日常生活において、自分でも気づかずに
自分で外界に力を与えてしまって悶えてしまっているというお話です。
『ヒマラヤ聖者の生活探求Ⅳ』より引用します。
人は対象につねに自分で力を与えておき乍らその力に自分から
合わせて行くものです。
つまり、もし俗世やその環境に人を支配する力があると信ずるならば、
信ずる事によってそれらに力を与え、逆にそれらがその力を振るって
こちらを支配する様になり、かくして幾千もの種々さまざまの力が
在るが如くに見え、それらに支配される様になり、ここに人々の
惑乱の原因があるのです。
P31より引用
わたしたちはとかく心の中で、この人のせいで、あるいは、
あの事のために、こんなに悲しい思いをしているのだと呟いて、
それら外部の存在に自分を支配する力をみとめがちです。
しかしこれは環境や有形無形のものに自分を支配する権能を
与えることであって、一旦与えてしまった見かけ上の権能に
従ったが最後、本来ある筈のない精神状態や感情を自分自身の
中に現してしまうのです。
かくて自分から状態、其の他のモノ(者)に、相手に与えてしまった
権能に服従するために、予期した通りの悲しみを自分から現しておき
乍ら、『わたしは悲しい』などというのです。という事は、あなたは
あなた自身の表現するものになってしまったという事なのです。
P33より引用
人間は自分で外界に力を与えてしまっている。
本来外界には力はない、又、力を与えた様にみえていてさえ
実は何らの力もないのである。
その力は依然として彼自身の中にあるのであって、
環境や彼自身の実相(神我、I AM)、即ち中心にある真我外の
何かに力がある様に見えるものにしても、実は彼自身の中にある力の
倒錯なのである。
P47より引用
外界はすべて宙ぶらりんな状態ですが、
観察者である我々が意味を与えることにより
状況に応じた様々な出来事を無意識のうちに引き寄せるが故
神と同じ創造者であるので御座います。
そしてすべての力は既に自分の中に在る
これって凄いコトだと思うですが。
まわりがどんな状況であろうと自分の中の力を信じることです。
自分で外界に力を与えてしまって悶えてしまっているというお話です。
『ヒマラヤ聖者の生活探求Ⅳ』より引用します。
人は対象につねに自分で力を与えておき乍らその力に自分から
合わせて行くものです。
つまり、もし俗世やその環境に人を支配する力があると信ずるならば、
信ずる事によってそれらに力を与え、逆にそれらがその力を振るって
こちらを支配する様になり、かくして幾千もの種々さまざまの力が
在るが如くに見え、それらに支配される様になり、ここに人々の
惑乱の原因があるのです。
P31より引用
わたしたちはとかく心の中で、この人のせいで、あるいは、
あの事のために、こんなに悲しい思いをしているのだと呟いて、
それら外部の存在に自分を支配する力をみとめがちです。
しかしこれは環境や有形無形のものに自分を支配する権能を
与えることであって、一旦与えてしまった見かけ上の権能に
従ったが最後、本来ある筈のない精神状態や感情を自分自身の
中に現してしまうのです。
かくて自分から状態、其の他のモノ(者)に、相手に与えてしまった
権能に服従するために、予期した通りの悲しみを自分から現しておき
乍ら、『わたしは悲しい』などというのです。という事は、あなたは
あなた自身の表現するものになってしまったという事なのです。
P33より引用
人間は自分で外界に力を与えてしまっている。
本来外界には力はない、又、力を与えた様にみえていてさえ
実は何らの力もないのである。
その力は依然として彼自身の中にあるのであって、
環境や彼自身の実相(神我、I AM)、即ち中心にある真我外の
何かに力がある様に見えるものにしても、実は彼自身の中にある力の
倒錯なのである。
P47より引用
外界はすべて宙ぶらりんな状態ですが、
観察者である我々が意味を与えることにより
状況に応じた様々な出来事を無意識のうちに引き寄せるが故
神と同じ創造者であるので御座います。
そしてすべての力は既に自分の中に在る
これって凄いコトだと思うですが。
まわりがどんな状況であろうと自分の中の力を信じることです。