財部剣人の館『マーメイド クロニクルズ』「第一部」幻冬舎より出版中!「第二部」朝日出版社より刊行!

(旧:アヴァンの物語の館)ギリシア神話的世界観で人魚ナオミとヴァンパイアのマクミラが魔性たちと戦うファンタジー的SF小説

マーメイド クロニクルズ 第二部 第6章−7 支配する側とされる側(再編集版)

2020-10-19 00:00:00 | 私が作家・芸術家・芸人

「わたしには、絶対的価値観の否定の方が正しいような気がするけどね」
「そこがむずかしいところでして。たとえば、ナチスによるホロコーストを野蛮な行為と考えれば啓蒙による社会の解放が妥当な選択肢に見えますし、フランクフルト学派が言うようにナチスの暴挙を理性が道具化された状況と考えればモダニズムは妥当性を失います。しかし、支配的な価値観があるからこそ、対抗的な価値観が光り輝くという点は否定できません。フランシス・リオタールは、ポスト・モダニティー(ポストモダン時代)ではなくポストモダン・コンディション(ポストモダンの条件)という言葉を使っています」
「ポストモダニズムが、モダニズムを崩壊させてしまうのではなく、あくまで支配的な状況に対するアンチテーゼなのかしら?」
「その点は、どのような思想家の立場を取るかによって、多少、異なります」
「大分クリアーになったけど、それがパフォーマンス研究にどうつながるの?」
「カルチュラル・パフォーマンスを、文化人類学者ヴィクター・ターナーは、文化を創造し、社会的に行動し、自分自身を作り、変化させていく人間、ホモ・パフォーマンス(homo performance)の活動と定義します。パフォーマンスする人間は、参加する儀式や社会劇、日常生活における即興的で創造的なパフォーマンスを通じて定義されます。重要な点は、知の体系としてのパフォーマンス(performance as epistemic, or a way of knowing)という認識です。パフォーマンスは、経験を知る手段であると同時に、個人、社会、文化的アイデンティティを規定する手段なのです。これまで絶対的だったり、固定化されていると思われた男と女、文明と自然、西洋と東洋といった一方を特権化し他方を劣等なものと見なす二項対立構造を変化させる可能性が開かれたわけです。権力やメインストリームによって構築された社会的現実を、脱構築(デコンストラクション)して、さらに再構築する潜在的パワーをパフォーマンスは秘めています」



「なかなかおもしろいわ。それほど魅力的なパフォーマンスが、なぜいままで研究されてこなかったの?」
「人間は、基本的に支配する側にしか興味がありません。支配される側に回りたいと思うものなどいないのです。たとえば、第二次世界大戦後に脚光を浴びたフランクフルト学派を中心とした批判理論(Critical Theory)は、現存する社会が理論を規定するだけでなく、理論が社会を規定するという相互的関係があると喝破しました。事実と理論の両方が、現在進行形のダイナミックな歴史的過程の一部なのです。そのために、フランクフルト学派創始者の一人ホルクハイマーは、批判理論は批判的であるべきだと主張しています。批判理論の提唱者たちは、理論は単に正しい理解をもたらすだけではなく、現代の社会・政治的状況よりも、いっそう人間の繁栄に通じるような状況の創造をめざさなければならないと考えたのです。ところが批判理論でさえ暗黙の内に、支配階級や権力を持ったエリートといった行為者がイデオロギーを生み出すと考えています。階級、利害、支配という概念と結びついた批判理論は、統治行為やコントロールなどの特定の活動を中心に置くために、パフォーマンス研究では重要なテーマになる希望、遊び、気遣い、癒しなどの行為を、分析の対象から排除してしまいました。統治行為が、主体が権利を乱用し操作する法的フォーラムをモデルとするのに対して、その他の行為では、階級に基づく行為に同意する標的としての主体を構成しないのです」
「パフォーマンス研究は、支配構造に迎合して権力を握る側ではなく、支配に抵抗する側、権力を持たない側に注目するのね。当然、最初から階級に基づく行為に同意するような標的としての主体も考えていない」
「その通りでございます」
「具体例を挙げてくれる?」


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