読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

昭和の芸の虜「藤山寛美」

2007-05-21 11:59:20 | Weblog
昨年の今日は藤山寛美さんの17回忌でした。その寛美さん死去の際、桂米朝は「一番残念なのは後継者を育てなかった事」と悔やみ、上岡龍太郎は「大阪の文化が滅びる」と嘆き、立川談志は「通天閣が無くなったようだ。」と偲び、またダウンタウンの松本人志は著書の中で「この人は素で面白い人なのではなく、面白い人を演じる事の天才なのだ」と評したといいます。

「あほの寛ちゃん」の強烈なキャラクターと晩年の泣かせる演技では激しい役者魂をみせてくれました。この演技への執念、情熱は後述の芸人としての生い立ちから滲むように生み出されたものに違いはありません。そしてもうひとつが「芸の肥やし」と繰り返した豪遊にあったことも事実でしょう。

「俳優の子という出自ゆえ、『俳優』『芸人』としての姿勢を私生活でも徹底し、初代桂春團治と後の横山やすしの様に金使いも荒かった。『遊ばん芸人は花が無うなる』という母親の一家言を守り、夜の町を金に糸目をつけず豪遊した。バーのボーイに『チップとして』車のキーを渡し、自動車一台をあげたこともあった。そのため、多額の負債(知人に騙された巨額の負債もあった)を抱え、1966年には当時の金額で1億8000万円の負債を抱えて自己破産」。

「これを契機に松竹と松竹芸能は彼を解雇。彼は舞台に立たず、知己のつてを頼り東映任侠映画で鶴田浩二らの助演で生活をしのいだ。余談だが、解雇通告したのが、当時松竹の常務を兼任し、先代の松竹芸能社長であった勝忠男である。(横山やすしが金使いが荒かったのも春團治と寛美の魅力に惚れたからであろう。後にやしきたかじんも寛美から魅力を教わる事になる。)」

「寛美が自己破産と松竹新喜劇を解雇された事を知った天外は寛美に「アホ!借金なんか作りよって!」と一喝した。(事実上、その時点で寛美は「破門」の烙印を押されたが、復帰後は烙印は消えている。)後輩芸人への面倒見が良かった寛美は、彼らの借金を立て替えることもしばしばで、特に自らがまだ多額の借金を抱えている最中に月亭八方の1000万円の借金をキャッシュで立て替えて払った話はあまりにも有名である」。(ウィキペディア)

藤山 寛美(かんび、本名:稲垣 完治(かんじ)、1929年6月15日-1990年5月21日)は、「大阪府大阪市西区出身の喜劇役者。女優の藤山直美は娘。弟子にはな寛太・いま寛大のはな寛太、山崎海童らがいる。1929年(昭和4年)、関西新派『成美団』の俳優・藤山秋美の末の息子として生まれる。母は新町のお茶屋『中糸』の女将・稲垣キミ。父の病没した1933年(昭和8年)、花柳章太郎の命名で父の藤山を継承し「藤山寛美」として4歳で初舞台に立つ」。

「関西新派の都築文男に師事し、13歳で松竹家庭劇に移るまで師弟間系にあった。 以後は各劇団を転々とし、1947年に曽我廼家十吾、師匠格に当たる渋谷天外 (2代目)、浪花千栄子らの松竹新喜劇の結成に参加。寛美をかわいがった天外が脳出血で倒れた後は実質的座長となった。観客によるリクエスト狂言の上演など、アイデアマンとして知られ、代表作は『鼻の六兵衛』『宝の入船』など」(ウィキペディア)


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