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西ノ京 行き写撮 3号写

2021-03-09 | Weblog

17条憲法の第2条にあるように、我が国は仏教を
究極のよりどころ
として、篤く信仰することが奨励されていました。
そして、僧になるためには戒律を遵守することを誓わなければなりません。
簡単に表現すれば
 戒とは、自分自身で誓うルール
 律とは、集まりの中でのみんなのルール
ということらしいです。
このうち、戒 は勝手自由に決めるのではなく、戒師 と呼ばれる
ベテラン僧10人以上の立ち合いが必要とのこと。

     


しかし、当時の日本において戒師10人はなかなか集まらず、
自分だけで自分に授戒する自誓授戒が盛んで、さらには
自誓授戒さえも怪しい、勝手に僧を名乗る 私度僧 なるものが
横行していたらしいのです。
聖武帝は授戒制度を確立させるため、二人の留学僧 栄叡と普照 に
戒師招請の任を与えて遣唐使とともに唐におくります。

 

この栄叡と普照が唐の各地を巡り、揚州大明寺にて
高僧 鑑真 と出会います。
鑑真は二人の要請に応えて渡日を決意。(弟子21人が随行)
しかし、唐にとっては大事な高僧、日本になど行かせてなるものかと
役人や弟子たちまでが行く手を阻みます。
なんとか船出してみたら暴風雨に遭って引き返す等、
4度にわたって
渡航失敗。
5度目も暴風雨に遭って漂流し、はるか南の海南島に漂着。
仕方なく揚州に陸路で戻る際、日本僧の栄叡が病死。
さらに鑑真も両目の視力を失ってしまいます。

続いては、遣唐大使の藤原清河が帰国する際、同乗させてもらおう
としますが、唐の鑑真出国禁止令により清河に拒否されたところ、
副使の大伴古麻呂が密かに乗船させてくれます

(これが後に分かれ道となるのですが)
第1船に清河、第2船に鑑真一行、他に2船の計
4船。
かくして、遣唐使帰国船団に紛れ込んでの6度目の渡日が決行されたのです。

    

ここでもすんなりと渡日できたわけではないらしく、
第4船が行方不明となり、他の3船はなんとか今の沖縄本島に
たどり着いたものの、第1船が座礁してしまいます。
残り2船で日本を目指し、
天平勝宝5年、12月12日、2船は現在の屋久島に到着。
ここに鑑真の来日が叶ったのです。

12年で6度の渡日挑戦、聖武帝の戒師招請からは
20年の歳月が流れていました。

ちなみに清河乗船の第1船は座礁から抜け出したあと漂流して
ベトナムの北部に漂着。ここで原住民に襲われ、
船は壊され乗組員の大半が殺されてしまったとのこと。
清河自身は命からがら唐に逃げ延びるのですが、その後終生
帰国は叶いませんでした。
清河が快く乗船を許していたら、恐らく鑑真は第1船に同乗
していたでしょうから、漂着後に鑑真一行がどうなっていたか
想像に難くありません。
まるで冒険映画のごとく、鑑真のために犠牲になったかのような
帰国船団。この、死を賭した執念は一体なんなのでしょうか。

とにもかくにも鑑真和上は日本の地を踏み、正統なる戒律制度と
日本仏教の礎を築いて行くのです。

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