど前までは、材料をまとめて購入し手形払いをしていたが、その支払い方では苦しい場合があったので、1年半ほどかけて手形をやめ、現金支払いに移行した。

・結婚した頃から畳の規格が変化し始め、薄い畳や、縁(ヘリ)の無いタイプの畳などが出始め、和室でありながら従来の和室ではない住空間に対応するため、機械設備の入れ替えを行った。

・40歳前ぐらいに景気が急速に悪化し、売掛金が回収出来なかったり取引業者が倒産したりして資金繰りに影響が出ることがあった。そこで、仕事の比重を建設業者から個人に移すように心掛けている。

・今年(平成23年)4月1日から、事業主を父から自分に変更し事業承継中である。

 

<基本方針>

・「畳に感謝、畳との共生」…畳一筋で仕事をしていこうという考え。

・信用を積み重ねていく…父が築き上げた信用を自分も引き継ぎ、信頼できる仕事を継続する。

・仕事を楽しむ…嫌な気分で仕事をしない。なるべく楽しい気分で仕事をするように心がけている。

 

<課題>

・守りの経営…景気が悪くなったとき、無理して安い仕事を受けて労力ばかりかけて売上を維持することはしていないので、売上高は減ってきている。その方向で良いのかどうかは課題である。

・畳について熟知できていない…畳業界を取り巻く状況(例えば、イグサの産地について)について、まだまだ知らないことがある。

・無駄がまだたくさんある…従業員を雇っていた時と同じ広さのスペースで仕事をしていることなど、無駄だと感じることが多い。

 

<今後の戦略>

・滋賀ブランド安土ブランドの利用…畳組合で滋賀ブランドの畳を売り出している。また、安土は知名度が高いので、その名称をうまく使って商売に結び付けたい。

・取扱い畳表を全て国産へ…現在は、国産7割、中国産3割の割合で畳表を使っているが、今後は全て国産に変えていきたい。

・畳のリユース・リサイクルの促進…畳表を変えることなどで、長く使うことが出来る。昔のワラ床であれば堆肥にも利用できる。

・グレードアップ戦略…今の住宅では、畳の部屋は一部屋ぐらいになっていて、入れ替える場合でもお金をかけられる状況にあるといえる。相手の予算に合わせるばかりではなく、良い品物を提案していきたい。

 

<質疑応答>

 Q:年齢を重ねるにつれて畳の「和」の風情に惹かれてきた。今後の住まいにおいて、どのような畳(商品)を広げていこうと考えているか。

A:天然のイグサ100%でいきたいが、紙や化繊の畳表も出てきていて、そのようなものにも対応できる設備は入れている。畳は自然の素材なので、クロス等の代替品で使うことも出来ると思うが、コストがかかることと、素材として融通が利かないという課題がある。いま敷いている畳を少しグレードアップした物に変えてもらう提案が主になると思う。

 Q:畳製造の過程で出る端材はどのように利用されるのか。

A:なるべく端材をゴミにしないように工夫している。

 Q:大手会社への対抗策は?

A:値段で対抗するのではなく、地元業者として良いものを安心とともに購入してもらうようにしている。

 Q:グレードアップ戦略の具体策は?

A:注文されたとき、すぐに予算を尋ねてしまうのではなく、商品の説明や提案をしていくようにしたい。

 Q:国産品のこだわりやグレードアップの理由や経緯は?

A:中国産が悪いとも思わないが、日本のイグサ農家が減っていく中、国内でまかなえる物はまかない、日本の畳文化を守りたい。また、ワラ床はリサイクルが出来る環境にも良い素材なので使いたいと思う。

 Q:自分の仕事の価値をどのように伝えているか

A:畳は一旦入れてしまうと中が見えない物なので説明する機会が少ないが、見積もりを出したときなどにサンプルを提示したりして伝えていきたいと思う