写撮日記_しゃとるにっき

撮り歩いた日記_歴史マニアの自己満足

西ノ京 行き写撮 2号写

2020-06-23 | Weblog

あおによし 奈良の都は咲く花の
   匂うがごとく 今盛りなり

万葉集に有名な 小野老 が詠んだとされる和歌です。
平城京の栄える様子が匂い立つようなこの歌は、
実は平城京ではなく、赴任地である大宰府の地で詠まれたのです。



目の当たりにしているわけでもないのに 今盛りなり と
詠んだその意図はどこにあったのでしょう。
そして、同じ万葉集にはこんな歌も詠まれています。

岩綱(いはつな)の、また変若(をち)ちかへり、
  あをによし 奈良の都を またも見(み)むかも

なつきにし 奈良の都の荒れゆけば
       出(い)で立つごとに 嘆(なげ)きし増(ま)さる

都が荒れ果ててゆくのを嘆く内容で、もう見ることもないだろうと
詠まれています。
盛りであったはずの奈良の都はどうなってしまったのでしょう。


元明天皇の遷都以来、栄えていた平城京ですが
聖武天皇即位して、右大臣の長屋王が政敵 藤原氏 により
冤罪をかけられて自害したあたりから暗雲立ち込めます。

年号は 天平 と改まりますが、聖武帝は、連綿と続いてきた
政争による祟りを恐れ、その救いを仏教に求めたとされ、
天平5年、第10回遣唐使に戒師招請の任務を授けています。
その後、聖武帝の恐れを煽るように変事が起こります。

畿内にて大地震が発生して死者が多数。
天然痘が流行し、時の権力者であった藤原4兄弟が全員死去。
大宰府に左遷された藤原広嗣が九州で乱を起こす。
天平12年、聖武帝は弘嗣の乱を鎮めるよう命じ、自身は
東国行幸に出てしまいます。
そしてなんと同年12月、山背国恭仁京に遷都してしまったのです

(平城京は都では無くなったわけです。)
さらに同14年、近江
国紫香楽(信楽)に離宮の造営を始めた聖武帝は、
廬舎那仏造営を発願。これが後のいわゆる 奈良の大仏 で、
あの大仏様は 信楽の大仏 になるはずだったのです。
(なお恭仁京造営は中止 さらに聖武帝は難波宮に遷都します。)
聖武帝は、「新京」紫香楽に仏教を中心とした理想郷を築こうとしたようです。
先に紹介の後の二つの歌は、捨てられた奈良の都が衰退してゆくのを
憐れんだ歌だったのです。

ところが天平17年、美濃地方で大地震が発生(天平地震)。
この余震と、紫香楽で山火事が相次いだこともあり
聖武帝は理想郷を断念。 平城京に戻ります。
ここに再び平城京遷都が成ったわけです。
大仏造営も紫香楽から 東大寺へと変更されます。
しかしながら度重なる遷都と造営に財政はひっ迫、
民は疲弊していました。
政争の恐れから迷走し、理想郷の夢破れた国主。
人心は離れ、権威は失墜していたと推測されます。
冒頭の 小野老 の 盛りなり の歌は、混沌とする都を
揶揄していたのではないかと思わざるを得ません。

我が国は 救いの手 を求めていたような気がします。

それでも国事は進行し、天平19年、東大寺大仏の鋳造が始まります。
そして年号が 天平感宝 と変わり、これより5回続けて
漢字4文字の年号が続きます。
(我が国に存在した4文字の年号はこの5つだけです。)
同元年に聖武帝は娘の阿部内親王に譲位し、孝謙女帝が即位、天平勝宝 と改元されます。
そして同4年、ついに東大寺が完成、大仏開眼を終え、日本仏教の聖地
が成ったのです。

翌5年、1人の僧が日本に上陸します。
聖武帝の戒師招請に応え、命がけで来日。
救いの手 を持った唐の高僧 鑑真大和上 その人です。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 西ノ京 行き写撮 1号写 | トップ | 西ノ京 行き写撮 3号写 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Weblog」カテゴリの最新記事