葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

理屈のみでは割り切れぬ皇室論 その三

2012年01月02日 18時51分07秒 | 私の「時事評論」

 聖なる統治、俗なる政治


 謹賀新年

 昨年末に始めたこの連載、頭の整理が出来上がらぬうちにはじめてしまって、さてどのように展開していったらよいか、書きながら思案中というだらしなさ。
 だが、頭の整理を待っていても、私の頭の混乱の動機は、私の老化による頭の整理の衰えにあるのだし、待って解決するとは思えない。そこで構わず、このまま続けさせていただくことにする。


 日本の天皇制度は古代から続いている

 天皇の日本国における地位は、天皇制度が発足し、日本という国ができてからいままで変わっていないという説がある。

 日本の天皇制度は日本国の建国以来の歴史を持ち、確かに創立時から皇統は男系相続(皇位の継承者に男子が見当たらないとして、男系の女帝が即位されたことは何度かあるが)を固く守って、それを一貫する不変の皇位継承の条件として続いてきている。

 天皇の祭祀王としての立場は勿論不変だが、為政者としての権限がどこまでの範囲のものであるかは武家政治の時代から度々の不連続があり、必ずしも一貫したものではないかもしれない。今風の言葉でいえば、日本国の元首としての天皇制度は続いているが、その政治、行政上の世俗権限行使の権限を見ると、微妙な変化を重ねながら現在まで来ているのだという見方もできる。

 長い日本の歴史には、文化そのものが日々に変化発展することもあって、様々の政治上の変化もあった。ただ天皇が日本の元首であるという立場は、そんな変化が度々日本に訪れたにもかかわらず、断絶することなく現在までつづいてきた。

 日本という国は、古い歴史をそのまま現代まで工夫しながらも本質を残して保ち続ける継続した文明を持つ国である。その長い歴史において、天皇という君主の制度が建国以来断絶なく継承されている例は世界史上に例が無い。日本の天皇制度は、どうして途中で絶えることなく、今まで一貫して続くことができたのかという問題は、天皇制度を論ずるときにもっと注目されるべき重要な問題だと私は思っている。

 日本の天皇制度が、ガチガチに固まった絶対型・独裁型の押さえつけるような硬直そのものではなく、いつの時代にも生きることのできる融通性を持ったものであったから、私は歴史の激しい流れにも生き続けてきたのだと思っている。世の中の空気が少々変化しても、天皇制度にはそれに対応して存続する力があった。

 だが時代の変化への対応に融通性があっただけで、ここまで生き延びてきたのではないとも思う。天皇は、我々日本人の日々の生活に、単なる政治上の物理的支配者として君臨する力を持っていただけのものではなく、もっと多方面にまで深い影響力を持って、我々の生活を営む血液のように入り込んでいた。この立地条件に適合して育ってきた日本文化にしみ込み定着しやすい体質とでもいったらよいだろうか。
それがあったから、天皇制度は生まれて以来、日本人が生きていく上に無くてはならないものとして文化とともに生き続けてきたのではないだろうか。


 神武天皇だ、皇紀何年などと言い出すと

 天皇制度は、神武天皇より125代・2600年以上の歴史を持っている。とにかく恐ろしく長い歴史がある。「神武天皇」などと言い出すと、先に進むよりもまずこの時点で、日本の古書である古事記や日本書紀などの歴史記述の上には誇張があるとの論争が始まることになる。
「神武天皇の存在などは証明できない」とか「○代目の○○天皇までの実在は立証できない」などという類の論である。
 同じ論者が、中国の古い文章に載っていること、聖書や類似のものに載っていることに対してはこんな形の反論はしない。外国の文書なら信用するが、日本の文書の歴史価値など問答無用の反論である。

 困ったもので、日本には明治開国以降、西欧万能の風潮が浸透して来て、何事も眺める上に、客観性を無視して在来の日本人的な思考や伝統を拒絶して、日本の価値を低評価し、西欧優先風に見る方が新しいなどと思いこんだ西欧かぶれがかなりに増えている。彼らは祖先たちが作り上げた自分の国に、評価すべき価値があったということを認めるのが、何より嫌いな連中なのだ。頭がそこまで歪んでしまった哀れな連中だ。

 私は今回、こんな風潮にまで深く係るつもりはない。建国記念日の根拠の論争、神話と考古学との立場の違いの論争などでは良く出てくる日本批判の国内風潮だが、日本人にはこんな連中が特に自分を知識人だと勝手に自分で思い込んでいる連中にきわめて多い。

 本来は日本の健全な発展のためにはこんなおかしな傾向にも反論することが大切なのだろうが、それは別の機会に譲って、ここはただ、天皇として最初に位につかれた方、そのお方を神武天皇とお呼びすることにして通り過ぎ、この論争は別の機会にしてもよいと思う。それで論を進めるのに少しも困らないからである。

 天皇制度は二千年以上の歴史が続いている。これだって二千六百何十年という皇紀の数え方にもこだわらない。記紀などに記されている神武天皇から第十代の崇神天皇の数百年間は空位説やこの間には、日本の古代史編纂時代に、書きたくなかった時代があったのを削除したのだなどという説もある。そのため日本の皇室の歴史も実際は数百年短いとか長いとかいう説もあるのだが、天皇制度がこの程度長かろうと短かろうと、この程度の長短で天皇の歴史が重くなったり軽くなったりすることはない。もうはるか昔の時代から、我々日本人は天皇制度とともに歩んできたのであるから。

 天皇制度は我々日本人の歩んできた二千年以上の長い歴史と重なって、ともに我が国の歴史を作ってきたものである。


 なぜ天皇制度は断絶しなかったのか

 世界の歴史を紐解いてみると、日本以外の国においても、日本の天皇制とよく似た祭祀王としての国王が国をまとめていたところは他にもいくつかある。ところがそれらはいずれも数百年の歴史を保ったのちに滅びていて、いずれもすでに歴史から消え去った過去の遺物にすぎない。日本のように古代から現代まで生き残っている制度は他にはない。

 日本の天皇制度は、当初は天皇御自身がこの日本をまとめられ、統治の実権を行使されてきたが、そのうち日本の社会に武家のグループが台頭し、日本の国の統治は、天皇に代わってその国の実力的な力を持った者が政治の実権を行使する時代になっても天皇は依然として権威あるものとして存在していたし、その権威は現代までも続いてきた。どんな時代であっても、日本には、天皇制度を廃棄して自らの独裁政治を実施しようとした者が出てくる時代が無かったのだ。

 実力を蓄えて日本を統一して政治の実務の実権を揮うものが出てきても、日本では実権者は天皇を倒してその権限を奪い取り、新しい権力者にとって代わろうとはしなかったのだ。日本において実力を得たものは、必ず天皇に申し出て、天皇から政治の俗務の権限を揮うことを認められてその地位についた。源氏の源頼朝、足利尊氏、徳川家康。みな朝廷から征夷大将軍の称号を授与されて政権を行使した。
 中には朝廷そのものの官制の関白や大臣名を戴いて政治を行った者もいる。

 それが日本のほかの国々と全く変わっていたところである。なぜそうだったのか。その背後には日本人の中にしっかり根付いている共通の信仰である神道があった。日本中が神道という共通の信仰を抱く者の集団であり、それら各地の信仰を一つにまとめる形で統一国家ができた。一つにまとまるまでは各地の同じような信仰の集団がそれぞれその地域をまとめる祭祀王によってまとめられていたのだろう。
 天皇は国を統一するとともに、その神道において、それぞれの地域の祭祀をつかさどってきた祭祀王をまとめた神々と人々の間をつなぐ「大祀り主」として均しく認められる存在となっていたのである。
「日本の国は神さまの時代から、神さまの子孫である天皇が、神さまに命ぜられて国民を統一して治め、祭りをされる国、そして天皇は、日本民族の長として、代々国民のために祭りを続ける重い役割を負っている神と相接する立場にいるのだ」という思い。これが国民一般に深く浸透して日本人の精神構造の核心となっていたからだったのだろう。

 この広い日本の人々が、そんな共通の意識を持っていたなどと書くと、現代に生活する我々が聞くと、極端な信仰的人間ならばともかく、日本人が等しくそう信じていたなどとは信じられないと思うかもしれない。だが、日本の地理的条件やそこに育った我々の生活は、そんな意識を作り上げていたのだ。それは日本全国の共通の信仰的特色であった神道の信仰とともに、我々の心にしみ込んでいた。


 他民族から侵略される危険もなく、穏やかで規則的に四季がめぐる肥沃な温帯モンスーンにある国土で農耕生活を営んできた日本人の祖先たちは、自らの生活を豊かにするためには自然の現象を司る神々に穏やかな実りを祈り、祭りをすることによってその恵みを願うことが最も大切なことだと信じて生きてきた。そして代々、同じように神々に全国民を代表して祭りを行ってきた信仰をまとめて引き受けたのが天皇だった。
 この日本人の感性は現代の我々にまで続いている。いまの我々の抱く皇室への意識もほとんどそれと変わらないし、今でも日本人はお正月になるとほとんどの国民が寿紙を迎える正月飾りをして、雑煮を食べて神社に初もうでに行くなど、神道的感性を濃厚に持って生きている。

 日本での古い時代からの奈良、京都などの古い朝廷のあとなどを見るとよい。明治になって新しく日本の首都になった東京の江戸城だけは、昔の徳川将軍の城あとであるから例外だが、奈良も京都もいずれもほとんど防衛などの施設も持たないものになっている。朝廷には国民の襲撃などに対する警戒の様子が見られない。天皇がこんなところに住んでいて危険を感ずることはなかったのだろうかと不思議に思う。
 これに反して武将として天皇からこの国土の統治の実を委ねられた将軍などは、いずれも堅牢な城に守られて暮らしている。これは何よりもはっきりと、天皇のお立場が日本においては奪い合う地位とは考えられていなかったことを示している。

 日本文化に最も大きな影響を与えた中国思想には、天は中国の天下は天の意を受けたものに王(治者)として民を支配する権限があると認めるとの思想がある。君主が徳を失って悪性を行ったとき、他のものが武力でこれを追放し(放伐=ほうばつ)その地位につくことは天が認めるという思想は中国孟子なども認める易姓革命の思想であったが、そのような思想に対し、日本ではその原則が適用されるのは日本においては、放伐される対象が万世一系の神と血縁的つながりを持っている天皇を対象にすべきではないという考え方が国民に支配的で、徳川幕府の朱子学など、漢学思想を基本とする学問までも、放伐論は天皇の権限に対してではなく、天下を政治的に支配する武将や将軍にあてるべきだと教えていた。

 神さまへの祀り主こそ中心なのだ

 人間の文化は日々進歩を蓄積し、人々の生活はそれにより大きく変わる。個人ばかりではない、家族も集落も、人々の集まる村も地方も国も変わる。そんな変化に応じて、時代とともに人間の営みも政治の形も変わってくる。
 日本は天皇や各地の集落を長(おさ)として祭りを行う社会から発展し、だんだん一つにまとめられた。また祭りばかりではない政治も行政も文化も、様々な面を、全体を天皇がまとめる形で、統一国家として建国された。そしてそれからしばらくの間、古代国家の時代は政治、文化、社会全般を天皇がすべての長になり、天皇は自ら神々に対しての民の幸福と豊作・除災などを祈る祭りを長としてやりながら、すべてを天皇の家来たちを使っていわゆる統治の政治を行ってきた。その政治は「まつりごと」といわれるように、古代においては地域の人々が集まって自然を司る神々に作物の豊作や災害・疾病・事故などを避ける祭りを行うと同時に、共同生活を円滑に行っていく上の様々な取り決めを神々がお眺めになっている場で行ったことの延長線上にあるような様々な取り決め、そして皆で共同して生活を守り、地域を整備していく上の取り決めのようなものであった。そしてそれらの指示は天皇の任命する天皇の部下・閣僚たちが当たっていた。

 しかし、そんな原始的な社会形態も文明が進化し、規模も大きくなると専用の部局を朝廷内に設けて、それぞれの政治の業務を分担する専門のスタッフによって行われるように変化していった。人々を世俗的に統治するような業務は専門化し大規模化し、いつしか天皇が自ら「余人に代わることができない」と専門に行ってきた神々に対する祭りより、より力を注がねばならない大きな仕事に発展していった。

 組織には朝廷にはそれらの任務を担当して行う専門の各種官僚が生じ、その官僚を統率する天皇の臣下である大臣などの役目も生まれ政府といえるような気候も生まれた。古代社会はそのようにして、大陸より学んだ律令制を取り入れるなど制度を整備し、より中央集権的国家の体をなすようになってくる。

 そんな変化の後に、地方組織や荘園の組織、その他さまざまな組織で自らの護衛にために採用した武士のグループが、その後、実力を得て来てただ使用人として護衛を担当する組織には満足せず、力をつけて天下の権を力でも支配できるような実力を持った勢力に成長してくる時代となってくる。

 彼らの力は腕力的には、在来の天下を統率してきた天皇制度と比べても力では上回るようになってくる。
 そんな時代になって新たに育った武士の権力者には、当然全国を自分の力で支配する政権を立てる欲望が生ずる。そこまでは世界のどこにでもある条件だ。だがここからは日本においては違っていた。そんな天下支配の夢を描いた日本の新興勢力は、天皇の権力を否定して、新たにそれを奪い取るのではなく、時の天皇に対して、ただ天下の世俗の政治の支配権を揮う俗権、天皇の本来持っていると国民が信じている祭祀大権に関する権限は神と天皇との定まった権限であるから遠慮して手をつけないで、神と国民の祭りの接点にいる天皇から、その他の俗権に関する権限。世俗の政治を行使する俗権のみを認めてほしいと要求するようになる。そして天皇はそれを認めて実力支配の権限を譲渡し、神に対する祭祀の大権や文明文化の束ね役である権限は保持することになった。

 これが日本の天皇制度を永続させる力となった。世俗の現実政治の実権は征夷大将軍なり摂政、左大臣などの称号をもらったものが行使する。しかし、祀りにおいて、神々に対していまの政治に対しての責任を負うお立場は、たとい武家政権が行使していても、天皇が本来の大権者として従来通り全責任を感じてまつりをする。たとい、いまの政治が天皇御自身の責任とはいえず、政権を譲ったといえる者の手によって行われていても、神に対する責任は、すべて神としっかりつながりを持つ天皇が負い続けるこんな制度ができたのだ。

 こんなやり方が日本では発達して、天皇の国民統合の祭祀の統率者、世俗政治以外の文化の代表者としての地位は継続することになった。

 世俗の政権は天皇からの任命という形式をとって日本の俗権の支配者としての権威を維持してきた。それは時には俗権行使者が行き詰って、天皇が直接俗務の実権を取り戻して行使されるような時代も交えながら、現代までも続いてきた。

 現代政治においても、首相は選挙で勝利したものが天皇の認証を受けて就任し実権を行使するが、彼も必ず天皇の前で天皇から任命されて、初めて首相として正式に認められる。二千年前の時代から、日本の世俗の政治責任者は、今でも天皇よりその部分の執行を認められる形が踏襲されている。

 そんな風に見てくると、日本の政治の在り方は、古代より、ほとんど変わらぬ形で繰り返されて現代に続いている。
 
(つづく)

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